4.「……まいどありー」
「店の子が風邪引いちゃったんだよ。あたしひとりでも回せるかと思ったんだけど、こんなときに限って客が多いんだから!」
女将は断るすきなど与えず、イクサを厨房に連れ込んだ。かと思えば、カウンターに並べられた料理の皿を掴んで素早い身のこなしで客席へと行ってしまう。
厨房に残されたのはイクサとひとりの料理人だけ。
黙々と鍋をふるう料理人は、女将の旦那だ。イクサにちらりと視線を寄越した彼はわずかにうなずいて見せると、すぐまた次の料理に取りかかる。
その間にも、客が呼ぶ声や料理を催促する声が聞こえてくる。イクサは去り際の女将に押し付けられたエプロンをしぶしぶ腰に巻きつけた。
何でも屋として給仕手伝いを何度か頼まれたことがあるので、仕事のやりかたはわかっていた。イクサはカウンターに置かれた注文書を手に取ると客の席に向かう。
「はい、注文あるひと。はい、豆とくず芋の煮たやつね。そっちはエール三杯。はいはい、炙り肉がほしいのは四人? 五人? ほかは……」
「なんだ、給仕の姉ちゃんはどうした。ろくな飯もねえのに若い女のひとりもいねえなんざ、ふざけた店だな!」
やる気がないわりに手際の悪くないイクサをさえぎったのは、ひとりの酔っ払いの声だった。
テーブルを叩く男を仲間がなだめるが、男は苛立ちのこもった目でイクサをにらみ続けている。
タイミング悪く、女将は料理を取りに厨房へ戻ってしまっている。
イクサはため息をつきたいのを我慢して男に向き直る。小汚い身なりをした男はずいぶん飲んでいるようで、顔は赤らみ目は濁っていた。
「風邪だってさ。早く良くなるといいな。エールに合うつまみなら、豚の腸詰めがまあまあらしいよ。もっと安いのが良ければ店特製のピクルスがうまいって評判かな」
酒を飲まないイクサにはつまみの良し悪しなど分からないので、この店の常連が好むつまみを挙げてみる。
これで男が興ざめしてくれれば御の字なのだが。
男のこぶしがテーブルに叩きつけられたところを見るに、ご機嫌は斜めどころか真っ逆さまのようだ。
「そんなもんで気が晴れるかよ!」
「まあまあ」
怒鳴る酔っ払いを仲間がなだめる。
「イライラしたって腹が減るばっかりだ。悪いなあ、ちょっと仕事で失敗したもんだから、イライラしてんだ」
「失敗じゃねえ! あれは向こうの手はずが間違ってたんだ。獣は寝てるって言ったくせに起きてるしよ、それで逃げたからって報酬を減らしやがって……」
仲間のことばは男の苛立ちに逆効果だったらしい。ジョッキを引っつかんで残り少ないエールをあおると、椅子を蹴飛ばしながら立ち上がった。
「もう一回、町のなか探すぞ! あいつを見つけて今度こそ報酬を支払わせてやる!」
息巻く男は投げつけるように金を置いて、そのまま店を出て行く。
苦笑いを浮かべた仲間の男は、イクサの肩を軽く叩いて男を追って出て行った。
「……まいどありー」
不運にも働かされたと思っていたイクサは転がった椅子をもとに戻しながら、思わぬ情報に出会ったもんだとほんの少し機嫌を良くした。
だからと言って仕事にやる気を出すわけでもなく、できる限りのんびりと仕事をこなすがイクサだ。
それから二時間ほど経ったころ。
空になった皿を流しに運んだ女将がイクサの背中を叩いた。
「いやあ、助かったよ! そろそろ客が減ってきたから、あがってくれていいよ!」
「わかった。それじゃ」
ちょうど洗い終えた皿をわきに重ねたイクサは、素直にうなずいて腰のエプロンをほどく。
颯爽と厨房の出口に向かう足取りは、いつになく素早い。
「ちょいとお待ちよ」
それより素早いのが、女将の腕だ。
扉のすき間を抜けようとしたイクサの肩をつかんで引き留めたところに、無口な店主がやってきた。
「ん」
ずい、と差し出されたのはごわごわした紙に包まれた何か。
思わず受け取ると、ほんのりとした温かさとずっしりした重みがイクサの手に伝わってくる。
「なに、これ」
「お礼だよ。今日の分の代金はまた今度、手伝ってもらったときに上乗せするとして。どうせまたろくに食べてないんだろ? 助けてもらったお礼のまかないさ」
イクサとは親子ほど年の離れたこの夫婦は、ときおりこうしてイクサに食べ物を押し付ける。
嫁に行った娘たちの小さいころを思い出すんだろう、とは店の常連客の弁だ。
親子のやり取りとはこんなものか、と思うたびイクサは苦いものを感じる。けれど表には出さずに包みを抱えた。
「……ありがたく受け取っとく。じゃあ、次は客が少ない日に声かけて」
「ははっ。忙しくなけりゃ助っ人なんて頼まないよ! あんたも、忙しく働いてしっかり食べなよ。面倒がってないでさ!」
「しっかり食え」
構いたがりの女将だけでなく、無口な店主に珍しく発言までされてイクサはどうにもむず痒いような心地になる。
「ああ、うん」
もごもごとはっきりしない返事をして、イクサは店を出た。
さっきの男たちはたぶんイクサが依頼された愛玩動物に関係している。
そうでなくとも、あれだけ怒気をあらわにして歩き回ればひとの悪意に敏感だという獣は逃げてしまうだろう。
日を改めるか、町の周囲をうろついてみるか。
すこし悩んで、イクサは腕のなかの包みを見つめて歩き出した。
しばらく進むと、周囲の建物はだんだんと古ぼけてくる。そのなかでも、ひときわ古ぼけた家の前にいた人影が、近づくイクサに気づいて身じろいだ。
「ああ何でも屋、ちょうどいいところに。そろそろ庭の草が伸びてきちまってね。手が空いてるときに来とくれよ」
ちいさな老女は、道ばたに置いた椅子に腰掛けたまま声を張り上げた。
日がな一日、座り続ける彼女は町の裏門番とあだ名されている。
実際、老女の傾いたあばら家は町のいちばん外れにあった。そして彼女の家の裏側には、町を包むように広がるゆるい丘へと続く道がある。
「残念ながらきょうは忙しいんだ。草むしりはまた今度。ばあさん、通らせてもらうよ」
イクサとしては老女の元で草をむしっているほうが楽だが、引き受けた以上は多少、働かなければならないだろう。
気乗りしない足取りで通り過ぎるイクサに、老女が首をかしげる。
「なんだい。ガラクタ探しのおつかい中かい?」
「いや、迷子のペット探し。人懐こいけど人ごみが苦手なやつらしい。そんなの野生に帰せば良いと思うけどなあ」
いらぬ嘘をつけばあとが面倒だ、とイクサは言える範囲で正直に答える。
ついでに本音もこぼせば、老女がゆるゆると首を振った。
「ひとりきり、静かに暮らすのは思っているよりさみしいもんさ。ひとの間に生きるわずらわしさは我慢できても、人恋しさはそうそう忘れられるもんじゃない」
「ふぅん」
しみじみと言う老女のことばをそんなものか、と聞き流して、イクサはゆるい坂道を登って行った。




