7.「もう平気だ。怪我は治った」
やたらと質のいいシャツにしわはない。
しっかりした生地に細かな装飾のされたベストにも汚れはない。やわらかなベルトはあまり過ぎることもなく、腰の横でおさまっている。
すこし跳ねた髪の毛をつまんで引っ張り、イクサは身支度を終えた。
「あら、似合うじゃない。シンプルだけれど、悪くないわ」
着替えたら来るように、と言われていた町長の屋敷の一階に降りると、玄関扉のそばに立っていたエリスアレスが開口一番にイクサの恰好をほめてくれる。
そう言う彼女自身も今日はいつもよりきらびやかなドレスを身にまとっているが、イクサにほめことばなど期待されていないだろうから黙ってうなずいておいた。
「お前が貧相すぎるせいでジャケットが似合わないんだ。もっと肉をつけろ。まじめに食事をとれ」
エリスアレスはほめてくれたが、ランタナとしては納得できないらしい。
近寄るなりイクサの頭に何やら塗りつけて、撫で付けていく。やけにすうすうする額に髪をいじろうとすれば「触らない!」と怒られてしまった。
「前よりは食べてる。今朝もじゃが芋食べたし」
「芋ひとつに茶を飲んだだけだろう。お嬢さまは芋二つにベーコンと野菜のスープと目玉焼きも召し上がられたんだぞ」
ちいさく反論してみるも、あっけなく返り討ちにあう。
そして、ぷくりと頬を膨らませたエリスアレスまでもがじっとりとした目を向けてくる。
「なんだかわたしが大食らいのように聞こえるじゃない」
「いや、俺そんなこと–––」
「お嬢さまは運動量に見合った食事をお摂りになっています。この男が足りていないだけです」
イクサの弁明をさえぎったのはランタナだ。常にきちりとした服装をしたランタナも、本日はなんとなくきらびやかさが増している。
「ナナンさまも、適度にお食事をなさって適度に運動されているおかげで本日も麗しい御髪ですね。リボンもよくお似合いです」
「ンナン!」
ぱさり、としっぽを振るナナンも本日は新調した銀のリボンを首に巻いていた。毛並みはつやつやを通り越してつやっつやになるまでくしけずられ、ナナンなりに目いっぱいめかし込んでいる。
「ナナン、乗るか?」
イクサが声をかければ、ナナンはうれしそうにぱっと顔を輝かせた。
けれど、はっとしたように動きを止めてそわそわとイクサの足元を練り歩く。
「もう平気だ。怪我は治った」
ナナンがイクサに飛び乗るのをためらうようになったのは、まだ痛む傷を黙って耐えていたときのこと。
いまではすっかり痛みもなくなり、傷痕が残るだけだ。
そう何度も説明しているのに、ナナンは不安そうに見上げてくるばかり。
「ナナンさま。この男は本心を明かしませんが、今度ばかりは嘘ではありません。医者の診断もありますし、私も何度も問い詰めましたので、あなたさまが気を悩ませることはなくなりました」
「キューイ……?」
ひざまずいたランタナのことばに、ナナンはまるで「ほんとう?」とでもいうように空を見上げた。
途端に、きりりとしていたランタナが「うっ!」とうめきながらもどうにかうなずく。
「あなたさまのお美しさに誓いまして……ああ、困り顔の上目づかいがなんと愛らしいことか!」
ランタナのくちからナナンをたたえる言葉が流れるように湧いて出る。よくもそんなにたくさんのほめ言葉が出るものだなあ、とイクサは感心するが、肝心のナナンは落ち着かなげに視線をさまよわせている。飽きたのだろうか。
「はいはい、ランタナ。あなたが美辞麗句を並べるのは構わないけれど、そのせいで東国の使者のお迎えに遅れたらどうするの?」
「お待たせして申し訳ありません、お嬢さま。イクサ、こういうときはまずお前が諌めろ」
エリスアレスのひとことでランタナはすっと立ち上がる。
墓守の家に行ってからこっち、ランタナはときどきやさしいような気もするが、基本的にはイクサに対してのみ理不尽だ。
「あんたが聞くなら言うよ」
「お前の言うは『時間だ』とか『そろそろ行こう』がせいぜいだろう。それで私の耳に届くと思うのか?」
いちおうくちを出してはみるものの、ランタナは「何を言っている」といわんばかりに堂々と反論する。
なぜこんなにも偉そうなのか、イクサには理解できない。
「まあ、無理でしょうねえ」
エリスアレスも呆れたように肩をすくめていて、やはり理不尽だ、とイクサは思う。
「ンナン!」
わいわいと騒がしい主従を眺めていると、ナナンがイクサのスラックスの裾をくわえて引っ張った。
「どうした?」
「ナンナーン」
ぐいぐいと引っ張られるままに移動すれば、廊下をすこしすすんで玄関扉から引き離される。なんだ、と顔をあげれば、窓のあるところ。
ぴょい、と肩に飛び乗ってきたナナンが窓の外を見つめるのに従って視線を向ければ、背伸びして町長の屋敷を覗き込もうとするふたり組と目が合った。
「……タイムと、デイジー?」
思わず名前をつぶやけば、目を輝かせたタイムがぴょんぴょん跳ねて存在をアピールしてくる。隣に立つデイジーも、ちいさく手を振っている。
「どうしたの、イクサ」
不思議そうなアネモネに問いかけられながら、イクサは早足で玄関へと向かった。
「外に」
扉を開け放てば、途端に飛び込んでくるはしゃいだ声。
「イクサ、いたいたー!」
「ひさしぶり? イクサ元気?」
騒々しい声とともに飛び込んできた子どもたちに、ランタナが珍しく目を丸くしている。
きゃっきゃとエリスアレスの周りをまわりランタナを眺めて「お姫さまだ! 町ってすげえ!」「きょうは一段と王子さま」とはしゃぐタイムとデイジーを見つめていた彼は、その顔に見覚えがあることに気が付いたらしい。
「この子たちは、墓守の家の……?」
「あー、タイムとデイジーだ。お前ら、どうしてここに」
まさかウォルフがふたりを連れてくるとも思えない。ならばアネモネだろうか。けれど、イクサが最後に行ったときの様子を思うと、その可能性は薄そうだ。
―――まさか、ウォルフたちに何かあったのか。
イクサが緊張に体を強張らせたところで、タイムがにかっと笑って言った。
「祭りを見に来た!」
「きがつかれるまえにかえるから、ね? すこしだけ」
続いたデイジーのことばにイクサはがっくり力が抜けた。
「……お前ら、黙って抜け出してきたのか」
「おう!」
「うん」
元気な返事に、イクサは思わずその場にしゃがみこんでしまった。




