21.「おれはいらないからすててあった」
視界が低い。景色がぼやけている。見慣れた墓守の家のはずなのにところどころ色の足りない視界を見回して、イクサは気が付いた。
―――ああ、これは夢だ。
何度も何度も、繰り返し見る夢。
イクサの意識はあるのに、夢のなかの自分を変えることができない、ただ見ているだけの夢。
「もう忘れ去られたものと思っていたが」
低く、唸るように言ったのはいまよりもいくぶん若いウォルフだ。まだ髭を伸ばしていなかったウォルフは、食いしばった歯をぎり、と鳴らす。
今とさほど変わらずボロい墓守の家の前。ウォルフと相対する男の腰には、子どもの目でもわかるほど立派な意匠の施された長剣がある。けれど男はすらりと長い指で銃を弄びながら、剣の間合いにはほど遠い距離からウォルフに問いかける。
「あんたが随分と色々なところに痕跡を残すものだから、正解を見つけるまでに時間がかかってね。それで、あのときの赤ん坊は?」
「……お前に騎士の誇りがあるなら、剣を抜け!」
男のものとよく似た剣を構えて吠えるウォルフに、男は困ったように笑った。
腰の剣にちらりと視線を落としゆるりと首を横に振ったかと思うと、笑顔を消す。
「誇りを持っているからこそ、剣は抜けない。あんたとそこの子どもは、偶然通りかかった荒くれ者に撃たれて死ぬんだ。あんたには悪いけれど―――」
男の冷たい視線が向けられているのはウォルフの脚元。
そこには、ウォルフの腰に隠れるようにして立つ幼い日のアネモネがいた。デイジーよりも幼い、おそらく五つか六つくらいのちいさなアネモネ。
そんなちいさな子どもに凍えるような視線を向けただけでなく、男は構えた銃でアネモネに狙いを付けた。唇を引き結び、金色にも見える瞳で見据えるアネモネに、男がぎり、と歯を食いしばる。
「その眼……それさえなければ……!」
引き金にかけられた男の指に力が加えられる、そう思った瞬間に、幼いイクサは走っていた。隠れていた草むらから、にらみ合う大人たちのあいだへ。
頼りない手足を伸ばして、乱れた息のまま、アネモネをかばうウォルフの前に立って両手を広げる。
「イクサ! 引っ込んでいろ!」
「だめ、あぶない!」
ウォルフとアネモネが言うのを背中で聞きながら、イクサは男を見つめて立っていた。
「なんだ、この子ども」
怪訝そうに眉を寄せた男はイクサを見下ろした。頭のてっぺんから脚の先までじろじろと見回して「はっ」と鼻で笑う。
銃口を逸らさないまま、ウォルフに向けられた男の視線には軽蔑の色が乗せられていた。
「あんた、身代わりにしようと拾ったな? これだけ色素の薄いガキなら、髪色は染粉で誤魔化せるだろうなあ。眼も体も獣に食われたことにしてしまえば、確かめようがないもんなあ?」
身代わり、ということばが耳に入りイクサの身体はびくりと震える。はじめてそのことばを聞いたとき、幼い自分はどう思ったのだったろう。
ああ、そうだったのか、と納得したのだったろうか。
自身の存在意義を見つけたと思ったのは、何度めにこの夢を見たときだったろう。
「ちがう! そのようなことは!」
「黙れよ!」
否定をくちにしたウォルフを、男がそれ以上に強い声で遮った。
イクサの頭の上を通り過ぎる男の視線に込められているのは、軽蔑、嫌悪。けれどそれ以上に濃いのは、落胆の色だった。
「あんたは、あの権力主義の集団のなかであんただけは違うと思ってたのに。それなのにあんたは逃げ出した。だけど、それでもあんたがまだ騎士のままなら、いっしょに国に帰りたいと思っていたのに!」
叫んで、両手で銃を構えた男が吠える。
「どけよ、ちび! お前が死んだところで誰も泣いちゃくれないぞ!」
今ならわかる。男はイクサを逃がそうとしてそう言ったのだろう。無関係の子どもを殺したくないと思ったのだろう。ことばの荒さに見合わない真剣な瞳を繰り返し夢に見るうちに気がついた。
けれど、夢のなかの幼いイクサの答えは変わらない。いいや、男の真意に気づいた今でも、変わらない。
「しってる」
―――知ってたよ。俺が死んだって誰も泣かないことなんて。生まれてすぐ捨てられたんだから。
幼いイクサの声に男がびくりと震えた。
このとき、ウォルフはどんな顔をしていたのだろう。アネモネはなにを思ったのだろう。
ただ男の向ける銃口だけを見つめていたイクサにはわからない。
「しってる。おれはいらないからすててあった。ひろったウォルフのやくにたつなら、あげる」
身代わりになる。それはイクサがはじめて見つけた居場所だった。
ウォルフは子育てに向かない男で、滅多に泣かないイクサはたいてい放って置かれていて。物心ついたときには、ウォルフの腕のなかにはいつもアネモネが大切に抱えられていた。
それをずっと見てきたイクサにとって、ウォルフが大切にしているアネモネの身代わりになれるということは、ウォルフの役に立てることだと思ったのだ。
だから、銃が生き物を殺すものだと知っていてなお、イクサは銃口を真っ直ぐに見つめていた。そこに怯えも震えも存在しなかったし、それは今も変わらない。死ぬのはいつだって怖くなかった。
「どーぞ」
いつまで経っても弾を吐かない銃を前に、イクサは男を促した。
どうすれば撃ちやすいだろう。幼い頭で考えて両腕を広げてみせれば、男の腕がぶるぶると震え出す。
「ウォルフって、なんだよ……あんた、ほんと最低だな! なにも知らせずにこんな盾にするためのちび育てて! いっときでもあんたに憧れた自分が馬鹿みたいだっ」
叫んで、男は銃を投げ捨てた。地面を転がった銃はイクサの足元まできて止まる。
「もういい。もういやだ。あんたなんか知らない。国だってどうにでもなればいい」
「おい、待て!」
後ずさる男にウォルフが声をかけるが、男は聞きたくないとでもいうように首を横に振る。
よろよろと墓守の家から遠ざかっていた男が、ふと足を止めてイクサに視線を寄越した。
「……なあちび、お前。いっしょに、来るか」
わずかに唇を持ち上げて言う男に、幼いイクサはこてりとかしげた首をすぐふるりと横に振った。
捨てられていたイクサを拾ったのはウォルフだ。ウォルフがあげると言わないものをほかの誰かが持って行ってはいけない。
「そうか……」
くしゃり、といびつに笑った男は、今度こそイクサたちに背を向けて去って行った。
残されたのは、一丁の銃とイクサ、ウォルフそしてアネモネだけ。
イクサは地に落ちた銃、回転式拳銃を拾いあげ―――。




