2.「歌ってくれるか? ナナン」
食事のマナーを覚える依頼。なんとも珍妙な依頼だ。
そんなものはこれまで受けたことがない。
「どういう依頼だ、そりゃ」
「お嬢さまにも話をせねばならん。移動するぞ。ナナンさまも、ご同席ください」
促されるまま、ゆっくり歩いてエリスアレスの執務室である町長室を目指す。
いつもは流れるような足運びで進むランタナが、とととっと駆けるような足取りで進むナナンがそろって振り返り、歩調をゆるめている。イクサを気遣ってのことだと思うと、どうにも胸がそわそわする。
「あら。東国からの便りね」
入室した先で書き物をしていたエリスアレスは、ランタナといっしょにやってきたイクサに首をかしげつつ渡された手紙を開いた。
ランタナがイクサの休憩用に椅子を運んでくるというのを断っているあいだに書かれた文字を目で追ったエリスアレスは、ふむ、とひとつうなずいて顔をあげる。
「たしかに、イクサの協力が必要になるかもしれないわね」
ひとりごとのように言ったエリスアレスが次に視線を向けたのは、壁に寄りかかるイクサの足元で丸まったナナンだ。
「ナナン。あなたに歌ってもらいたいのだけれど、お願いできるかしら」
「ンー……ナナァン?」
エリスアレスの呼びかけに、ナナンはこてりと首をかしげる。
肩をすくめたエリスアレスの視線を受けたランタナが、ナナンの前にひざをついた。
「ナナンさま。私めのためにお歌をお聞かせ願えませんか」
「ナァンナン」
至極まじめに問いかけたランタナに、ナナンはぷいとそっぽを向く。ついでにふさふさのしっぽでランタナの手をぺちぺちと叩けば、ランタナが胸を押さえてうずくまる。
「……ナナンさまの御しっぽが我が手に! なんとやわらかでしなやかな毛並み、さらりとしているのにそれでいてどこかしっとりとやさしさを含んだ素晴らしき手触り。ベルベットのようだなどと使い古されたことばでは表しきれないこの素晴らしさ……ああ、なんという至福……」
打ち震えるランタナにエリスアレスがひたいを押さえて首を振る。
ナナンのことばはわからないが、いまのナナンの気持ちはなんとなくわかる。「気持ち悪いからやだ」そんなところだろう。
「まあ、想定はしていたけれどわたしたちじゃだめなようね。イクサ、ナナンに歌ってくれるよう頼んでくれないかしら」
「俺が? あんたらでダメなら俺も無理だろ」
「ダメでもいいから、やってみてちょうだい。ね?」
エリスアレスに頼まれて、イクサは首をかしげながらも足元に目をやった。
しゃがむ動作はまだ、痛みを伴う。我慢すればやれないことはないが、痛むのがバレたらこの町長と従者にもう半月はベッドに押し込められかねない。
寝るのは好きだが無駄飯食らいが生き続けるにはここは立派すぎる。
はやく借りている部屋に戻りほどほどに働きたいイクサとしては、バレるわけにいかない。
そんなわけで、壁に寄りかかって立ったまま足元のナナンを見下ろした。
「歌ってくれるか? ナナン」
「ナンッ!」
イクサが問えば、元気のよい鳴き声が返ってくる。ついでにしっぽをふりふりしたナナンは、とてて、と部屋の中央に移動してむん、と胸を張って立った。
「ナン、ナー……ナァンナ、ナァンナァンナナ〜ン」
開かれたちいさなくちから、旋律が流れ出る。
ゆったりとした響きに耳をくすぐられながら、イクサは目を丸くした。
「おお、歌った……」
「あぁ……なんと美しい歌声でしょう……!」
今ばかりは、ランタナの大げさなほめ言葉にも頷ける。いやしかし、両ひざを地について手を胸の前で合わせ、天を仰ぐのは大げさだと思う。
ナナンを見つめるランタナの姿勢は、まるで神に祈りを捧げるそれだ。
陶然とした目を向けられたナナンは、そろりそろりとイクサの足元に隠れて歌をやめてしまった。
「やっぱり、あなたの助けが必要よ。イクサ」
「だから、なんの話なんだ」
どうしようもない従者を無視してエリスアレスが言うけれど、イクサにはやはり訳がわからない。
どうにか立ったまま手を伸ばしてナナンの頭をなでながら問えば、エリスアレスがさきほど読んでいた手紙をひらひらさせた。
「東国から使者が来るの。ナナンはその東国から、友好の証として贈られてきたのよ。それで、使者がナナンは元気にしているか会いたい、ナナンを交えて一席設けてほしい、って」
「それって、ナナンは東国との付き合いに重要なんじゃ。ただの愛玩動物探しじゃなくないか……? というか、それと俺がマナーを覚えるのと、どんな関係が……」
「ナナンさまはお心を許した相手のためにしか、歌わないと聞いている」
イクサの問いをさえぎったのはランタナだ。相変わらず愛おしさを込めた目でナナンを見つめているが、そのくちからこぼれることばは真っ当なものに戻っている。
「つまり、東国の使者のいる席にお前も参加することになる。ナナンさまの従者として」
「安心してちょうだい。まだ使者が来るのはひと月先よ。それまでにあなたには体を元どおりにして、失礼でない程度のマナーを身につけてもらいます」
ランタナからのうらやましげな視線を受け流しつつ、エリスアレスの宣言を聞いてイクサはふたたび首をかしげる。
「俺が表に出る必要は……」
「ナナンさまにおひとりで向かわせるなど、言語道断だ」
「そうね。それに、あなたがいないとナナンはきっと東国の使者に会ってくれないわ」
言いかけたイクサをさえぎって、ランタナが立ちあがった。今度はエリスアレスも彼に賛同する。
「ンナンッ!」
ナナンまでも元気にうなずくものだから、イクサに断る理由がなくなってしまう。
「そりゃ、ナオの世話は当分のあいだアネモネが見てくれるっていうからほかにすることもないけど……」
気乗りしないもののいまのイクサが役に立てることなどろくにない。
ぼやくように言えば、エリスアレスはぱちんと手を合わせてにっこり微笑んだ。
「なら、決まりね! ランタナ、イクサの衣装を手配しておいて。デザインはあなたに任せるわ」
「え? 衣装?」
「かしこまりました」
イクサが戸惑っているうちに主従のあいだではとんとん拍子に話が進んでいく。
「ナンナンッ」
「はい。ナナンさまにも特注のおリボンをご用意させていただきます」
「準備に忙しくなるわね。ほかの招待客を書き出して、料理の準備に当日の飾り付けに……」
にわかに忙しく動きだしたひとびとを前に、イクサはぼんやりと眺めることしかできなかった。




