10.「いや、俺べつに従者じゃないから」
逃げるイクサを強い光が照らし出す。
影が地面に縫い付けられてしまいそうなほどの光を放っているのは、蒸気燈だろう。
走る蒸気三輪車にぶら下げられているらしい光は、ぐらぐらとおおきく揺れながらもイクサが影に逃げることを許してくれない。
追われるとつい振り向きたくなるのはひとの性か。ちらりと背後を見やったイクサは、目を焼く光にすぐさま前を向いて走り続けた。
「もう逃がさないんだなあ〜」
うれしそうなタンブリンの声が近い。なにより蒸気三輪車の熱気を間近に感じて、イクサは覚悟を決めた。
車にかなうはずがないのはわかっている。もう轢かれる寸前なのだということもわかっている。
それでもナナンだけは逃がそうと、イクサは駆ける脚よりも青い毛皮の獣を抱えた腕に力を込めた。
町長の家まではもう通りをひとつ挟むだけ。ナナンが真っ直ぐ駆けてくれれば、逃げ切れるかもしれない。
「いけ、ナナン!」
祈りを込めて名前を呼び、ナナンを投げる。できるだけ遠くへ。腕に力を込めるため、イクサの脚は止まっていた。
次の瞬間、イクサの体を衝撃が襲った。
ぐんっと引っ張られるように体が前に飛ぶ。ひときわ衝撃を感じた腹部が苦しいのに、ほほを過ぎ去る夜風は涼しい。
案外、痛みは感じないものなんだな……。
そんなたわいのないことを考えた、一瞬あと。
「受け身は自分で取りなさい、イクサ!」
鋭い声が耳に入って、イクサはとっさに言われた通り衝撃に備えた。
その直後、ひざが地面とキスをしたのを皮切りに、イクサの体は夜の通りをごろごろと転がった。
「……まだ、死んでない……?」
むくりと起き上がったイクサが視線を巡らせると、地面に転がった蒸気燈に照らされた豪奢な金髪が目に入った。
「町長……と、変態」
場に不似合いなドレスをまとった町長、エリスアレスの横にはナナンを捧げ持つ変態ことランタナが立っている。
編み上げブーツで仁王立ちするエリスアレスの手には長い鞭。鞭の先はイクサの腹部に巻きついている。
蒸気三輪車にはねられたと思った衝撃は、この鞭だったらしい。
勝気な笑みを浮かべるエリスアレスの横では、ランタナが真顔で「痛むところはございませんか。ああっ御髪にほつれが!」とナナン相手に盛り上がっている。
「さあて。珍獣をさらうだけでは飽き足らず、我が町民に危害を加える愚か者の顔を拝ませていただこうかしら?」
凄んだエリスアレスの手首のひとしなりで、イクサの腹に巻きついた鞭がハラリとほどけて宙を舞う。
鞭はぱしんと軽い音を立てて、横転した蒸気三輪車の横に転がるたるのような人影に向かった。
「ぐえっ」
かえるが潰れるような音を立てて、エリスアレスの前に転がされたのはタンブリンだ。
急に近づいた男に驚いたのか、びくっと毛を逆立てたナナンの背をなでるランタナの手つきは気持ち悪いほどやさしい。
「わっ、わしにこんなことして、ただで済むと―――」
「おお、毛を逆立てられるさまもなんと愛らし……いえ、怯えさせるなどあってはならないこと。以後、このランタナがお守りしますので、ご安心ください」
「まああ。どなたかと思ったら前町長のタンブリンさんでしたの」
「わわわ、わしの座を奪っておいてよくもそんなに堂々と姿を見せ―――」
「一夜を野でお過ごしになられるなど、なんとお労しい。今夜は極上の寝床をご用意させていただきますので、ごゆっくりお休みくださいませ」
「……ランタナ、しばらく下がっていてくれるかしら」
顔を赤くしてタンブリンが怒鳴るそばで、ランタナがナナンに反応する。その声がことごとくタンブリンの声にかぶるものだから、たる男とやり取りしているエリスアレスはとてもやりづらそうに、額を抑えた。
けれどランタナはきりりとした顔でエリスアレスの願いを退ける。
「いけません。お嬢さまがおひとりで相手をして、万に一つも御身になにかありましたらどうします」
「だったら、ナナンをイクサに預けて。そうでないなら、下がっていて」
懇願するエリスアレスに、ランタナが苦渋の決断を下す。
地面に座り込んだままのイクサの元までやってきたランタナは、ぶるぶる震える腕をイクサに差し出した。
「くうっ、ううっ、本来であればこの身をもって守り通すと誓うところでありますが! 私はお嬢さまをお守りすると誓ってしまった身! ゆえに、大変残念で名残惜しくありますが、あなたの御身をこの何でも屋に預けますっ」
美男子が苦悶の表情を浮かべて決断をする、その姿はまるで悲劇を演じる舞台俳優のように様になっている。けれど言っている内容は単にナナンを手放したくないというだけなので、総じてとても残念だな、と彼を見上げながらイクサはぼんやりと思う。
「キュキュー!」
「おわ」
イクサがぼうっとしていると、ナナンはぴょいと飛び上がりイクサのひざに着地した。
心配げに耳を垂らしたナナンは、土埃にまみれ血で汚れたイクサのほほをぺろりと舐めた。
「あああっ! そんな汚いものを舐めたらお体に障ります!」
いつものすまし顔はどこへやら。
叫び声をあげたランタナは、服が汚れるのも構わず地にひざをつき、どこからか取りだした手巾でイクサの顔をぬぐいはじめた。
「おい、それ絹じゃ……」
「やかましい何でも屋、動くんじゃない。ナナンさまのくちに妙なものを入れてみろ。ナナンさまのお身体をお前の血で汚してみろ。私の全力で持ってその行為の愚かさをわからせてやろう」
肌に触れる高価な布にうろたえるイクサをランタナが押さえつける。
美男子に凄まれてイクサが戸惑っているうちに、犬の牙で食い裂かれた傷口に絹の手巾がきつく巻きつけられた。
「いたた」
「何でも屋、お前もなんて汚い恰好でナナンさまをお迎えするのか。まったく、従者の風下にも置けないやつだ」
「いや、俺べつに従者じゃないから」
「何だと、ナナンさまにお仕えできる栄誉を―――」
ぱしん。
「ランタナ。そろそろ、いいかしら?」
鞭のひとしなりと笑顔のエリスアレスのひと言で、ランタナは発条仕掛けの人形のように立ち上がった。
直立不動、背筋の伸びた美しい姿勢を取ったランタナが脇に控えたところで、エリスアレスはぱしり、と鞭を手のひらで鳴らしてにっこりとタンブリンを見下ろした。
「さあ、お待たせしましたわね。あなたのお話を聞いてさしあげますわ」




