16.「ナナンは先に町長のとこに帰るか」
暗い町のなかのさらに暗い通りを選んでイクサは走る。
ナナンが肩にぎゅうとしがみついてくれるおかげで走りやすい。
だからと言って、全力疾走するわけでもないのだが。そんなことをすれば、体力のないイクサはすぐに力尽きてしまう。やる気同様、体力もないのがイクサの仕様だ。
「くそガキ! どこ行きやがった!」
吐き捨てる男の声が聞こえたのはひだり後方。続いて、右前方からも荒い足音が聞こえてくる。
「キュアー……」
ナナンが不安げに鳴いて見上げてくるのは、イクサたちがいる場所が一本道で、そのどちらからも追ってくる男たちの気配を感じるからだろう。
目の前にあるのは長く伸びる塀。背後にあるのは積み重ねられた重たそうな樽の山。どちらもイクサがのぼるには、高すぎる。
「大丈夫。逃げ出した愛玩動物は道なんて歩かないから」
瞳を揺らすナナンの青い毛をくしゃりとなでて、イクサは手のひらに布を巻きつけた。手頃な布が無かったのでナナンセットから拝借したが、説明すればランタナも許してくれるはず。たぶん。
「しっかりつかまっとけ、よ!」
軽く助走をつけてイクサが飛びついたのは、建物の壁から生える排気パイプ。日頃、建物のすき間を通るときには邪魔にしかならないパイプに助けられるとは想像していなかった。
吹き出す蒸気で熱せられたパイプを握ると、じゅっと肉が焼ける音がした。ナナンが「キュアッ」と怯えたように鳴くのに構う暇もなく、イクサは歯を食いしばり次のパイプに飛び移る。
排気パイプのそばはいつも温かいため、逃げ出した動物たちはそのそばによく集まるのだ。
そのため、愛玩動物探しでパイプの配置をしばしば確認するイクサは、パイプを伝って逃げられると踏んでいた。
「あづっ! ……ちえ、靴まで溶けてきた。町長に新しい靴も買ってもらおっ!?」
「ンナンッ!」
ガィンッ!
パイプ伝いにのぼっていたイクサの耳元で火花が散った。ナナンがしがみつく脚に力を込めて首をすくめる。
焼ける手の痛みに耐えながらちらりと振り向けば、ならず者のひとりがこちらに銃を向けているのが見える。
「戻って来い、くそがき! ひと晩じゅう殴ってやる!」
「お断りだ、ねっ」
パイプから手を離し、イクサは落下する。
そこはもう、銃を構えた男からは見えない壁の向こうだ。
喚き声を背中で聞きながら、イクサは再び駆け出した。
そろそろ建物がまばらになってきた。夜に開けている店が少ない通りを選んで走ったものだから、ひと気もなくかすかな物音でもよく響く。
まいたばかりの男が追い付いてくるのは時間の問題だろう。
けれど他人を巻き込む気もなく、逃げ込むあてもないイクサはとにかく暗い道を駆けて町のはずれを目指した。
小走りになりながら、手に巻き付けた布をはがす。
ぴりぴりと痛むのは、焼けた皮膚が布といっしょにちぎれているからだろう。明るいところで見たら、悲惨なことになっているに違いない。
「ナァン……」
不安げに鳴くナナンを撫でようとして、自分の手が火傷だらけで血に濡れていることを思い出したイクサは持ち上げた手を宙にさまよわせてそっと下ろした。
「ナナンは先に町長のとこに帰るか。そろそろリサもたどり着いたころだろ」
「ナンナンっ」
男たちに見つかっていない今ならば、ナナンだけであれば夜闇に紛れて逃げられる。以前とは違い、イクサを探して町をうろついているナナンだ。一匹でも町長の家に帰るのはたやすいだろう。
そう思って声をかけたのに、返ってきたのは否定するような怒ったような鳴き声。
「ナン! ナン!」
ぶんぶんと勢いよく首を左右に振る珍獣は、しっかりとイクサの肩につかまりなおす。
まるで「絶対はなさない!」とでも言っているかのようなしぐさに、イクサはくちの端をゆるく持ち上げた。
「そうか。好きにしてくれ。そうだ。あれやってくれよ、前、あの男たちを眠らせたあれをさ」
「ナンナン!」
冗談まじりに言ってみれば、返ってきたのは「まかせろ」と言わんばかりの鳴き声。
むふん、と得意げに胸を張るナナンの横顔を見て、イクサは自分のなかの優先順位のてっぺんにナナンを据えることにした。
―――いざとなったらナナンを逃がす。俺が死んだらランタナあたりがうまいことやって、墓守の家に補助金を投げ込んでくれるだろう。
そう考えると、いよいよ心残りは無くなった。
もともと家族を持たないイクサだ。育ててくれたひとたちのことを気にしなくていいとなれば、残るものなどない。
「くそがき、どこ行きやがった!」
どこかで男が悪態をつく声が聞こえる。
気づけばあたりに建物はまばらになっていた。だいぶ町のはずれにきた証拠だ。ナナンを見つけた丘があるのとは別の町はずれ。天気が良く、土ぼこりもない日であれば遠くに墓守の家のある森が見えるだろうあたりだ。
ここまで、誰に会うこともなく逃げることができた。これだけ町はずれに来たならばもう店もなく、わずかに建っている家に住むのは金もないひとばかりなので、夜間に出歩くひとはいないだろう。そして関係ない騒動に巻き込まれに出てくる者もいないはずだ。
他人を巻き込みたくないというイクサの狙いが成功したわけだ。
けれどひと気がなく建物もないということは、イクサが隠れる場所も少ないということだ。
この先には、固く乾いた地面を割って生えた灌木がぽつりぽつりとあるばかり。
「さて。ここからどうしようか」
イクサがつぶやいたとき。
ダンッ!
間近で銃声が聞こえ、ナナンが「キュアッ⁉︎」と体をすくめた。
「そうだなあ。おれたちのおもちゃにしてやろうか」
粘ついた声が聞こえたのは、すぐそばの暗がりのなか。建物が途切れ、むき出しの地面に生える灌木の影から、誰かが出てくる。
「あんた……ねちっこいって言われないか」
出て来たのはならず者のひとり。いつだったかイクサの手をじわじわと折れない程度の力を込めて踏んでくれたほうの男が銃を片手に歩いてきた。
「ははっ、そりゃあ大層な誉めことばだな。お礼にできるだけ長ぁく、時間をかけていたぶり殺してやる」
星明りでもわかるほどの嗜虐性を込めた男の笑みを目にして、イクサは思わずため息をついてしまった。




