プロローグ
「主文、被告人を死刑に処す」
男に言い渡されたのは最高裁判所の判決。つまり男の刑は確定したということだ。
数年に渡った裁判。少なからずの期待は持っていた。しかしそれは主文の後回しで裏切られた。それは死刑を意味することを男は知っていた。到底判決の内容など頭に入ってこない。主文から始まる最期の一行も聞こえていない。ただただ男にとっては終始無音な会場に感じられた。
判決後、男は死んだような眼で、ただ裁判官をぼんやりと見ている。時間が止まったように微動だにしない。あまりに動かないので裁判官や弁護士たちは困惑。男はただ、全身で絶望を感じているのだ。一体何故こんなことになったんだ。ありえない。許せない。様々な感情が男を纏う。
ついに全身の力も入らなくなってきた。男はその場に崩れた。刑務官が男を立たせようとした。しかしその手を男は拒絶。連れて行かれたらもう終わりだ。
必死だった。「オレは無実だ!」と叫びながら傍聴席との柵を越えようとする。無論すぐに刑務官に取り押さえられた。男は何度も何度も叫んだ。刑務官に慈悲を乞いた。騒ぐ傍聴人にも慈悲を乞いた。しかし誰も手を差し伸べない。皆が冷たい視線を男に送る。
見かねた刑務官が男を無理やり引きづり法廷から強制的に退場させた。法廷には男の悲鳴が虚しく残る。
男の残響は次第に聞こえなくなった。
一方、裁判所の外は記者たちで賑わっている。「死刑です。死刑です」カメラに向かって報じている。
ニュース番組の司会者がそれについての意見をコメンテーターに要求。コメンテーターは妥当な判決だと応える。
加えて記者は、男が判決後に叫んでいたことも伝えた。確たる証拠があるにもかかわらず無実を主張するのは往生際が悪い。コメンテーターは辛口に批判した。
世間も妥当な判決だと騒いだ。無理もない。あんな残酷なことをした男には死刑しかありえない。この男以外に犯人は考えられない。これが世間の答えである。
男の死刑は誰もが望んだ。むろん被害者遺族も望んでいたのは言うまでもない。
男が犯行の否認を続けていることに多くの人が怒りを覚えた。
死んで償え。それが世間の声である。
拘置所でも男は自身の無実を訴えた。
しかし、誰一人信じるものはいなかった。
いつしか彼の存在は時と共に忘れ去られた。
判決から十八年。
男はもう慈悲を求めていない。今はもう別の感情に支配されている。最期の日までその感情を沸々と高めていた。
朝、刑務官が歩いてくる。いつもと違うことはすぐに分かった。誰もがその足音に恐怖する。しかし男はその音を愉しんだ。今日こそここで止まれ。男は何度も念じた。
男の願いはついに叶う。
刑務官がその冷たい扉を開けると、男はすでに準備ができていた。男は満たされた気持ちになり、微笑んだ。
男は最期に刑務官の一人に何かを呟いた。何を言ったのかは分からない。
男は吊るされた。
医師が男の死を確認する。
動機不明のまま事件は終焉。
しかし、男にとっては始まりである。
雨が降っていた。
火葬された男の肉体は、煤で汚れた煙突から虚しく昇っていく。しかし、雨粒が男の灰を地に戻した。
妖となる契約は、それで充分なのである。