10.「……やっぱりお前、メスなのか?」
赤ん坊の寝顔を見つめながら泣き出したリサの涙は、ぽろぽろと流れ続ける。
とうとう、揺りかごにすがるようにしてしゃがみこんでしまったリサを眺めながらイクサはぼうっと突っ立っていた。
なぜ彼女が泣き出したのかわからない。だから、なんと言えばなぐさめになるのかがわからない。
こういうとき、アネモネあたりならそばにいてやさしく背中をなでてくれたりするんだろうなあ。と思うけれど、イクサがするにはどうにも難易度の高いなぐさめかただ。
さて、どうしよう。かすかに聞こえる嗚咽を耳にして、イクサはどうしたものかと考え込む。
放っておいて泣き止むものか、はたまた誰か呼んできたほうが良いのか。さっきの黒髪の若い女性を呼んでくるべきか。
「ナァン」
悩んでいるうちにナナンがちいさくひと声鳴いて、イクサの肩からぴょいと飛び降り女性のそばへててて、と歩み寄った。
「ンナァン。ナアァン」
ナナンはやさしい声で鳴きながら、しゃがんだリサの足元を青い毛皮で撫でている。
するりするり、とナナンが何往復かしたころに、リサは足に絡まる青い獣に気が付いたらしい。
こぼれる涙をそのままに、ナナンの青く艶やかな毛並みをそっとなでた。
「ナンナン!」
赤ん坊に配慮してか小声で、けれどうれしそうな声でナナンが鳴く。
きらきらの瞳でリサを見上げ、もっと撫でて、とでも言うようにちんまりしたあごをくい、と突き出すさまに、リサがきょとりと目を丸くした。
「ふふっ。なつっこい子ね」
目を細めたリサは、くすくす笑い始めた。
指でそっと涙をぬぐったリサが笑うのを見て、ナナンが満足気に「ナン!」と鳴く。
最後にもういちど、するりとリサの手のひらを毛皮で撫でたナナンは、ぴょいと飛び上がってイクサの肩に戻ってきた。
「ごめんなさい、泣いたりして。なんだか力が抜けてしまって」
「いや、泣くのは謝るようなことじゃない、と思う。それで、どうする。赤ん坊の世話を俺に任せるか、ほかの人間がいいなら町長にかけあってくるけど」
ようやく仕事の話に戻れる、とほっとしたイクサに、リサはなぜかうれしそうに微笑んだ。
「ぜひあなたたちにお願いしたいな。あなたにならこの子を任せられるし、あたしも仕事をがんばれる気がするから。あなたの肩に乗っているやさしい子がいっしょなら、なんの不安もないもの」
泣きあとの残る顔ながらも晴れ晴れと笑ったリサに言われて、イクサはやや首をかしげながらもうなずいた。
「あー、こいつはナナン。気が向くとさっきみたいに歌うから、まあ、あんたが気に入ったなら良かった。それじゃあ俺はこの部屋にいるから、あんたは顔を洗うなり仕事に行くなりしてくれて構わない。子守りの条件の詳細は、あんたの仕事終わりにでも」
「ええ、ありがとう何でも屋さん。それじゃあ、ナオのこと頼みます。ナナンちゃんも、よろしくね」
「ナァン!」
任せろ、と言わんばかりに胸を張って鳴いたナナンに、リサはひらりと手を振って部屋を出て行った。
早足だけれど落ち着きのある足音が遠ざかっていくのを聞きながら、イクサは肩に乗った獣に視線をやる。
「ランタナが淑女だなんだ言うのはまあ、あいつなりの気持ち悪いセンサーで感知したのかと思ってたけど。なんでリサもわかるんだ」
どこからどう見ても、毛むくじゃらの青い四つ脚の獣でしかない。異国の珍獣ゆえにリサもきっと初めて目にしたはずなのに、どこで判断したのだろうか。
ナナンを捕まえて目の前にぶら下げ、じっくり観察するがわからない。
「……やっぱりお前、メスなのか?」
「ナーン……」
イクサがついついナナンに聞いてみれば、返ってきたのは呆れたような視線とやれやれ、とでも言いたげな鳴き声。
たぶんナナンにも呆れられているが、わからないものはわからないしわからなくても困らない。
肩をすくめたイクサは、ナナンを床に下ろして部屋の隅にあった丸椅子をひとつ、揺りかごに引き寄せた。
「まあ、それはどうでもいい。ナナン、うろうろして迷子になっても今日は探しに行けないからな。遊ぶならこの部屋で」
「ナンナーン」
腰を下ろしながら言えば、ナナンは控えめな声で鳴いて返事をした。ナナンにはどう考えても返事をしている、という鳴き方をするときがしばしばある。そのためついイクサもナナンに話しかけてしまうのだが、このごろはもう獣に話しかけることへのためらいなど無くなっていた。
「ナナンの飲み物と飯、ここ置いとくからな」
「ナーン」
イクサは背負っていた布袋からナナンセットを取りだして床の端に置いた。セットの内容はナナンの好きな果物が数個とナナンの気に入りの果実水が入った瓶、それからナナンの寝床にするための敷き布やもしも寒かったときのための掛け布もある。
もちろん、すべてランタナが用意したものだ。イクサの袋に入るだけあれもこれもと用意しようとするものだから、おかげでイクサのものはほぼ入っていない。
「ナーン?」
イクサが布袋を足元に放って揺りかごを揺らしていると、足元でナナンの声がする。頬杖をついたまま視線をやれば、果物をくわえたナナンがイクサのひざに前脚をかけて小首をかしげていた。
「あー、俺はいい。パン放り込んできたから」
布袋を持ち上げて揺らして見せれば、ナナンは納得したのか果物を引っ込めた。
ナナンの物でいっぱいになった袋のなかには、イクサの昼食になるパンがひときれとナナンと同じ果実水の瓶、それからいつも腰につけている回転式拳銃が入っている。
さすがに赤ん坊の世話をするのに回転式拳銃をぶら下げているわけにいかないからと、ランタナによって仕舞われてしまったのだ。
いつもある重みがないのに違和感を覚えるが、じきに慣れるだろう。手に入れたてのころはひとの命を奪えるその重みに違和感を覚えていたのだから。
そんなことを考えながらぼんやりと揺りかごをゆすっていると、不意に赤ん坊のまぶたがゆるゆると持ち上がる。
「おっと、ここにいる」
素早く立ち上がったイクサは、ナオを抱え上げてゆらゆらと部屋のなかを歩き回るのだった。




