6.「はやく帰って布団をあたためてやりたい」
もきゅもきゅと食べるナナンを見守ること、しばし。
「ふあ〜あ……あ、食べたか」
あくびついでにナナンに目をやったイクサは、空になった皿をてちてちと舐める姿を見つけた。
傾いてきた陽に照らされてナナンの額の石がきらりと光る。のんびりとしているうちにけっこうな時間が経っていたらしい。
錆色の丘は夕陽に染まって、いよいよ赤一色になっていた。
この時間でナナンもイクサに慣れたようで、もはやイクサが立ち上がっても逃げるそぶりはない。
イクサを見上げて「キュウ?」と鳴き小首をかしげる姿には、緊張感などかけらもない。
これなら捕獲して連れ帰れそうだ。けれど、捕まえようとすれば逃げるかもしれない。
「……えっと、お前のこと待ってるひとがいるんだけど、いっしょに帰る?」
どうしたものかと考えたイクサは、正直に聞いてみることにした。
ことばが伝わるとは思わないが、動物は人間の気持ちに敏感だと経験から知っている。敵意がないことを伝えるには、声に出すのが手っ取り早い。
「キューワ!」
うれしそうに鳴く声は、なにを言っているのやら。
わからないけれど、もう手を出しても大丈夫だと踏んだイクサはそっとナナンを抱き上げた。
腕のなかできょとんとしていたナナンは、鼻をふすふすと鳴らしてイクサの腕を軽やかに登る。
「あっ、おい」
止める間も無くイクサを登ったナナンは、肩や頭を行ったり来たりした挙句、イクサの肩に落ち着いた。
「キュ、キュ!」
たしたし、と肩を叩いて鳴くのはどういう意図だろうか。
なんだかわからないが逃げないなら何でもいいや、とイクサは伸びをした。
ナナンの青い毛並みはひと目をひくだろうから、肩に乗せたまま布をかぶせてみた。料理屋の女将が持たせてくれた皿を包んでいた布だ。皿といっしょに洗って返さなければ。
「あー、はやく帰りたい。帰って布団をあたためてやりたいな」
ぼやきながら丘をくだっていたイクサが瓦礫の合間をぬって開けた場所に出た、そのときイクサの足元に長く伸びた影が落ちた。
「なんだぁ? こんなとこで子どもがひとりで冒険ごっこか?」
声をあげたのは、町から登ってきた男だ。破落戸と呼んでも差し支えない煤けた衣服をまとっている。
薄汚い服に身を包んだ男はもうひとり。ふたりの男たちが丘を登り、やってきた。
その手に荷物がないのを見るに、不用品の投棄ではないようだ。
イクサがどこかで見たような顔だな、そう思っていると相手も同じように思っていたらしい。片眉をあげてイクサをにらむように眺め回す。
「ああ? おまえ、さっきの飯屋のガキか?」
「あー、あんたら、店で飲んでたひとたちだ」
男のひとりが言って、イクサもようやく思い出した。
お互いに相手を思い出したところで、次に気になることはひとつ。
「おまえ、なんだってこんな何もねえところに居るんだ」
それ俺も聞こうと思ってた、とは言わずに、イクサはうんうん、とうなずいた。
「そうなんだよ。何もないし誰も来ないから、昼寝にちょうど良くってさ」
嘘ではないがまるっきり真実でもない返事をしたイクサに、男たちは納得したらしい。
一方は呆れたような表情になり、もう一方は苦笑を浮かべてイクサを見る。
「なんだ、仕事さぼってんのか」
「若いうちからそんなんじゃ、先が思いやられるな」
どうやらイクサはいつも料理屋で働いているものと思われたらしい。解く必要もない誤解であり、説明するのも面倒なのでイクサはへらりと笑っておく。
「あー、それよく言われる」
これも本当のことだ。いつだって可能な限りだらけているイクサを見て、あれこれ言ってくる大人は後を絶たない。
現に、男たちも呆れを強くしてイクサへの警戒を解いたようだった。
「まったく。さっさと店に戻っちまえ。おれたちゃお前と違って暇じゃねえんだ」
「はいはい。それじゃ」
猫の子を追い払うようにしっしと手を振られて、イクサは素直に男たちに背を向けた。
不自然にならないように、慌ててしまわないように気を配って歩き去ろうとした、そのとき。
「キュウー……」
かすかな鳴き声とともに、イクサの肩にかかった布がもぞりと動いた。
ぴたりと脚を止めたイクサの背中に、男たちの視線が注がれる。
「おい、坊主。その布とって見せろ」
一段、低くなった男の声を受けてイクサが考えたのはほんの数秒。
どう言い訳をしようかと考えたが、すぐに面倒になって駆け出した。
「あ! 逃げたぞあのガキ!」
「おい、待て!」
待てと言われて待つほど、イクサは素直に育っていない。
ナナンが落ちないよう肩に被せた布を両手で握り、手近な瓦礫の影に駆けこんで男たちの視界から姿を隠す。
「ナナン、ひとりで町長の家に……」
「ナァン?」
「帰れないな……」
言いかけて、返ってきた声の緊張感の無さにイクサは力が抜ける。
もし捕まったとしてもイクサひとりならば、痛めつけられるだけで済むだろう。最悪、命を取られたとしても裏門番の老女の家が草だらけになって、道具屋の店主がひとりで倉庫整理をすることになるだけだ。
けれど、ナナンが町長の家にたどり着けないのならば、逃がしたところで意味はない。
「はあ、連れて帰るまでが仕事か。めんどくさい」
ぼやきながらイクサは丘を下っていく。
錆びたガラクタに身を隠し、男たちの怒声が遠ざかればわざとちらりと姿を見せる。
「いたぞ、あっちだ!」と声が聞こえれば急な斜面を滑り降りて、また瓦礫に身を隠す。
隠れながら丘を降り、どうにか撒けるだろうか、と息を切らしたイクサが最後の坂道に向かった、そのとき。
「見つけたぞ!」
「っぐう!」
坂の上から飛び降りてきた男の蹴りがまともに入り、イクサは吹き飛ばされた。
「キュウッ」
赤錆びた地面のうえを転がるうちに、首元にまいた布から青色の獣がこぼれ出る。
悲鳴のように短く鳴いたナナンがほてり、と着地したのを見て、イクサは倒れたままほっと息をついた。
「なぁーに獣の心配してるんだあ?」
「がっ!」
ナナンを映していた視界が強制的に切り替わる。
冷たい目をした男に見下ろされて、蹴って仰向けにさせられたのだとわかった。
「キューイ! キュイッ」
ぼやけた視界の端でナナンが鳴いている。逃げればいいのに、イクサを心配して駆け寄ろうとしたその首に、もうひとりの男の手が伸びた。
「キュアアァ!」
「へへ、そう暴れんなよ。お前は大事な金づるだ。傷つけやしねえからな」
首根っこをつかんで宙吊りにされたナナンが、キュイキュイ鳴いて暴れている。
明らかに嫌がっているのに、男たちの顔に浮かぶのはにやにやといやらしい笑いだ。
ナナンだけでもなんとかしなければ。
イクサは痛む腕を動かして、そろりと腰の回転式拳銃に手を伸ばした。




