27.ウォルフもひとりの人間なんだ。
降りしきる雨のなかウォルフはためらいもなく、うずくまる女のそばに膝をついた。視界がぐっと下がり、ぱしゃんと水たまりを踏む音がする。
一気に下がった視界が低いまま移動したことで、アネモネがウォルフの腕からおりて歩いたことがわかった。
ぱしゃぱしゃ、とちいさな足が水を跳ねて歩く。
跳ねあげられた水が嫌に黒いのは、暗さのせいだけではないと気がついた。
「ひどい出血だ。見たところ傷はなさそうだが……」
つぶやくウォルフが水たまりについた膝にも、黒い色は沁みていく。
陰鬱な色をした水たまりは、うつむいた女を囲うように広がっていた。
「ここ」
「アーネスフィア!」
注意深く観察するウォルフをよそに、アネモネは警戒心のかけらもなく女のそばにしゃがんだ。そして、ウォルフが止める間も無くふっくらした手を伸ばす。
「ここよ」
アネモネの手が伸びたのは、うずくまるように倒れた女の腹。わずかに立てられた膝と身体との間に伸びた幼い手は、女の腕に囲われたそこからちいさな塊を連れて戻ってきた。
「あかちゃん」
「ァア……ンァアア……」
少女の両手におさまってしまうほどちいさな赤ん坊は、弱々しいながらも泣いていた。雨にかき消されそうになりながらも、たよりない手足を動かしてもがいている。
雨に洗われるその身体には、女のしたに広がる水たまりと同じ色が残っていた。
「……生まれて間もないのか?」
裸の赤ん坊を前に絶句し、かたまっていたウォルフがうなるように言いながら赤ん坊を受け取った。すこし考え、くつろげた胸元に赤ん坊を抱えたウォルフが「あぁ……」と声をもらす。
そうだったのかと納得するような、なぜこんなことにと落胆するような声だった。
「この血は……出産のときのものか」
「よんでたの。あかちゃん、いるよって」
ウォルフを見上げたアネモネが言う。
「あかちゃん、しなないでって。だれか、ってよんでたの。だれかたすけて、って」
幼い声がつむぐのは、ぶつ切れのことば。
けれど、それで十分に伝わった。「そうか」とひと言だけつぶやいたウォルフは懐の布越しに赤ん坊をそっとなでる。弱々しい泣き声はまだ続いていた。
イクサもまた、アネモネの視界に映るものを見つめながら、聞こえた声を胸に刻む。
死なないで。助けて。
そう願われていたのだ。
会うことの叶わない母親から、そう願われていたのだ。
どこかにいると思っていた生みの親がどこにもいないとわかった悲しみと、要らないから捨てられたのだと思っていた気持ちを否定された喜びが入り混じる。
ーーー俺、要らなくなかったんだ。
涙は出なかった。
ただ、アネモネの目を通して知った過去が、胸の底のほうにじんわりと広がっていくのを感じる。
あたたかいようなやわらかいような、その感覚を覚えていようと意識を向けるイクサの耳に、ウォルフとアネモネのやり取りが聞こえてきた。
「かならず生かす。約束しよう」
「おとうと?」
物言わぬ女に向かって誓うようにつぶやくウォルフのひざに乗り上げて、アネモネが首をかしげる。
大柄なウォルフがしゃがんだくらいでは、ちいさなアネモネでは懐をのぞけないようだ。がっしりした胸元のわずかにふくらんだ箇所に手を伸ばし、布越しになでている。
わずかに動く布の向こうから、かすかな泣き声が聞こえてくる。
それを見下ろし、ウォルフがつぶやく。
「いや、里親を探す。確実に赤子を育て上げてくれる家を探すにはどうしたものか……」
ウォルフの若さ、アネモネの幼さから考えるにこのころのふたりは、東国から逃げてきて間がないのだろう。
頼れるものもなく、身を隠さなければならない状況のなか、ただでさえ幼いアネモネを連れたウォルフに、赤ん坊を引き取る余裕などないことはイクサにもわかる。
けれど、アネモネは引かない。
「このこもいっしょ」
「俺に赤子を育てる能力はない」
「おせわする」
「アーネスフィアがか。だが……」
渋い顔のウォルフをアネモネがじっと見上げる。
こんなに真っ直ぐウォルフを見つめたことなど、イクサにはなかった。逸らされてしまうのが怖くて、先に視線を外してばかりいたからだ。
今も、逸らしたい気持ちはある。けれどアネモネを介した視界は逸らすことも閉じることもイクサに許してくれない。
「やくそく、だれかにまかせちゃうの?」
「それは……」
アネモネが正面から見つめるその先で、ウォルフの視線がさまよい、伏せられた。精悍な顔に広がっているのは迷いと不安、だろうか。
こんなに自信なさそうなウォルフは、はじめてだった。
イクサが知っているのは、いつだってどっしりと構えたウォルフの姿だけ。
貧しい暮らしのなかでも愚痴のひとつもこぼさず前を向き、暴力沙汰になったときにはすこしの不安も見せずに対処する、頼れるおとなの姿だった。
ーーーそうか。ウォルフもひとりの人間なんだ。
十数年間そばで過ごしていたのに、気がついていなかった。ウォルフだって何もかもをたやすくこなせるわけではなくて、迷いもすれば不安も抱く。
イクサが黙って見上げていた背中は、背負えるものが限られていたのだ。
「……この赤子は」
「イクサ」
「なんだ?」
「このこ。イクサ。あかちゃんだけど、イクサなの」
きょとんと目を見開いたウォルフの顔は、油断と驚きに満ちている。そんな顔もはじめて見た。
「それは、この母親が言っているのか?」
「たぶんそう。たすけて、あかちゃん、イクサをたすけてって」
ぶつ切れのことばをつむぐ幼い声に、イクサの胸になにかがじわりと広がった。
ーーー命のほかには何ももらわずに捨てられたって、思ってたのに。
「イクサ」
懐に視線を落としたウォルフのくちが、母親から贈られたもうひとつを音にした。低い声がつむいたその名が、イクサのなかにじわりと染みる。
「イクサとウロボルフとアーネスフィア。さんにんですむの、ね?」
「……ああ、わかった。可能な限り力を尽くそう」
アネモネが念を押せば、ウォルフは観念したように目を閉じ答えた。無骨な手が懐のちいさなふくらみをこわごわとおさえているのが見える。
いつの間にか、赤ん坊の泣き声はやんでいた。




