26.……ここ、ウォルフの腕のなかだ。
夢を見ているのだと思った。
意識を手放したその先で、視界に映ったのは昔のチロックの町の姿だ。町長の屋敷にある時計塔が見える。時計塔はいまと変わらないけれど、屋敷のあちこちにあるはずの蒸気機関は見当たらない。
時計塔のまわりに広がる町並みもいまよりどこか寂れている。雨の降る通りはうす暗く、行き交うひとの姿もない。
そんななかを、イクサは進んでいた。
いや、進んでいるのはイクサではないのだろう。
体の自由が効かない。だれかの視点で町を見ているだけで、イクサがあたりを見回しているわけでも歩いているわけでもない。
だから、夢を見ているのだと思ったのだ。
「ウォルフ」
幼い声が聞こえた。
同時に、視界にちいさな子どもの手が映る。ふっくらとした指が、だれかの服をつかんで引っ張った。
「……なんだ」
低い声とともに見下ろしてきたのは、ウォルフだ。
雨避けのためだろう、外套のフードを目深にかかった彼は、長い前髪が目元にかかってわかりにくいがイクサが知る彼よりもだいぶ若い。青年と言える年齢のようだけれど、眼光の鋭さは変わらない。いや、いまよりも鋭いかもしれない。
見上げた視界のすぐそばにある顔の近さに、イクサは驚きながらも気がついた。
ーーーここ、ウォルフの腕のなかだ……。
視覚以外の感覚は伝わってこないため温もりもなにも感じないけれど、ウォルフとの視線の近さからそれがわかった。
だとすると、イクサが見ているのはアネモネの視界なのだろうか。
幼い子どもの声からは判断がつかない。イクサは体の自由も効かないため、あたりを見回すこともできず視界に入るものを見ることしかできない。
「ウォルフ、あっち」
幼い声が言って、ちいさな手が通りの暗がりを指差す。
雨の降る夕暮れ時なのだろう、誰もいない通りのさらに外れは、すでに闇に呑まれて陰鬱な気配を放っていた。
「寄り道はしない」
「や。あっち」
低い声ですっぱりと断られても、幼児は納得しない。
ウォルフの外套をしわくちゃになるほどしっかりとつかんで、執拗に暗がりを指差している。
ーーーアネモネ、ちいさいころから物怖じしなかったんだなあ。
妙に感心しながらふたりの会話を聞いていると、ウォルフがため息をついた。このころから、ウォルフはアネモネの言うことに逆らえなかったのだと思うと、なんだかおかしくなる。
「厄介ごとはごめんだぞ」
疲れたようなウォルフの声とともに、視界が移動していく。風を切るようなその移動の速さはウォルフの足取りの速さそのままなのだろう。
アネモネの視点で見ていたイクサは、ふと気がついた。
ーーーこれがウォルフのふつうの速さなら、子どもが走ったところで追いつけるわけないよな。
ぐんぐん流れる視界の速さは、いまのイクサが小走りしたくらいだろう。
それはつまり、幼いイクサが必死に追いかけていたころには、ウォルフなりに子どもの足に合わせてくれていたということなのだろうか。
イクサがそうあってほしいと思っているだけなのかもしれない。真実を聞いたところで、ウォルフはきっと答えてはくれないだろう。
ただ、イクサはその思いつきをそっと胸にしまった。
「あっち」
「どこへ行く」
ぼうっとしている間にも、幼い指先は細い通りの先を指差してウォルフをどこかへ案内する。
「こっち」
「まだか」
降り続く雨で視界が悪い。重くたれこめる雲のせいで明かりも乏しい。そのうえアネモネは路地の暗いほう、暗いほうへと進ませるものだからあたりはどんどん闇に呑まれていく。
「おい、いい加減に……」
いよいよ幼児の指示に従うことに苛立ちだしたのだろう。足を止めたウォルフはアネモネを見下ろして、なぜか目を見開いた。
「その瞳は……!」
驚きのこもったつぶやきをもらしたウォルフに、アネモネの視界がこてりと傾く。彼のことばの意味をまだ知らないのだろうか。
きっと、ウォルフの視界に映るアネモネの瞳は、金色に輝いているのだろう。イクサがこの夢を見る前に目にしたように。
「……アーネスフィア、案内を続けてくれ」
「ん」
ウォルフが何かを覚悟したようにアネモネの本当の名前を呼んだとき、アネモネはすぐそばの曲がり角を指差した。
そのとき、降り続く雨音の向こうにかすかな声が聞こえてくるのに気がついた。ウォルフにも聞こえたのだろう。
アネモネが指差したほうを向いて眉を寄せたウォルフは、足を早めた。
「……ァア、ンァア」
一歩進むごとに、声が大きくなる。
それは雨にかき消されてしまいそうなほど、弱く頼りない。
けれど確かに、聞こえてきていた。
「赤子の声か!」
ウォルフがうなるように言った直後、視界がぐんと飛び過ぎる。走っているのだろう。アネモネの身体にしっかりまわされた腕と、それでもはずむ視界に驚いたのは一瞬。
ぴたりと止まった視界を桃色の髪がふわりと流れた、その先に見えたのは小柄な人影。
暗い通りの深い暗がりで、壁に寄りかかるようにしてうずくまったそのひとは、雨に濡れた長い髪の毛が貼り付いているせいで顔が見えない。
けれど、その髪の色に見覚えがあった。
雨に濡れていくらか濃く見えるけれど、乾いていたならきっと日に焼けた石のように乾いた灰色をしているはずだ。
イクサには確信があった。
なぜなら、それは見慣れた色だから。
このところ起きるたび、きちんと整えろとやかましく言われて渋々向き合う鏡のなかで、毎朝、見ている色だったからだ。
ーーーあのひと、俺の母親だ……。
変に静かな頭のなかで、イクサが考えられたのはそれだけだった。
うずくまる人影を前にして、ウォルフもアネモネも何も言わずに立ち尽くしている。
動かない視界のなか、イクサはひたすらに人影を見つめるけれど、彼女はぴくりとも動かない。すぐそばに立ったウォルフたちに気がつかないわけはないのに、黙ってうずくまったまま。
その意味するところがわかってしまって、けれどわかりたくなくて、イクサは壁に寄りかかるそのひとが動くのを待っていた。
暗闇に呑まれそうな町のなか、赤ん坊の姿は見えない。
ただ、途切れそうな鳴き声だけが、雨にかき消されながらも聞こえていた。




