7.「……ちょっと早まったかな……」
エリスアレスの発言を受けて、ランタナの視線までも生ぬるくなる。
居心地が悪い。
たいそう居心地が悪い。
美しく整えられた広い部屋の明るさがひどく落ち着かなくて、逃げ出すため足をそろりと動かしたイクサをエリスアレスの声が引き留めた。
「ごめんなさいね、からかうつもりなんてないのよ。ただ、素直じゃないのね、と思っただけで」
「……そういうのいいから、仕事はあるのか、ないのか。仕事がないなら俺もう行くか、らっ!?」
振り向かないまま答えて、そそくさと部屋を出ようとしたイクサの首根っこをつかんだのはランタナだ。急に首元がぎゅっと締め付けられて、イクサは息が詰まる。
「落ち着け。仕事ならばいくらでもある。たとえば―――」
「ランタナ、先にその手を離しなさいな。イクサの首が絞まってるわよ」
片手でイクサを釣り上げたまま、ランタナは懐からちいさなノートを取り出した。
そのままノートの中身を確認しようとする従者を諌めたのはエリスアレスだ。
「おや、これは失礼」
「げほっ……あんた、俺のこと猫かなんかだと思ってないか」
悪びれた様子のない謝罪をくちにしたランタナが手を離すと、イクサは急に流れ込んできた空気にむせた。
恨みがましく見上げながらぼやけば、ランタナの切れ長の目がきらりと光る。
「猫? 猫と混同されたと思ったのですか? あなたが? 猫と?」
はっ、と鼻で笑ったランタナは真正面から真顔でイクサを見下ろした。
「思い上がりもはなはだしいですね。あなたのような愛らしくも小柄でもない人間が、あのふわふわでするりと流れるような愛嬌のかたまりである猫と混同されると錯覚するなど」
「あー……」
面倒なところを突いてしまった、と後悔したところでもう遅い。
目の前に猫がいるかのように、ランタナの目は宙を見つめてやさしく細められている。
「おわかりですか。猫とは、ただの獣ではありません。たしかに、四つ脚で体じゅうに毛を生やしているところは獣に該当するでしょう。けれど、それだけではないのが猫という生き物のすばらしいところです。しなやかな体に流れるような毛並み、愛らしい三角の耳が呼び声に反応してひくりと動く様は―――」
滝のように猫への思いを語り始めた侍従をエリスアレスはそっと部屋のすみに押しやった。壁に向かって喋り続けるランタナを放って、若い町長がイクサをもういちどテーブルへと導く。
ナナンが果物かごから好みの果物を転がし取っているのに微笑んでから、エリスアレスは腰に手を当て豪奢な金髪をふわりとさせた。
「それでなんだったかしら……そう、仕事の話よ」
「おー、言っといてなんだが、俺はたいした仕事できないから。文字は多少は読めるけど、書けない。計算は簡単なやつしかできない」
肩を押されて椅子に座ったイクサは、強い光を宿したエリスアレスの瞳に期待の色を見て先に断っておく。
ぱちり、まばたきをしたエリスアレスは、けれど落胆ではなく軽い驚きのこもった瞳でイクサを見下ろした。
「あら、イクサは文字も読めるのね。商人の子でもないのに、立派だわ。墓守の家で習ったのかしら」
「あー、うん」
調査が入るのを嫌がったウォルフを思い出しこれも濁すべきかと一瞬思うが、イクサはおとなしく話すことにした。
「代筆もそこそこいい稼ぎになるから、って書いてるのを見てたから。俺は書けないけど、家にいるちいさいやつで書く練習してるのもいる」
「そうなのね。ゆくゆくは町で文字や計算を教える場所を作れたら、とは思っているけれどまだまだ先になりそうだから、身内で教えられるひとがいるのはありがたい事だわ」
うんうん、とうなずく少女の頭のなかには、どれだけ先の町の未来が広がっているのだろう。
その日その日を生き延びているだけのイクサなどには想像もつかないが、きっと彼女のようなひとを良い町長と言うのだろう。
ぼんやりとエリスアレスを見上げていると、彼女はぱちんと手を合わせて「そうなのよ」と勢いのある声をあげた。
「そう、身内で助け合えるのならそれがいいのだけれど、みんながみんなそうはいかないでしょう? だからね、そういう困っているひとを助ける制度を作りたいのだけど、なかなかすぐには動けなくて。制度が導入できるまでのあいだのお手伝いをあなたに頼みたいのよ」
エリスアレスのことばで、イクサの頭のなかには町で暮らすいろいろなひとの姿が思い浮かんだ。
仕事が忙しすぎて自宅の屋根の雨漏りが直せないでいる商人。
仔馬が生まれたはいいけれど馬車を動かさないわけにいかないから仔馬の世話を頼んできた荷馬車の持ち主。
嫁さんが間も無く出産を迎えるけれど仕事に出なければいけない鉱夫に産婆を呼ぶ役を頼まれたときは、イクサなりに気を張ったものだ。
それでも、他人に金を払ってでも助けを呼べる者はまだいい。頼る者もなく抱え込んで、倒れそうになりながら生きていたひとを身近に見てきたイクサが断る理由はなかった。
「おー、手伝いなら何でも屋の仕事でいろいろやってるからな。わかった、引き受けた」
いつになくあっさりと答えたイクサにエリスアレスがおや、と目を丸くしたが、彼女の瞳はすぐにまたいたずらっぽく細められる。
「内容も確認せず承諾して大丈夫かしら?」
にんまりと唇のはしを持ち上げて笑う彼女に嫌な予感がしたけれど、一度引き受けたのを取り消すのはどうにもしゃくだ。それに、ナナンを捕まえるどたばた以上にひどい目に合うなど、そうそう無いだろう。
イクサは腹をくくって頷いた。
「おー。あんたらが必要だと思う助けなんだろ。だったらやる」
「あら! ふふふ、言ってくれるわねえ。そうも信用されたら、がんばらないわけにいかないわね」
うれしそうに笑ったエリスアレスが続ける。
「だったら、イクサ。あなたに依頼するわ。今日から一週間、赤ん坊のお世話をしてちょうだい!」
「……え?」
「キュイ?」
思わぬ依頼に間抜けた声をあげたイクサにつられたのか、果物を食べていたナナンが顔をあげる。
今はそれよりも依頼の内容だ、とイクサがくちを開くよりもはやく動いたのは、ランタナだった。
「ナナンさま、おくちもと失礼いたします」
素早く、かつ丁寧な所作でナナンの前にひざをついた侍従は、懐から取り出したまっさらな布でナナン口元をそっとぬぐう。
そのきびきびとした動きは、寸前まで壁に向かって猫への愛を説いていた男と同一人物とはとても思えない。
エリスアレスは見慣れているのか「本当にランタナは、ちいさいものやかわいいものが好きねえ」と笑っている。
「……ちょっと早まったかな……」
イクサはこの主従を信じると決めた自分をさっそく後悔しはじめたのだった。




