20.撃とう。
エリスアレスに向かって歩く男の背が光源を遮り、一瞬あたりに闇が戻る。
そこへ聞こえたのは、嗜虐趣味の男の粘ついた声。
「いいねえ、この細い首。肉も柔らかくて切り裂き甲斐がありそうだ」
男がすすみ視界に光が戻ると、わずかに眉を寄せたエリスアレスが見えた。その首に添えられた短剣はもう彼女の首の表皮をやわりと食んでいる。男がもうわずかにでも力を込めれば、あるいは短剣を持つ手を引けば、容易に柔肌は壊されるだろう。
大切なお嬢さまが傷つけられそうだというのに、隣のランタナはいつもと変わらないすまし顔で立っている。こんなときこそあんたの言う従者の義務だかなんだかを発揮すべきじゃないのか。
そう叫びたいけれど、叫び声さえ男を刺激する一手になりかねない状況に歯ぎしりするしかない。
このままではエリスアレスの首がずたずたにされる。嫌な未来を想像して、イクサの傷口がじくりと痛んだ。
―――撃とう。
考える間もなくいつも腰にある重みに手を伸ばした、そのとき。
「片付けなさい、ランタナ!」
りんとした少女の声が光のなかをまっすぐに駆けた。
「仰せのままに」
答える声と、たん、と地を蹴る軽い音が聞こえたのはすぐそばから。
次の瞬間には、ランタナの姿は嗜虐趣味の男の真上にあった。
「は?」
「あ?」
男ふたりが夜空を見上げられたのは、ほんの瞬きの間だけ。
きれいな折り目の付いたスラックスを履いた脚が風を切り裂き、男の顔面に迫る。間抜けにも空を見上げたままの男の顎を蹴り抜いた。
「へぶっ!?」
無様な声と同時に、エリスアレスの金髪が蹴りの風圧で夜空に踊る。男は短剣を取り落とし、身じろぐ間もなく顎を天に向けて後方に崩れ落ちた。
男を吹き飛ばしたその勢いのまま、ランタナの身体が宙がえりする。地に脚をつけたのかどうか、イクサには判断がつかない。
ただ、ランタナがこまのように回ったのは見えた。男もそれに気が付いたのだろう、がら空きの顎を蹴り抜かれた仲間を見送る間もなく、身構えるようにわずかに片足を引いたそのとき。回転するランタナの体から伸びた脚がガラの悪い男の胴体を捕らえた。
「があっ!」
勢いを乗せた一撃を受けて、ガラの悪い男の身体がわずかに宙に浮いた。そして、ふり抜いた脚の動きに従って蹴り飛ばされ、闇のなかへと消えていく。
ほんの一瞬のあいだに、ふたりの男たちの姿はあたりの闇へと蹴散らされた。
まばゆいほどの光のなかに残ったのは元の通りに立つエリスアレスと、衣服の乱れを直すランタナだけ。
イクサはただただ、ぽかんとくちを開けて見守るばかりだった。
「まったく。ランタナ、あなた言われてから動くようじゃ優秀な従者とは言えないわよ」
「主人の力量を見極めるのもまた、従者の仕事でございます。お嬢さまがこの程度の者どもに遅れをとるとは思っておりませんでしたので」
腰に手を当てたエリスアレスが文句を言うも、ランタナは気にする素振りもない。彼女の乱れてもいないドレスの裾を整えながらすました顔で言い返す。
くちの減らない従者に、エリスアレスはぷくりとほほを膨れさせた。
「まったく! あなたはかわいくないわ!」
そのときになってイクサはようやく驚きから解放され、怒ってみせるエリスアレスに歩み寄った。
「あんた、怪我は……」
「あら! 私はなんともないわよイクサ、ありがとう。ほら、ごらんなさいランタナ。これが心あるひととしてあるべき姿というものよ!」
近づいて確認したエリスアレスの首は、本人のいうとおりなんともないようだ。イクサに笑顔を見せたかと思えばランタナにくちを尖らせる彼女の元気な姿に、イクサはほっと息をついた。
「おことばですが。お嬢さまよりもそこの何でも屋のほうが重傷です。心あるひととして、お嬢さまは礼を言うよりまず何でも屋の身を心配すべきではないかと―――」
本当に、ランタナはくちが減らない。
主従のにぎやかなやり取りにほほを緩めかけたイクサは、目を見開いて駆けた。
「イクサ?」
「なにを―――」
きょとりと目を丸くするエリスアレスの声を、わずかに眉を寄せたランタナの手をすり抜けて、イクサはふたりの背後に駆け抜けた。
そして、銃口の前に踊り出る。
「はっ、お前、ほんと、もっといたぶってやりたかったな」
震える手で銃を構えた嗜虐趣味の男が嗤い、引き金を引いた。
パンッ。
乾いた音が聞こえたのと、太ももに衝撃を感じたのはほぼ同時。
「貴様っ!」
「イクサ!」
ランタナが吠えて、イクサの横を風が走る。肉を打つ鈍い音と共に「ぐぅっ!」という絞り出すような声を聞きながらイクサは、ぐらりと角度を変える視界を眺めていた。
―――あ、倒れる。
したに引き込まれるような感覚に抵抗する力が湧かず、地面に激突する覚悟を決めたイクサを受け止めたのは、細い腕だった。
「イクサ! ああ、弾が抜けていない……ランタナ! そいつを痛めつけてもイクサの怪我は治らないわ。さっさとそいつらをまとめて荷台に放り込んで、イクサを医者へ!」
「ちっ! 仰せのままに!」
エリスアレスの鋭い声がどこか遠く聞こえる。たおやかな手が存外に力強くイクサの太ももを縛りあげる衝撃を感じながら、イクサはへらりと笑った。
「ランタナ、あいつ、くそとか言うんだ、な」
「イクサ! 大丈夫よ。太ももを撃たれただけだもの、すぐお医者さまに見せるから大丈夫。ええ、そうよ」
エリスアレスの金髪がほほにかかってくすぐったい。こんなに太ももが熱くなければ、それを彼女に伝えられるのに。どうしてか、傷ついていない右手さえあげるのが億劫だ。
「もう、血が止まらないじゃない。ランタナ、何をしているの! 早く、急いで!」
彼女は何をそんなに慌てているのだろう。落ち着けよ、と言おうとしてイクサは自身の太ももからあふれる熱いものを止めようと必死になっているエリスアレスに気が付いた。
「服、汚れる、ぞ」
「あなたは黙ってなさい! でも寝ちゃだめよ! イクサ! だめだってば!」
「ナ―――ン!!」
駆け寄ってきたちいさな足音はナナンだろう。夜中に大きな鳴き声をあげてはいけないと、教えたはずなのに。
「も、ちょっと、寝かせて、くれ……」
「だめよ、せめてお医者さまのところまで。ねえ、ちょっと!」
肉球がぽふぽふと肩を叩く音と、エリスアレスの悲鳴のような声を聞きながらイクサは意識を手放した。




