三拍子で眺めた理想は遠く
「勝負だ」
白銀の世界に戦闘開始を告げる紅蓮の爆音が鳴り響く。
「ギャァンッ⁉」
鮮やかに咲き誇る爆炎が吹き荒れる白魔を吹き飛ばし、その中心で焔を一身に受けた獣が短い悲鳴を上げた。
長い体毛の下に隠れた真紅の双眸が揺れる。筋肉質で強靭な体躯が、警戒で一歩後退るのを見た。
今しかない。偶然ではなく、自ら作り出したチャンスを前に、獏は大きく前進した。
「行っくぞぉぉおおおッ!」
自らを振り立たせる砲声と共に、彼は雪化粧が施された地面を踏みしめ突貫する。
吹雪の中を一息に駆け抜け、両手で握りしめたショートソードを振りぬいた。
「ギッァア~~~~!」
剣を振るったのは人生で初めて。当然技術は無く、ド素人が振るう力任せの一撃だが、確かな手応えと共に結果は伴った。
横薙ぎに振るった剣の軌跡をなぞる様に、真っ赤な線が後を追う。
降り積もる雪と、はらりと舞う茶色い体毛と共に、真紅の鮮血が地を濡らす。
「やった……っ!」
ぽたりと白を汚す赤を見て、獏の口元が弧を描いた。
やはり予想通りだった。今獏の肉体として存在しているこの体は、現実に存在する獏の体とはかけ離れた身体能力を宿している。
頭の中で思い描くイメージ通りに身体が動く。振るう剣は容易く肉を切り裂いた。
必要なのは勇気だった。震える足を真っすぐに前へ向かわせる勇気さえあれば、現実では敵う筈も無い化け物を相手にしても勝利への道を歩む事が出来る。
恐怖が薄れていく。脳裏に浮かぶ勝利のイメージに血が沸き立つような高揚感。
「いけ――」
「グルゥアッ!」
「う゛ッ⁉」
追い打ちをかける為にさらに前へ踏み込んだ獏の胸元を、化け物の腕が殴り飛ばした。
衝撃と体の内部が軋む音が、骨を伝って叩き込まれる。世界が冗談みたいに回転し、彼の体は勢いよく雪の上をバウンドした。
前々回の死がフラッシュバックする。落下を予感した時には、既に無意識の内に身体が動いていた。
握りしめた刃を真っすぐに振り下ろす。両腕が痺れるような衝撃。金属と石がぶつかる甲高い音が響き、僅かに刺さった切っ先が獏の体を場に留めた。
落下死は免れた事を喜ぶ余裕は獏にはない。胸が押しつぶされていると錯覚してしまう程の圧迫感で息も吸えない。
ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた腹部にボウリングの球を落とされた様な感覚。折れた骨がどこかに刺さっているのか痛みが引かない。内臓が雑巾絞りの様に捻じれてる。
呼吸をしようと口を開けた瞬間、喉から何かが競り上がり、盛大にヘルメットの内部にぶちまけた。
「ぶッ、ゴッボ……ッ!」
鉄臭い匂いが鼻を突く。頭が酸欠と鈍痛でくらくらする。涙でぐにゃりと滲んだ視界が白ではなく赤黒い液体で彩られた。その全てが血だった。
吐き出した鮮血越しに、獏は迫りくる獣を見た。
衝撃で動けずにいる獏へと獣は容赦なく肉薄する。
雪上を疾駆する化け物が、獣毛を靡かせ飢えた獣を思わせる動きで襲い掛かる。
大きく開かれた口内とぬらりとした鋭牙が視界一杯に広がり、獏の腰から上が呆気なく喰い千切られた。
◆ ◆ ◆
「お兄ちゃん! じゃーん! 今日は風邪完治祝いという事で、ステーキにしてみました! どう、どう?」
「うん、すごくおいしい……」
「じゃあもうちょい美味しそうに食べてよっ! どうしちゃったの⁉ まだおかわりもあるのにっ」
「いやホント、すっごくおいし……うっぷ」
「わあああああ! お兄ちゃーんっ!」
◆ ◆ ◆
かろうじて滑り込ませた刃の腹を両手で支え、獣の剛腕を受け止める。細く薄い刃であっても、鋼はそれなりに頑丈だ。
寸前で防御は間に合ったが体勢が悪い。衝撃の全てを受けきる事は出来ず、雪上に二本の線を引きながら後退を余儀なくされた。
打ち付けられた重たい衝撃に膝が笑う。
「うひぃ」
ぞくぞくと不快感が這い回り、悲鳴を上げ固まりそうになる身体に鞭打ってごろりと横に転がった。
今の今まで立って居た場所が獣の顎に削り取られる。現実に比べて多少は頑丈になっている様だが、見た目通りの防御力しかない装備ではあの牙は防げない。
コンマの差で死にかけたという事実に冷汗が背筋を凍らせた。
「グルルゥ」
血に飢えた獣の唸り声が獏の耳に滑り込む。そこは死の間合い、この距離で声を聴いたのは死に際以外で経験が無い。
恐怖が蘇る。死の記憶はそう簡単に無視出来るものではない。
それでも。
立ち止まっている暇なんて無い。
歯を食いしばって震えを噛み殺し獣の眼を睨みつけた。両者の視線が僅かに交差する。
瞳から恐怖の感情が抜け落ちる。代わりに芽生えるのは猛々しい光。
(踏み出せ、もっと)
極限まで開かれた眼球が周囲の景色を細かに拾う。獏が立って居るのは、獣の間合い。そこは獏の間合いではない。
(もっと、極至近距離まで近づかないと、この剣でこいつは殺せない)
目と目が絡み合う距離であっても、彼の剣ではまだ精々が薄皮を切り裂く程度。命を奪うにはさらに踏み込む必要がある。
湧きあがる恐怖は決死の覚悟でねじ伏せた。
「おオオッ!」
突貫。そして、炸裂。
「グルぁあアッ!」
靴の裏で雪が弾け、ねじ込む様に突き出した刃が深々と獣の肉に沈む。
跳ねる鮮血が視界を汚した。想定外の傷を負い、獣は確かに悲鳴を上げた。
だがそこまでだ。
「うっ」
少年の瞳に何を見たのか、獣は咄嗟に防御に出た。胸部へと目掛けて突き出した刃が貫いたのは、間に挟まれた獣の剛腕だった。
刃は心臓に届かず、獣は血を流す腕を勢いよく振り上げる。
あまりにも簡単に獏の体は高々と宙を舞った。
「うわぁあああ⁉」
手を振り回そうと掴める物は何一つない。
暴風に煽られ、彼の体はたっぷりと絶望の浮遊感を味わう。
この後の展開は決まっている。
空は翼の持たない人間には許されていない領域。獏の命へ牙を突き立てる力の名前は『重力』。
逃れる事の出来ない当然の法則により、悲鳴を上げる間もなく少年の体は地面に叩きつけられた。
「げぼッ! ガぁ、ぶッばッ!」
間違いなく、身体の中で生きる為に必要な何かが破裂した。
穴という穴から噴き出した液体が顔中を汚す。噴水みたいだと、一周回って冷静な思考の隅でぼんやりと考えた。
痛みはまだ感じなかった。意識が追い付いていない。
くらくらと瞼の裏で星が飛ぶ。内臓が花火みたいな弾ける音を鳴らしてる。
全身が壊れたおもちゃの様に痙攣し、そこで漸く、獏の体は痛みを思い出し。
「ギャァオオッ!」
獣の咆哮が大気を揺らす。その大咆哮も獏には何一つ聞こえていない。
黒く、赤い世界で感じるのは痛みだけ。一瞬で精神を破壊する激痛だけだ。
喉が張り裂けんばかりの絶叫も言葉になる事は無い。
激痛で埋め尽くされた思考へ、命の灯が掻き消える前に、突然何かが割って入って来る。
それはそぶりと顔面を貫き脳みそをかき混ぜられる感か――――。
◆ ◆ ◆
『よう 遊ぼうぜ 翔の家集合な』
『おれは良いけど家なにもないぞ』
『取り敢えず集まるだけだから 何するかは後で決めようぜ な、獏?』
『いや 俺は無理だ』
『? 何か用事があるのか?』
『用事というか 今週は大事を取って家で過ごそうと思っててさ 茜も心配してるし 悪いな』
『本当に風邪だったのか⁉ 信じられない』
『な 馬鹿は風邪引かないって言うのに』
『俺は馬鹿じゃないっ!』
『冗談だろ』
『ウケる』
『……覚えてろ お前ら』
◆ ◆ ◆
獣が腕を振り上げる動きに合わせて、獏は後方へ飛んだ。
深々と突き刺さったショートソードは一先ず諦めるしかない。腰からナイフを引き抜き、左右に構える。
未だに肉を味わえない事に苛立ちを隠せない様子でこちらを見下ろす獣の紅い双眸には、侮蔑に混じって僅かに警戒の色が見え隠れする。
それでも傲慢に、不遜に、獣は自らが上位に立って居る事を疑わない。
それは正しい。現に獏は何度も獣に殺されている。
だが『絶対』は存在しない。可能性はゼロではない。
この世界において、獏には制限付きだが『セーブ&ロード』が可能という素晴らしい力が味方している。
少しづつ経験値さえ積み重ねれば、あとは根気の問題だ。
現に状況は間違いなく前進し始めている。
傷つき血を流す前足を見て、獏の表情に獰猛な色が浮かぶ。口角がヒクついた。全身が燃える様に熱くなっている。
戦闘を重ねるにつれ、死を重ねるにつれ、何か新たな感情が自分の中で次第に膨れ上げっていくのを感じていた。
どくどくと早鐘を打つ心臓の鼓動が良く聞こえる。恐怖によく似た、しかし全く異なるその感情の名前を獏はまだ知らない。
「そのまま余裕ぶっこいてやがれ」
血に汚れた黒いヘルメットの下で、ほんの僅かに獏の口元が弧を描いた。
思考が、脳が、全身が、『何か』に染まる。
対峙する両者の距離は先ほどよりもさらに遠い。ともに間合いから外れた距離。
合図はなかった。それでも、戦闘に身を投じる両者にしか分からないタイミングは存在した。
「おおッ!」
「ガグルウァ!」
同時に地を蹴り、彼らは雪上を疾走する。
瞬く間に獣は目と鼻の先まで迫りくる。だがまだ獏の間合いには遠い。ショートソードとナイフでは長さがけた違いに違う。
さらに近くへ。死ぬかもしれないと脳裏で囁く恐怖の声を振り切って、獏はさらに前へ踏み込む。
互いの一撃が正面で激突する。容易く人を細切れに出来る鋭爪を前に、獏は逃げない。二本のナイフを力任せにぶつけ、強引に軌道をずらす。
紅く染まった獣の双眸が大きく開かれるのを間近で覗き込み獏は笑った。
捨て身になった人間は怖いと聞いた事がある。その通りだと思う。
別に構わなかったのだ、弾くのが失敗しそのまま刺し貫かれようが。
彼には次がある。死は終わりではない。
(とはいえ怖いもんは怖いけどッ!)
ただ開き直っただけだ。
じっとりと掌が汗ばんでいる。死への恐怖を完全に克服した訳では無い。
今は、まだ。
「ふッ!」
幾つもの死線を掻い潜り漸くたどり着いた超至近距離で、手の中のナイフをくるりと回転させ逆手に持ち直す。
頭部であればどこであろうと致命傷になりうる筈。降り積もった雪を踏みしめ、全体重をかけて体毛に隠れた眉間へと狙いを定めた。
「オラァ!」
渾身の力で振り下ろした刃の全てが肉に埋まった。
だが、狙いは外れた。
獏の攻撃に合わせて獣の方から懐深くへ踏み込んできたのだ。
避けられないと見るや否や、避けない。肉を切らせて骨を断つとはきっとこういう事を言うのだろう。
胴に牙を深々と喰いこまされ、見事に骨を断たれた獏は思わず感心してしまっていた。
「ああぁア゛……」
狩り取った獲物を、自らの勝利を誇示するように獣は獏を口に咥えて吊り上げる。
痛みで意識が気絶と覚醒の間で反復横跳びをしていた。
朦朧とする視界に、それでも鮮明に映っているのは真っ赤な双眸。
流れ出る血を飲み下し、全身に浴び、酔いしれる獣の紅色の眼球。
「おばえ……」
がたがたと血反吐を吐き零す。
もうどうしようもない。手足に力は入らず、血と一緒に体中の全てが流れ出していくような感覚を覚える。
死まで秒読み、次第に近づく死神の足音を聞いた。
だからこれは負け惜しみだ。
身体の奥底から湧きあがる恐怖を誤魔化す為に、くじけそうになる心を奮い立たせる為に。
彼は必死で言葉を紡ぐ。
「見でろ。吼え面……ががぜでやる……ッ!」
獣が敗者の言葉に耳を傾ける事は無かった。
ブヂン! という異音と共に、獏の体は二つに分かれ意識は完全に暗闇へと落ちていく。
そして朝を迎えるのだ。