12.「できる限りの手助けをする。約束する」
重苦しい沈黙が落ちた町長室のなか。
とっとっと、と軽い足音を立てて絨毯のうえを歩いていたナナンは、リサの足元に進路を変えてひょいと後ろ脚で立ち上がると彼女の顔をしたからのぞき込んだ。
「ナァン?」
まるで心配するような鳴き声に、リサのまとっていた空気がほんのすこし和らいだ。
それを見計らったように、エリスアレスがきしりとわずかに椅子を揺らした。
「実は私、あなたの事情をほとんど知らないのよ。良かったら、話してくれる? なにか力になれることがほかにもあるかもしれないもの」
「ナーン、ナーン」
町長としての顔よりもいくぶん、やわらかさのこもった声でエリスアレスが語り掛ければ、ナナンもまた「そうだ、そうだ」とでも言うように鳴く。
美少女のやさしい笑みと、珍獣の元気な鳴き声に勇気づけられたのか、リサはゆるゆると顔をあげた。ナオを指先であやしながら、ぽつりとくちを開く。
「あたし、となり町の郵便屋に勤めていたんです。そこで結婚して、ナオが生まれて。しばらくしたら乳母を雇って仕事に復帰しようと思う、って夫に話したんです。郵便屋の思念伝達機の通信手をしていたから、職場からもできれば戻ってきてほしい、って言われていて」
思念伝達機。リサのことばでイクサはその機械のことを話していた誰かの声を思い出した。
なんでも、結晶のなかに閉じ込めたられた過去の生き物の力を使い、遠いところにある結晶と声のやりとりをする機械だという。
飲んだくれた男が大声で話していたものだから、どこまでが真実かわかったものではないが。
ともかく、通信手をする者がいる以上は実在する機械なのだろう。まったく、貧乏人と縁のない世界にはいろんなものがあふれているものだ。
「復帰したい、って話した途端、夫とそのご両親が……」
イクサがぼんやりしている間もリサの話は続いていた。ナオのちいさな手に握られた指を震わせて、リサは声を絞り出す。
「赤ん坊を置いて出て行け、って。子どもが生まれた後も働こうだなんて庶民染みた女はうちの家にはふさわしくない、子どもは跡取りにするから置いていけ、って」
うつむいたリサには見えていないだろう。エリスアレスの目に怒りの火が灯るのをイクサは見た。その火を見て、イクサは不意に理解した。
―――ああ、こいつはこういうやつを助けられる力が欲しくて、町長になったんだな。
「だからあたし、職場の上司に頼み込んで急いで違う町に行く手配をしてもらって。ナオと散歩に出るふりをしてそのまま馬車に乗ってこの町まで逃げてきて……!」
とうとうこらえきれずに泣き出したリサの肩を、いつの間にかそばに来ていたエリスアレスがそっと抱きしめた。
「大丈夫よ、大丈夫。よく来てくれたわ。ここは私が治める町。そんな勝手なひとたちの横暴を許したりしないわ。あなたから赤ん坊を引き離させたりしないわ。そのために私が町長をしているのだもの」
リサの茶色い髪の毛にこつりと頭を寄せて、エリスアレスは歌うように言う。
「私の町に来てくれてありがとう。助けてって言ってくれてありがとう。あなたが赤ん坊と笑って暮らせるよう、私たちがいっしょにがんばるわ。ねえ、イクサ」
「ん?」
なだめるように、元気づけるようにことばを紡ぐエリスアレスに、イクサは素直に感心していた。
泣いているひとにかけることばにこんなに種類があるのだな、と思っていたものだから、急に名を呼ばれてなんのことだろう、と目をまたたく。
すると、返ってきたのは呆れたような視線。
「あなた、まさかこのタイミングで居眠りしていないでしょうね。すこしくらいやる気がなくても仕事さえきちんとしてくれるならいいわ、と思っていたけれど。やる気が出るように、ちょっぴり荒療治してあげましょうか?」
エリスアレスの冷たい瞳とややとげのある声に、鞭を構えた彼女の姿が頭に浮かぶ。
即座に姿勢を正してイクサは首を横に振った。
「聞いていた。リサとナオが暮らしやすいよう、できる限りの手助けをする。約束する」
「ナンナーン!」
イクサがいつになくしゃきりと宣言をすれば、ナナンもいっしょになってやる気を見せている。
じっとりとした視線を向けていたエリスアレスは「よろしい」と言いながらうなずいた。
すると、うつむいて泣いていたはずのリサから笑い声がもれる。
「ふふっ。町長さまと何でも屋さんは、仲良しなんですね」
目の端に残る涙をぬぐいながら、リサはエリスアレスとイクサに視線を向けた。
言われた当のエリスアレスとイクサは、きょとりと互いを見つめ合ってからそれぞれにくちを開く。
「そうね。付き合いはまだ長くないけれど、かなり親密だわ」
「いや、仲良しというか仕事くれるし。ナナンを返しに来ざるを得ないし」
言って、ふたたびふたりで顔を見合わせた。
イクサの見つめる先で、エリスアレスの顔がみるみる不機嫌になっていく。艶やかな唇がへの字に曲がり、美しい曲線を描く眉がきゅうと寄せられる。勝気な目が不満げに細められてイクサを捕らえた。
「イクサったら、そんな風に思っていたのね。気の置けない友人になれると思っていたのは私だけなのね。やっぱり、荒療治が必要なのかしら」
傷つきました、と言わんばかりの顔をしたエリスアレスの発言に、イクサは慌てて待ったをかける。
「いやいや、ちょっと待て。なんでそこで鞭打ちが出てくるんだ。打たれたところであんたを慕うわけないだろ、俺にそんな特殊性癖はない」
「鞭打ちってなによ。私そんなこと言っていないわ。あなた、そういう性癖があったのね? 悪いけれど、それに関しては付き合ってあげられないわね」
「ナーン……」
エリスアレスとナナンにそろって冷たい視線を向けられて、イクサは自分が言わなくていいことを口走ったと気が付いた。
鞭を持って微笑むエリスアレスは、イクサの勝手な想像だった。いやしかし、回転草禿げを相手にしたときの彼女は嬉々として鞭をふるっていたような……。
イクサが記憶を掘り起こしている間に、エリスアレスとナナンの視線は冷ややかさを増していく。
これではまるで喜劇だ。
がっくりと肩を落としたイクサを見てリサが楽し気に笑っていることだけが、救いだった。




