11.「これ、車? でも、車輪がふたつしかない」
意外なほどあっさりと引き受けられた頼みに、イクサは思わずぽかんとした。
そのあいだに老女は家の扉を開けて子どもたちを手招きする。タイムとデイジーはわれ先にと老女の家の扉をくぐっていった。
「うわあ! この椅子、きしまねえ! 見ろよ、イクサ!」
「ペンキ、きれい。お花の絵、すてきね?」
あわてて追いかけたイクサは、ひとの家のなかでさっそくはしゃぐ子どもたちを見つけた。
タイムは肘置き付きの立派な椅子に腰かけて、体を揺らして遊んでいる。デイジーは背もたれのない丸椅子の座面に描かれた華やかな絵をのぞきこんでいる。
「おや、デイジーは花が好きかい?」
「好き。でも花だけじゃなくて、いろんな色があるのがすてき」
問われたデイジーがかすかにうなずけば、老女はふむ、とうなずいた。
「だったら、ちょうど表の椅子を塗り直そうと思ってたところだから、いっしょにしてみるかい?」
「え! ペンキってべたって塗るだけじゃねえの? 楽しそう! オレもやりたい!」
「ああ、やりたいならやりな。その代わり、準備も片付けも手伝うんだよ」
飛び跳ねて喜ぶタイムを促して老女はペンキ塗りの準備をはじめさせた。デイジーも言われるまま、タイムの後をついていき隣の部屋にあるというペンキを取りに行く。
老女の見事な子どもたちの使いこなしっぷりに、イクサは驚き見入ってしまった。
「何でも屋、あんたは仕事があるんじゃないのかい?」
老女に声をかけられてはっと我に返ったイクサは、これなら大丈夫そうだ、と家の外に引き返しかけて足を止めた。
「なんだい?」
「……どうして、すぐに頼みを聞いてくれたのかと思って」
うながされるまま思っていたことを答えれば、老女は「なんだそんなことかい」と鼻で笑う。
「あんただけじゃない。馬車の御者もきょうは祭りで稼ぎ時なのに、礼がしたいだとか言って助けてくれて」
老女は単に子ども好きだったのかもしれない。けれど御者の男は、なぜなのだろう。はじめは断ろうとしていたはずなのに、イクサが何でも屋だと気が付くとむしろ乗り気で引き受けてくれた。
その理由を考えているのにわからなくて、戸惑うイクサに老女はあきれたようにため息をつく。
「そんなこともわからないのかい。そりゃあんたがこれまでこの町で真っ当に働いてきたおかげってもんさ」
「そりゃあ、仕事だから真面目にするのは当たり前―――」
「馬鹿だねえ」
心底あきれたような老女の声音に、イクサは困惑する。
そんなイクサに気が付いたのか、老女はあきれを引っ込めて緩く笑った。
「あんた、草むしりを頼んだら、すっかり取りきっちまうまで何日でも通ってくるだろう」
「うん? あー、だって草むしりを引き受けたんだから、終わるまで来るだろ」
老女のことばに当然だ、とうなずけば、なぜか彼女は苦笑した。
「ふつうはね、一日だけ来てざっと全体の草を取って帰っちまうんだよ。少なくとも、あんたより前に草むしりに来た連中はそうだった。そのくせ賃金はあんたと同じ、草むしり一回ぶんだ」
「んー? うん、そうなのか」
そんなものなのか、と新しい常識を手に入れたイクサがうなずけば、老女はまた苦笑する。
なぜ笑われるのかわからなくて首をかしげたイクサに、老女はやれやれと肩をすくめた。
「つまり、あんたの仕事に感謝してるってことさ。おおかたその御者とやらも、そうなんだろうさ。せいぜい感謝されてればいいのさ」
そう言って、老女はひらひらとイクサに手を振る。
「さ、もう行きな。子どもらの面倒は引き受けるから。何なら明日まで預かったっていい。どうせ祭りに行ったって疲れちまうだけの年寄りにはちょうどいい、たまにはにぎやかに過ごさせてもらうよ」
老女に追い立てられるようにして家を出たイクサは、どうにも彼女の言いたいことがわからないまま、御者と別れたところまで歩く。
すると「お!」と声をあげる者がいる。見れば、家の角を曲がった御者がこちらに向かってくるところだった。
「待たせたか? 悪いな、借りるのに時間かかってよ」
「借りる……?」
イクサの目の前で馬車を止めた男は御者台から降りて、イクサを手招く。
呼ばれるままに移動して馬車の荷台に目をやったイクサは目を丸くした。
「これ、車? でも、車輪がふたつしかない……」
「ああ。知り合いの蒸気技師が開発中の乗り物でな。蒸気二輪車っていうんだってよ」
イクサが見上げた先、無人の馬車の荷台には二本の車輪だけで立つ蒸気機関が乗っていた。前のタイヤの上に横長の棒が付き出ているのは、持ち手だろうか。ふたつの車輪の間に作られた座面の下部に詰め込まれた蒸気機関は、イクサが知るそれよりもずいぶんと小ぶりだ。
車輪の上には、跳ね上げた泥を防ぐためだろうか、車輪の形に添ってカーブを描いた板が取り付けられている。
ふたつの車輪と中央の蒸気機関。たったそれだけで構成されたシンプルなその乗り物は、バッタに似ているな、とぼんやり眺める。
「ええと、ここをこうして……」
イクサがぼうっとしているうちに、御者は荷台から板きれを使って蒸気二輪車を下ろしていた。
蒸気機関をかちゃかちゃといじり、持ち手のあたりを触ると、どうっと音を立てて蒸気機関が動き出す。
「お、動いた動いた。あとは、ここに馬に乗るみたいにまたがって。それで、この持ち手、ハンドルの右側を下に回すと……」
ドゥン、ドルンドゥンドゥンッ。
御者がハンドルを回せば、蒸気機関が勇ましい音を立てる。
にかっと笑った御者はイクサを手招きして、蒸気二輪車に乗るようにうながしてきた。
「こんな、立派なもの……」
「いーんだよ。むしろ試運転してくれるやつを探してたらしくてな。何でも屋なら身体も軽いし、うってつけだろ。どこに行くか知らんが、これならうまくすれば山道でもどこでも登れるらしいからな」
蒸気機関は高価だ。何の証文もなくイクサが借りるわけにはいかない。
そう断ろうと思ったとき、イクサは御者の男がにこにこと嬉しそうに笑っているのに気が付いた。
「これならあんたの役にたてそうかい?」
「……ああ。すごく助かる。その、ありがとう」
言おうと思っていたことばを飲み込んで、イクサは感謝をくちにする。
返ってきた笑顔がまぶしくて、視線を逸らしたイクサの胸は、なんだかもぞもぞと落ち着かなかった。




