25.「あんなに、怖かったのになあ……」
にぎやかな声が遠ざかり、食堂はしんと静かになった。
まるで森のそばの墓守の家にいるかのような静けさのなか、イクサがぼうっとランタナのことばを思い出していると、誰かがたしたしと肩をたたく。
「ナンナーン」
目があったナナンが良かったね、と言うように明るい鳴き声をあげた。
その声を合図にしたかのように、アネモネが歩み寄ってくる。左右の手にはアネモネとウォルフふたりぶんのカップを持っている。
「カップ、どこに運んだらいい? 片付けたらタイムたちをお迎えに行かなきゃ」
「あー、運んどく。洗うのは蒸気食洗機に入れとけばいいから」
聞きなれないことばに首をかしげるアネモネからカップを受け取って、ワゴンに乗せる。ついでにエールメリアたちのぶんも回収して、隣室の蒸気食洗機に放り込んだ。
扉を閉めてボタンを押せば、あとは勝手に洗ってくれる。高温の蒸気で洗浄するらしいので、洗い終えたものは放っておけば勝手に乾いてくれる。
これを量産できれば値段も下がって一般家庭にも普及できるんだけど……とエリスアレスが唸っていた一品だ。
しばらくここで過ごして、この屋敷に蒸気機関が多いのは、彼女が試作品を積極的に取り入れるためだとわかってきた。
「今日はもう仕事も終わりだから、タイムとデイジーのところ行く?」
「ああ」
「お願いできる?」
立ち上がったウォルフにアネモネが並ぶ。イクサが先導して自動昇降機を操作したり扉を開け閉めして屋敷の外まで案内した。
昼を過ぎた空は青さよりも白さが目につく。地下水から作られた蒸気が乾いた風と混ざり合い、人びとの楽しげな声を空へと巻き上げる。
「丘のほうに向かってずっと行った、町外れの家にタイムとデイジーがいる」
「そうか」
町長の屋敷を出てすぐそう説明をすれば、ウォルフが先に立って歩き出しアネモネはその横に並ぶ。人でごった返す町の中、イクサはふたりの後ろをついていく。
ずっと、変わらない立ち位置だ。
かつてはウォルフの腕にアネモネが抱えられていた。物心ついたころのイクサは前を行くウォルフの背中を見上げながら必死で歩いていた。
アネモネが大きくなるとウォルフと手をつないでいた。すこし大きくなったイクサはふたりの背中を見ながら遅れないように歩いていた。
いまは、並んで歩くふたりを眺めながら、すこし離れて歩く。
ウォルフのほうがまだまだ背は高いけれど、いつからか見上げなくても彼の背中を視界におさめることができた。
「もうこれからは、町にも自由に出入りできるね」
「ああ」
「ウォルフは町でお仕事を探す? わたしは森の家も気に入っているんだけど」
「そうだな……力仕事なら雇ってもらえるかもしれん。しかし、当分は墓場から通うことになるだろうな」
雑踏に紛れそうなふたりの声を聞きながら、後を追う。通り過ぎるひとの波にその背が隠れても、イクサの胸はざわめかない。
肩に立ってあたりを見回すナナンの毛皮をなでる余裕だってある。
「あんなに、置いていかれるのが怖かったのになあ……」
幼い自分を思えば、未だに胸のどこかがじくりと痛む。けれどいまのイクサは、遠くに見えるふたりの背中に焦りや不安を覚えることはなくなっていた。
いつの間にあの気持ちは遠ざかったのだろう。
ぼんやり考えながら歩くけれど、イクサにはわからない。
通り過ぎるひとごみのなかの親子を目にしても、胸に冷たい風が吹き込むようなさみしさは覚える、けれど痛みはない。
ーーーそうか、俺はずっとさみしかったのか。
ちいさな自分がずっと抱えていた気持ちに名前がついて、イクサのなかにすとんと落ちた。
名前を得た感情は、どこにおさまったのだろう。どうして、いつの間に痛みを伴わなくなったのだろう。
考えながらしばらく行くうちに、人通りが減ってきた。町の外れに近づいているのだろう。
すり抜ける障害物がなくなると、自然にふたりとの距離が縮まっていく。大柄なウォルフの一歩はイクサの歩幅よりも広いけれど、その裾をつまんで歩くアネモネの一歩はイクサよりも狭い。
ーーーそうやって掴めば良かったのか。
待って、と言えなかったちいさなイクサが、ウォルフの服の裾を掴んだなら、彼は歩みを遅くしてくれたのかもしれない。
言わなければ伝わらないけれど、言えなくても伝えられたのかもしれない。
気がついたところで、もういまさらだ。
イクサはもう置いていかれることに怯えないし、はぐれたとしても泣かない。
そこまで考えて、イクサは気がついた。
ーーーああ、そうか。俺はもう、見つけたんだ。
胸が痛まなくなって、はぐれることに怯えなくなった理由に気がついたとき。
ふと立ち止まったアネモネが振り向いて、イクサを見つめてくちを開く。
「もう……言ってもいいよね?」
「……ああ。東国が変わったというのなら、隠す必要もないだろう。無闇と吹聴する話でもないが」
ふたりのやり取りの内容がわからない。
けれどそんなのはこれまでもよくあることだったので、気にならない。
ただ、立ち止まったふたりに首をかしげていれば、アネモネがたたっとかけ戻ってきた。
「どうかしたのーーー」
「イクサ。少しだけ、額を貸して」
問いかけたイクサをさえぎり、アネモネの顔がぐっと近づいてくる。ナナンはなにを察したのか、イクサの肩からひょいと飛び降りている。
驚いて身を引くよりも早く、彼女の額がイクサの額にこつりとぶつかった。
「なに……?」
なにをするんだ、と言う前に桃色の髪がふわりとほほに触れて、イクサの視界がぶれる。
ほこりっぽい町の景色がじわりと溶けた。耳に届いていたはずの祭りの騒ぎが遠くなる。
眠りにつくときのように沈んでいく意識のなかで、ナナンの声が聞こえる。
「ンナーン」
心配ないよと言うように鳴くその声に、強張りかけた体の力を抜いて、イクサの意識は遠ざかる。
ーーーアネモネの瞳……金色できれいだな……。
溶けていく景色のなか、きらめいて見えるアネモネの瞳を見つめ返しながらイクサは意識を手放した。




