9.「大丈夫。いっしょにいる」
イクサのポケットにはハンカチなどという気の利いたものは入っていない。持ち物といえば町長からの手紙と小銭と、ナナンくらいだ。
そして、泣いている女性にかける気の利いたことばも持ち合わせていない。ナナンを渡してランタナの言うところの毛皮による癒し効果を狙ってみるか、とも考えたが、女性の腕のなかにはすでに赤ん坊がおさまっている。
結果として、ほろほろと泣く女性を眺めるほかイクサにできることと言えば、泣き止まない赤ん坊を預かることだけだった。
「この子のおむつとか、荷物一式は?」
「え! あ、ええと、ここにある、あります、けど」
イクサの問いに先に動いたのは、同僚の黒髪女性だった。
黒髪の女性は赤ん坊を寝かせていた揺りかごのすぐそばから布袋を持ち上げて見せながらも、戸惑いの隠れていない表情を浮かべている。
突然現れた少年が赤ん坊の世話をする、と申し出たことに驚いているのだろう。
「あー、詳しいことはまた後で話す。いまは赤ん坊を泣き止ませて、あんたらは仕事に行かなきゃいけないんじゃないか?」
「あっ、大変! ごめんね、リサ。あたし仕事に戻るね。あなたはもうすこし、赤ちゃんと居てあげて。窓口にはあたしが言っておくから」
イクサに促されるまま、黒髪の女性は何度も振り返りながら部屋を出て行った。残されたのはイクサと茶髪の女性と、その赤ん坊だ。
赤ん坊は母親の腕に抱かれているのに、まだ泣き止まない。母親の腕のなか、顔を真っ赤にして全力で泣いている。だが、幸いなことに女性の涙は止まったらしかった。
「まずはおむつか、それとも腹が減ったか。最後に乳をやったのは?」
「え、ええと、まだ一時間も経ってません」
言いながらイクサが手を差し出せば、女性は戸惑いながらも赤ん坊を手渡してくれた。
「じゃあ、おむつかな。そこ、寝かせていい?」
「あ、はい。どうぞ」
許可を得るがはやいか、赤ん坊をさっきまでおさまっていた揺りかごに戻す。
黒髪の女性が教えてくれた荷物袋から新しい布を取り出しておいて、服の隙間から赤ん坊の股に指を差し入れた。
「湿ってる。気持ち悪いんだ」
ひとりごとのように呟いて、イクサは手早く赤ん坊の服をくつろげた。
思った通りしっとりと濡れていた布を新しい布と交換して、素早く元のように服を着せなおす。
汚れた布を丸めてすみに寄せて、泣き止まない赤ん坊を抱き上げて腕に抱え、ゆらゆらと体を揺する。
「もう気持ち悪くない。たくさん泣いて疲れたろ、しばらく眠れ」
イクサが赤ん坊に語りかけると、肩に乗ったままおとなしくしていたナナンがそろりと赤ん坊に顔を近づけた。
「ナァン、ナアァン」
ちいさな、やわらかい声でナナンが鳴く。子守唄のような、あやすような鳴き声だ。
ナナンの鳴き声に合わせてイクサがゆらゆらと体をゆすれば、赤ん坊のまぶたがとろとろと下がってくる。あれほど激しく泣いていた声は、いつのまにか途切れていた。
ゆらりゆらり、ナァンナァン。
おだやかで温かな時間に、イクサも寝たい気持ちになってくるけれど、ここで気を抜いてはいけないと経験から知っていた。
「大丈夫。いっしょにいる。眠ってもそばにいる。安心して目を閉じればいい」
ことばの意味が伝わっているとは思わない。けれど、声をかけることで赤ん坊に伝わるものもあるはずだ。
やさしく揺らしながらナナンのやわらかな声を聞かせていれば、赤ん坊の目はいつしか閉じていた。
ぽかり、と開いたちいさなくちがかわいらしい三角形を作っているのがおもしろくて、ついくすりと笑ってしまう。
「おやすみ」
胸をやさしく叩きながら赤ん坊を揺りかごに戻して、そっと掛け布を引き上げて揺かごをゆらりゆらりとゆっくり揺らす。
そのまま見守ること、しばらく。
穏やかな寝息が聞こえるようになってようやく、イクサはほっと肩の力を抜いた。
肩のうえでは、ナナンがまだやわらかな鳴き声で歌っている。
「……寝たの? こんなにはやく……いつもはおろすとすぐ起きてしまうのに」
ささやくようにつぶやきながら、茶髪の女性がふらふらと揺りかごに近づいた。
「寝たと思ってもすぐおろしちゃだめだ。すぐ起きて、今度はなかなか目を閉じなくなる。寝たと思ってからもうしばらく、あやしてしっかり寝るまで待つのがコツ」
「そうなのね。だから、いつも起きちゃってたんだ」
ちいさくうなずいた女性が揺かごをのぞきこむ。
やわらかな布に包まれて眠る赤ん坊の、おだやかな寝顔。ほんのりと光っているように見えるほど、美しく愛らしい。
赤ん坊の寝顔を見た女性も同じように思ったのだろうか。
強張っていた顔から力が抜けて、やさしくほほえむ様がまるで慈母ということばを体現しているようで、イクサの胸をじくりと痛ませた。
「あなた、とても慣れているのね。その……若い、のに」
「あー、まあ、小さいのの世話は子どもの頃にもしたし、このごろは何でも屋の仕事で子守りすることもあるから」
女性はうるんだ瞳がほんのりと感心するような眼差しになりつつ、イクサの容姿を見てほめ言葉に悩んだようだった。
イクサとしても、自身を客観的に見て子守がうまそうとは思わないし、それをほめられて喜ぶとも思えないと感じている。
現に、ほめられているのだとしても特別うれしくはない。
それでつい当たり障りのない返事になってしまったが、女性はむしろ安心したようだった。ほっと力の抜けたような笑顔を浮かべて視線をイクサから赤ん坊へと移動させる。
「そうなのね。弟妹の面倒を見てたなんて、えらいのね。あなたなら、安心してナオを預けられそう」
「その子、ナオっていうの」
名を呼んであやすのに確認しよう、とイクサが問えば、女性はしまった、と言いたげにくちを開けた。
「いやだ。あたしったら、まだ名前も教えてなかったの」
あわてて居住まいを正した彼女は、イクサに向かってきれいにほほえんだ。きっと受付で鍛えられたのだろう、と思わせる隙のない笑顔だ。
「リサ・スミス……いいえ、もう違ったわ。あたしはリサ・ウィリアムズ。リサって呼んで。それから」
そっと赤ん坊の眠る揺りかごに視線を落としたリサは、隙だらけの、けれどあたたかい笑顔を浮かべて赤ん坊の顔を見つめる。
「この子はナオ。おむつを替えてもらったからわかると思うけれど、あたしの息子なの」
「リサと、ナオ。俺はイクサ。何でも屋をしてる。呼び方は好きなように。町の連中はだいたい何でも屋、って呼ぶ、かな」
慈愛に満ちた表情を見ていられなくて、足元に視線を落としたイクサはいつになくぶっきらぼうに名乗った。
けれどリサは気を悪くした風もなく、声をあげた。
「そうね、あなたの名前も聞いていなかったのね。あたしったらもう、ほんとうにだめねえ」
その声に自分を責めるような色を感じ取り、イクサはそろりと顔をあげた。料理屋の臨時店員をしたときに、酒が回ってくると自分が悪かったと繰り返していたひとの声とどこか似ていたのだ。
「だめかどうかは知らないけど、今日からあんたが仕事してる時間の赤ん坊の世話は俺が見る。乳の時だけはどうしようもないけど、あとは俺に任せてあんたは仕事のこと考えててくれ」
自責の気配を感じたところで、なぐさめのことばが出てくるわけでない。
当たり障りなく伝えたいイクサの目の前で、ふたたびリサの涙腺は決壊してしまうのだった。