12.「あー、ここどこだ?」
ふかふかのやわらかなぬくもりに包まれて、イクサは幸せに浸っていた。
気持ちがいい。
それだけを感じていた意識が、だんだんと浮上していく。
ああ、目が覚めるのか。
頭のどこかでそう理解したときには、すでに幸せな夢の世界から追い出されていた。悪夢も見ずに眠り込む日などそうそうない。
「入るぞ」
ノックの音もだれかの声も、しっかりと耳に入ってくる。
けれどまだこの幸せなひとときを手放したくなくて、イクサは目を閉じたままじっとしていた。
「まだ寝ているのか。熱は……ないな。むしろ冷たい」
額に乗せられた手があたたかい。そしてすべすべしている。
「おい、起きろ」
静かな声が鼓膜を揺する。なじみの薄い男の声にすこし考えて、ああランタナの声か、と思い至った。
良い暮らしをしている奴らってのは、手もきれいなんだなあとイクサは目を閉じたままぼんやり考えるけれど、起き上がる気はない。
なんならこのまま二度寝としゃれこみたいところだが。
「おい、体温が下がりすぎだ。起きて何か食べろ。二日間も寝込む気か」
ゆさゆさと肩をゆするランタナの声が睡魔を払いのける。
イクサは食べるために起きるくらいなら、食べずに寝ていたい派だ。
けれど町長の従者がそんな事を知るはずがない。容赦なく掛け布団を引っ張りながら耳元で騒ぐ。
「起きろ。ただでさえ骨と皮しかないのに食事をとらないなど、お嬢さまに心配をかける気か」
「……はいはい、起きる。もう起きてる」
しつこいランタナに根負けしてイクサが布団から顔を出したとき。
「キューッ」
「うっ⁉︎」
鳴き声とともにイクサの胸に突撃してきたのは、青い毛皮の珍獣ナナンだ。
頭をこすりつけようとしているのか、ナナンが額の石をぐりぐりと押し付けてくれるものだから、イクサは地味な痛みに耐えねばならなかった。
「な、ナナンさま! 淑女が男の寝所に入るなど、そのようなはしたない真似を!」
おまけにランタナが見当違いな叫びをあげて騒ぐものだから、イクサは布団をかぶって寝なおしたい気持ちになってくる。というか、ナナンは雌だったのか。
キュイキュイぎゃあきゃあ騒がしいふたりに、いよいよイクサが掛け布団に潜り込みかけたころ。
「ランタナ、けが人のそばで騒ぐものじゃないわ」
かつん、とブーツの踵を鳴らしてエリスアレスが戸口に顔を出した。
こうもひとが集まってきては、イクサも布団を諦めるしかなかった。名残を惜しみながら体を起こし、掛け布団に別れを告げる。
「いたた……あー、ここどこだ?」
あちこち痛む体をどうにか起こしたイクサは、ようやくここが見慣れない豪華な部屋であることに気がついた。
飴色をした部屋の壁には高価そうな金縁の時計がかけられ、壁際にはやたらと装幀の凝った本が詰まった棚が並ぶ。書き物机は気軽に座るにはどっしりと構えすぎていて、机のすぐそばにある窓には歪みのない硝子がはまり、布をたっぷり使ったカーテンが美しいひだを描いている。
「とんでもなく寝心地がいいと思ったら」
どうやらイクサは町長の家の一室に寝かされていたらしい。
見下ろした布団はやわらかくて軽く、つやつやした金茶の布地に黒くしっとりした布で模様が描かれた豪華なものだった。当然のようにサイズも大きい。イクサの粗末な寝床四つ分はあるだろう。
ついでに言えばイクサが身につけているものもまた、ひどく肌触りの良いきれいなシャツとズボンだ。
「この部屋はまだ入れ替えが追いつかなくて、前町長の趣味で無闇と派手なままなのよ」
あたりを見回すイクサに苦笑しながら、エリスアレスが開きっぱなしの扉をこつん、とノックした。
「入っても?」
「今さらだ」
「ふふ、それもそうね。お邪魔するわ」
くすりと笑ったエリスアレスの靴音を吸い込む絨毯は、ひどく複雑な図柄でいかにも高級そうだ。そのうえ広い部屋の床にあって見劣りしない大きさもあるとなると、イクサは踏みつけるのが嫌になってくる。
「怪我の具合はどうかしら」
イクサの腰掛けるベッドの横に立ったエリスアレスが、純粋な心配の色を宿したひとみで問うてくる。ひざのうえのナナンも同じようにつぶらなひとみで見上げてきている。
「あー、まあぼちぼちだ。痛いとこは痛いけど、動けないほどじゃない」
大型犬にかまれたほうの手を握ったり広げたりしてから、イクサは答えた。
丁寧に巻き付けられた真っさらな包帯のした、引き攣れた痛みはあるものの動作に問題はないようだ。あちこちぶつけた覚えのある箇所も、にぶく痛みはするが動くのならば問題はない。
「それはなによりだわ」
にこりと笑ったエリスアレスは、表情を改めてイクサに向き直った。ふわふわしたドレスの前で両手をそろえて、イクサの顔を真っ直ぐに見る。
「あなたが迅速に依頼をこなしてくれたおかげで、町の外交に支障をきたさず事態を収めることができました。改めて、町長として依頼の完遂に感謝します」
明るく笑う少女とは違う、町長の顔をしてエリスアレスが言う。その斜め後ろでは、同じくぴしりと姿勢を整えたランタナが主に代わるかのように静かに深く頭を下げていた。
なんともいえない居心地の悪さに、イクサはぽり、と頭をかく。
「あー、まあ、仕事だからな。引き受けた以上はやる」
あさっての方向を見ながら答えると、視界の端でエリスアレスがきらりとひとみを輝かせた。
「すてきね。イクサはとても良い何でも屋だわ」
「……そんなことはじめて言われた」
「あら。みんな素直じゃないのかしら。それとも思っているけどあなたが照れるから、言わないだけかしら」
「……」
ますます居心地の悪くなったイクサは、黙ってひざのうえのナナンをなでた。小首をかしげたナナンが「キューイ?」と鳴くのと同時に、エリスアレスがころころ笑う声が聞こえる。
「お嬢さま、こちらを」
会話が途切れるタイミングを伺っていたのか、ランタナが呼びかけながら一歩前に出た。その手にあるのはおおきくて立派なトレイだ。
「そうだったわね。イクサ、受け取って」
エリスアレスがこくりと頷くと、ランタナはすっとイクサの真横に立った。目の前に差し出されたトレイのうえには札束とちいさな箱、そしてきれいに畳まれた布が置いてある。
「こちら、報酬ははじめに提示したものに加えて、依頼遂行のために負った怪我の治療費、迅速な依頼達成に対する増額がしてあります」
「え?」
「もちろん、それとは別に銃弾も用意したわ。それから、これはわたしからのお詫びの気持ちよ」
思わぬ報酬の増額に目を丸くしたイクサに、エリスアレスがトレイに置かれた服を手にとって広げてみせた。
「あなたの服、ずいぶんボロボロになって血で汚れてしまっていたから。代わりの服を用意したのよ。受け取ってくれるかしら」
駄目かしら、と小首をかしげたエリスアレスは、愛らしい少女の顔をしながら探るようにイクサを見つめてくる。
その視線と「お詫び」だということばを聞いて、イクサはいろいろと聞きたかったことをすべて飲み込んだ。
「……俺はちょっと変わった愛玩動物を見つける依頼を受けて、それをこなした。その途中で転んで怪我したから、依頼主が治療をしてくれた。それでいいか?」
「ほんとうに、あなた良い何でも屋ね!」
にっこりと笑ったエリスアレスが、イクサの手に新品の服を渡してきた。一見すると元々イクサが身につけていたものと大差ない庶民的な衣服だが、触れるとその質の高さがありありとわかった。
この服も口止め料のうちなのだろう。
ナナンにまつわる話の一切合切、回転草禿げの存在もイクサは聞けないし、他言もできないというわけだ。
「ああ、もうそれでいい。俺は善良な何でも屋。それじゃあ依頼もこなしたことだし、ここらでもうひと眠りーーー」
思考を放棄したイクサは、ナナンをトレイの上に置いて掛け布団に手を伸ばす。いそいそと潜り込もうとしたイクサに、ランタナの冷たい声が降る。
「だから、まずは食事をとれと言っているだろうが!」
「キュッ!」
「あああ! ナナンさまの前で大声を出して申し訳ありません! しかしこの男が……」
「あらあら。善良な何でも屋は、ずいぶんと豪胆ねえ」
何やら騒がしい声を放って、イクサは心地よい寝床に身をまかせるのだった。
〜何でも屋と珍獣ナナン 完〜