18.「驚かせて悪かった。もう怖くない」
ウォルフににらまれたディーエは、負けじと彼をにらみかえす。その手はいつの間にか腰の剣に添えられていて、一瞬でも隙があれば斬りかかろうと構えているのがわかった。
しんと静まった玄関ホールに聞こえるのは、壁の向こうの蒸気の音だけ。
ぴりぴりとした空気のなか、イクサがディーエの剣の前に立とうと動くより先に、幼い泣き声が爆発した。
「ふやあああああ! ぎゃあああん!」
「ナオ! しいっ、ね、泣かないで、泣かないで!」
緊迫した空気を感じて目を覚ましてしまったのか。リサの腕のなかでナオが顔を真っ赤にしている。
反り返り泣きじゃくる我が子を抱えたリサは必死にナオをなだめようと声をかけ抱えた腕を揺らしている。
リサの顔色が悪いのは、我が子に怒りの矛先が向くことを恐れているのだろう。
そこへパンパン! と泣き声を上回る乾いた音が響いた。
発生源はエールメリアの白い手だ。
「ここでにらみ合っていても、面白くありません。何でも屋、町長の屋敷の鍵はお持ちですか?」
「んん、あー、ある。スペアキーだけど預かってる」
打ち鳴らした手のひらを合わせたままのエールメリアにたずねられて、イクサはポケットを漁った。
高速走行の際にも落ちずにいたようで、指先に硬い感触を感じながらうなずけばエールメリアは満足そうに微笑んだ。
「では、行きましょう。ディーエ、柄から手を離しなさい。そこの……ウォルフでしたか? あなたとお姉さまもご一緒してお話ししましょう」
「はいはい」
言われるがままディーエが手を下ろせば、ウォルフもまた構えを解いた。すぐにがしがしと髪の毛をかき混ぜるものだから、わずかに見えていた顔はすっかりいつも通り隠れてしまう。それでも不機嫌さをにじみ出していた。
「郵便屋のみなさま、お騒がせいたしました。見送りは結構ですので、どうぞ職務にお戻りください」
優雅に言って微笑んだエールメリアに、男性職員とリサは「あ、はい。ありがとうございます」と頭を下げている。
偉そうだなあ、と思ってしまったイクサはそういえば偉いのか、と思い出しながらリサに近づいた。
「ナオ、驚かせて悪かった。もう怖くない。リサもいっしょにいる、泣かなくていい」
リサの腕のなかでまだ泣いているナオの胸をとんとん、と手のひらで叩く。伸びて来たちいさな手に指を握られるのをそのままにしていれば、ナオはじきに泣き止んだ。
「リサ、今日は本当に助かった。あんたに世話になったこと、町長にも伝えておくから」
「ふふ、ありがとう。でもいいの。これがあたしの仕事だもの。また、ナオとも遊んでね」
「あー、まあ暇なときに行く、かも」
イクサが曖昧に答えると、リサの腕のなかで「きゃあ!」とうれしげな声が上がった。
視線を落とせば、早くも機嫌を直したナオが涙の痕の残る顔ではしゃいでいる。振り回される指をそっと取り返したイクサは、すでに扉の外に向かったエールメリアたちを追って郵便屋を後にした。
郵便屋から町長の屋敷まではそう離れていない。
けれども、今日は文字通りのお祭り騒ぎのため町の中心部は大変なにぎわいを見せている。
ひとで溢れた通りのはし、通り過ぎるひとの邪魔にならない箇所にディーエが立っていた。その横では、エールメリアが物珍しそうに町を眺めている。
東国のふたりとすこし距離を置いて、腕を組んだウォルフとアネモネがいた。ウォルフは腕を組んで郵便屋の壁にもたれかかっており、アネモネは不安げな顔で通りを見回している。
「あの子たち……どこかで迷子になってるのかしら」
郵便屋の外で待っていたアネモネが、行き交う人々を見つめて眉を寄せた。
通りを歩くひとは誰もが笑顔を浮かべている。そのなかで不安げな顔をして佇むアネモネはひどく頼りなく見えた。まるで、雨のなか折れてしまいそうな花のようだ。
「あー、そうだった。タイムとデイジーなら、俺の知り合いに預かってもらってる」
「えっ」
「何だと?」
イクサのひとことで、アネモネの顔がぱっと明るくなる。
アネモネの隣で腕を組んで立っていたウォルフも、ずいと一歩踏み出してきた。
ぼさぼさの髪のしたからの圧力を感じて、イクサは思わず後ずさる。
「えーと。あいつら今朝、町長の屋敷に来たんだ。祭りを案内しろ、って言ってきたけど俺は仕事があるから、知り合いのところで待つようにって」
「あいつら……」
肩を落としたウォルフに対して、アネモネは表情を険しくした。いつもはおっとりと垂れている目がきゅっと持ち上がると、エールメリアにますます似て見える。
「イクサ、お仕事が終わったらふたりのところに案内してね? きちんとお話しておかなきゃいけないもの、ね?」
「んん、おー……」
同意を求められたイクサは、アネモネの妙な迫力に押されてうなずく。けれど、移動中にあたりを珍しそうに見まわしていた子どもたちの目の輝きを思い出して、ついくちを出した。
「あー、まあ、そんなに叱らないでやってほしいんだけど。そりゃ勝手にこんな遠くまで来たのは問題だけど、祭りには連れてってやってほしいんだ」
仕事が終わり次第、イクサがタイムとデイジーを連れて祭りに行くつもりだったけれど。保護者であるウォルフとアネモネに禁止されてしまえば、それも叶わない。
言いつけを破って遠い道のりを越えてきてまでも見たいと願った祭りの空気を味わえずに連れ帰られるふたりを思うと、イクサはなんとも言えず胸がざわめくのだ。
「もう、イクサは本当にやさしいのね。でも、お祭りに行ってる余裕があるかどうか……」
困ったように笑ったアネモネが、ちらりとエールメリアたちに視線を向けた。
通りの賑わいに目を向けていたエールメリアは、アネモネと目が合うときょとんとした顔をしてからにこりと笑う。
「道ばたで長話だなんて、久方ぶりの再会にふさわしくありません。落ち着いてお話できる場所に移動いたしましょう。もっとも、そのように身構える必要はないと思いますけれど」
エールメリアとディーエのほうでは、こちらの知らない色々な事情が共有されているらしい。
ディーエも軽く肩をすくめて「行こう」と促してきた。




