11.「どーぞごひいきに」
赤ん坊はときどき泣いて、けれどそのたびあやしたりおむつを替えればすぐご機嫌になった。ときおり母親であるリサが乳をやりにやってきては、またナオの世話を頼んで仕事に戻る。
大半の時間を赤ん坊のそばで座って見守るという作業は、イクサにとっては大した苦にもならない。ナオがまだ人見知りをしないのが大きいだろう。
特別なことはなかったが、あえて挙げるならば赤ん坊がふにゃりと笑うたび、ナナンが「ナーン! ナーン!」とうれしそうな声をあげながらゴロゴロと転げ回っていたことくらいだろうか。
この獣は、どうやら赤ん坊が好きらしい。
そうして、おだやかに時間が過ぎて、郵便屋から出ると、町は夕焼け色に染まっていた。
先を歩くリサの腕のなかでナオが機嫌よく笑い声をあげている。
「ほら、ナオ見て。お空が真っ赤。ナオのほっぺも真っ赤でおいしそうねえ」
話しかけながら、リサがナオのふっくらしたほほを食べる真似をしているせいだろう。
暖かな親子の光景に、イクサの胸がじくりと痛む。
「ナァン?」
うつむきそうになったところを心配そうにナナンが覗き込んでくるものだから、イクサは苦笑した。まるで心を見透かされているようだ、なんて思ってしまった自分がおかしかった。
肩に乗った獣の青い毛皮をそっとなでて、イクサはリサの隣に並ぶ。
「リサ、細かい話はやっぱり町長のとこでしよう。暗くなったら送るから」
「でも、町長さまはきっとお忙しいでしょうし。事前に連絡もなく行くなんて、ご迷惑でしょう」
「忙しいようならあんたの依頼を引き受けたことだけ伝えて、出直せばいい。赤ん坊と若い母親のふたり暮らしの家に、会ったばかりの男がのこのこ入ってくほうが問題だ」
ためらうリサに重ねて言えば、彼女は「まあ」と目を丸くしてから笑った。
「あなたみたいな若い男の子から女のひと扱いされると、なんだか照れるものね」
笑われたイクサだけれど、リサの笑顔がひどく楽しそうに見えて腹も立たない。
笑うリサに手を伸ばすナオに指を差し出して、ちいさなぬくもりにきゅっと握りしめられるのを感じていると、リサが続ける。
「この町に来て良かった。職場はいいひとがたくさんいるし、町長さまはあたしみたいな者を気にかけてくださるし。それに、あなたみたいな子がいるんだもの」
「……あ、そう」
どう返事していいかわからなくて、イクサはついぶっきらぼうにつぶやいた。
それにさえリサはくすくす笑うものだから、いたたまれない。
楽しげに話すリサの横を歩きながら視線をさ迷わせていたイクサの肩で、ナナンがぴくりと顔をあげ振り向いた。
突き刺さるような視線を感じて、イクサもそちらをそっとうかがう。
ひとで賑わう砂まじりの通り。ひとりだけさっとうつむいて、急に進路を変えた男がいた。
山高帽を目深にかぶっていたせいで顔が見えないまま、男はひとごみに消えていく。
「どうしたの? なにか買い物する?」
足取りのにぶったイクサを見て、リサが首をかしげる。
「いや、何でもない」
「キュアー」
ゆるく首を振って元のとおりのんびり歩き出したイクサの肩で、ナナンも「そうだ」と言うように元気に鳴いた。
リサがその鳴き声に目を細め、ナオも聞きなれない音を聞きつけてかちいさな手をナナンに伸ばそうとしている。
小動物というのはこういうとき便利なものだな、と思ったなどとランタナにばれたら面倒くさそうだな、とイクサは町長の家を目指してもたもたと歩いていく。
果たして、たどり着いた町長の家にランタナは不在だった。
「珍しいな、あいつがあんたのそばを離れるなんて」
「そうかしら? 彼にしか任せられない仕事もいろいろあるもの。本当は、もっと信頼できる者を増やすべきなのでしょうけれど、なかなかね」
町長であるエリスアレス自ら招き入れられ、通された部屋は重厚な町長室だ。
けれど、以前イクサが招かれたときよりも家具の一部が落ち着きのある、使いやすそうなものに代わっている。
「そんなわけでおもてなしのお茶も満足にいれられなくて、ごめんなさいね。せめてくつろいでくれるとうれしいのだけれど」
「そんな、お気遣いありがとうございます。何でも屋さんを手配してくれただけで、本当にうれしくて」
ゆったりした椅子に腰かけたリサが、ナオを抱っこしたままエリスアレスに頭を下げる。
ちなみにその椅子はイクサが別室から運んできたものだ。エリスアレス曰く「赤ん坊を抱いた母親には運べないし、か弱いわたしにだって運べないもの。お願いね?」だそうだ。
余計な口答えは身をほろぼすとイクサの本能が告げるものだから、おとなしく従った。ランタナを恋しいと思うときが来るなんて、となんとなく悔しい気持ちになりながら。
「それで、イクサは合格かしら。なにせこちらも初めての試みだから、すべて手探り状態なのよね。町の援助制度の第一号として、遠慮せずなんでも言ってもらえるとこちらとしても助かるわ」
以前よりもあっさりした町長の椅子に座ったエリスアレスが、机をはさんで座るリサに問いかける。
堅苦しい話なら別室で待っている、と言ったのになぜか引き留められたせいで、イクサは壁にもたれてふたりを眺めるはめになった。こうなったら立ったまま眠る練習でもするしかない。
「はじめは、とても若い男の子が来たので驚きましたけど。でも、赤ん坊の世話がすごく手慣れていてあたしよりもうまいくらい。人柄もやさしくて、信用できますし」
「そう! それは良かったわ。ねえ、イクサ!」
リサの答えに、なぜかエリスアレスはうれしそうな声でイクサの名を呼ぶ。
しぶしぶ目をあけると、にまにまと笑うエリスアレスが見えた。さっきまでかぶっていた町長の顔はない。あからさまにからかいの色が見て取れる。
「……あー、そうだな。何でも屋の仕事は赤ん坊の世話以外も受け付けてる。どーぞごひいきに」
恥じらってやるのも面倒で、イクサは投げやりに言ってまた目を閉じた。エリスアレスが「なんだ、照れないの。つまらないわ」などと言う声はもう聞こえないふりだ。
「そうそう、リサ。これは答えたくなかったら言わなくていいのだけれど。あなた、どうして急に知り合いもいないこの町に来たの? いえね、郵便屋間での強制的な異動があって仕方なく、ということなら私のほうから郵便屋の偉いひととちょーっとお話しなくてはいけないのよね」
声の調子をがらりと変えたエリスアレスは、町長の顔をしてリサに向き合う。真面目に、けれどリサが話やすいようにやさしい笑顔を添えて。
薄目で見ていたイクサは、リサがすぐさま首を横に振るのを見た。彼女は続けて否定のことばをくちにする。
「いいえ! いいえ、今回の異動はあたしから無理を言って聞いてもらったんです。郵便屋のみんなは、とてもよくしてくれます。前の職場でも、赤ん坊連れで馬車で行ける距離の仕事場を探してくれたし。今の職場でも、あたしが仕事の間は同僚のおばあさんがナオの、この子の世話を見てくれると言ってくれて」
うつむいたリサは、腕のなかでうつらうつらしているナオのほほを撫でて、うめくように続ける。
「いけないのは、あたしなんです。無理言ってみんなに、この子にも負担をかけて……」
長い話になりそうだ、とイクサは姿勢を変えて改めて壁にもたれなおした。




