22.「また世話になってるみたいだな?」
夢が途切れた。
勝手に浮上する意識に抵抗もできず、世界を知覚したイクサの耳に聞こえるのはやさしい歌声。
「ナアァン、ナアァン」
「ナ、ナン?」
くちからこぼれたかすれた声に、やわらかな歌がぴたりと止まる。
それを惜しく思いながらゆるゆるとまぶたを開けば、目の前に見えたのはつぶらな瞳をうるませた青い毛皮の獣。夕焼けの光に包まれた部屋のなか、温められたナナンの青い毛並みがふわりと揺れる。
「ぁあ…? おー、ナナン。おはよう」
「ンナンッ‼」
しわがれた声で呼びひらひらと手を振って見せれば、ナナンはひと声鳴いて首元にぐりぐりと頭をすりつけてきた。
ふわふわさらさらの毛皮が首にほほに触れてくすぐったい。
「ナナンさま、さきほどのお声は……イクサ!」
音もなく部屋に入ってきたのはランタナだ。淑女にするようにナナンに呼びかけていた彼は、イクサと目があうとぽかりとくちを開けた。
「あー、また世話になってるみたいだな?」
首元になつくナナンをそのままに言えば、なぜかランタナはぎっと眉を寄せてからくるりと背を向ける。かつかつと音を立てて扉まで戻ると、なぜかばんっと盛大に音を立てて扉を開く。
「お嬢さま! 目を覚ましました!」
珍しいランタナの大声に、廊下の向こうでがたん、と音が鳴った。続いて、ばたばたと騒がしい足音が近づいてくる。
間もなく、開いた扉の向こうに姿を見せたのはエリスアレスだ。瞳をうるませた彼女はきゅっとくちびるを引き結ぶ。
「もうっ! 寝すぎよ、イクサ! 四日も目を覚まさないなんて……」
言い切る前にぐすり、と鼻を鳴らした彼女に、ランタナがすかさずハンカチを差し出した。
四日。エリスアレスのくちから出たことばがイクサの寝ぼけた頭に飛び込んでくる。
―――四日も寝ていたということは。
エリスアレスのことばを聞いて、イクサはよろけながら体を起こす。なんだかあちらこちらが痛むが、そんなことには構っていられない。
大股に近寄ってきたランタナに支えられてどうにか起きるが、ふらつくのを止められない。それでも、聞かないわけにはいかない。
「ナオの世話は―――」
「わたしが引き受けてる」
聞き終える前に返ってきた声は、耳に馴染んだおっとりとした女性のもの。
町にいるはずがない。ウォルフもアネモネも、町に赴くことを嫌っているはずだ。
―――けれどこの声は……。
ふらつく頭を巡らせて目をやれば、部屋に入ってくるアネモネが見えた。その腕のなかには、機嫌よく笑うナオの姿がある。ゆるくまとめた桃色の髪をゆらして、アネモネがやわらかく微笑む。
「イクサは家のみんなのために働いてくれているのでしょう? いまはゆっくり休んでいて」
「アネモネ……」
「ええ。あなたが撃たれたと連絡をしたら、すぐ来てくれて。目を覚ますまでは、って赤ん坊の世話を買って出てくれたのよ。人手に余裕がないから、とても助かったわ」
エリスアレスの説明が耳を通り抜けていく。
やわらかな笑みを浮かべるアネモネの姿に、夢で見た彼女の姿が思い出された。
あの男が帰ったあと。ウォルフは何かと世話を焼いてくれていた町のひとたちとのつながりを絶っていった。かつての墓守の家は今ほど隔絶されていなかったのだ。
通りがかった猟師が獲物をわけてくれたり、墓参りに来たひとが帰りに寄ってアネモネとイクサに菓子をくれたりしていた。そのすべてをウォルフが断った。理由も告げずにただ「放っておいてくれ」と。
そして、ひと気がなくなった墓守の家で、よくアネモネとふたりで何かを話し込んでいた。
イクサが寝床に入った後や、森に食べ物を探しに行った後で。こっそり様子をうかがうイクサに聞き取れない低い声で、話していた。
―――あのときの男はなんだったのか、ふたりは何を話し合っていたのか。
ずっと聞きたかった。イクサには言えないことなのか。イクサでは力になれないことなのか。
けれど余計なことを聞くな、と捨てられるのが怖くて聞けないまま時間が経ち、イクサは町に出た。墓守の家から出なくてもできる仕事を見つけては持って帰り、いくらか金がたまると町に移り住んだ。
そうして、いつしか聞こうと思っていたことも忘れていたのだけれど。
―――いまなら聞けるだろうか。
ふと浮かんだ思いは、けれど、アネモネの後ろからリサが姿を見せたことでくちに出すタイミングを失くした。
「ああ、よかった!」
ベッドに腰かけたイクサを見て、リサの目に涙が浮かぶ。駆け寄ってきた彼女はイクサの身体を抱きしめて肩に顔をうずめた。
「あたしのせいで、あたしの問題にあなたを巻き込んでしまって……本当に、本当にごめんなさい」
顔を押し付けられた肩が熱い。ここでリサの背中をやさしく抱きしめでもしてやれればいいのだろうが、なにせいまのイクサはランタナに支えられてようやくベッドに座っている状態だ。
包帯塗れの左腕は動かしづらく、残る右腕は自分を支えるのに精いっぱいで離せない。
しかたなく、イクサはされるがまま抱き着かれながらことばを探す。
「あー、まあ町長の持ってくる仕事はこんなのばっかりだ。あんたが気にすることじゃない。それより、あの男は」
下手ななぐさめよりも話題転換を、と問えば答えは横から返ってきた。
「リサ・ウィリアムズの夫を名乗る男でしたら、すでにとなり町の保安官に預けました。結婚の解消についてはとなり町の郵便屋の職員たちが証言してくれるそうなので、おそらくスムーズに進むかと。何でも屋に怪我を負わせた男ふたりに関しては、大地主の伝手で最も過酷なへき地の労役に向かわせています」
すらすらとくちにしたランタナの口調が丁寧なのは、そばにリサがいるせいだろうか。
いつもイクサにずいぶんなくちを利く男の手が存外やさしく背中を支えているのがおかしくて、イクサはくくっと笑った。
「おー、そうか。ありがとう」
「ん、んんッ。……いえ、これが私の仕事ですので」
素直に感謝をくちにしてみれば、ランタナは反応に困ったらしく目を泳がせて無難なセリフにたどり着いた。
いつになく歯切れの悪いランタナが面白い。にやにや笑っていると、ベッドのうえに座っていたナナンがぽすぽすと尻尾をぶつけてきた。
ふわふわの尻尾の刺激に気づいたのだろう、体を起こしたリサがイクサから離れて赤くなっためもとをぬぐう。
空いたイクサのひざに、すかさずナナンが丸まった。
「あー、まあ、これでリサもナオも安心して暮らせるだろ。良かったな」
ナナンをなでながらイクサが言えば、誰よりはやく答えたのはかわいらしい声。
「ぉあー!」
アネモネの腕のなか、ご機嫌に声を出すナオのちいさなこぶしがぐっと突き上げられた。
赤ん坊の愛らしいしぐさに、部屋のなかには笑顔があふれた。
〜何でも屋と子守り 完〜




