夢うつつ②
最近兄の様子がちょっとおかしい。
テキパキと慣れた手付きで朝食の準備と弁当作りを並行して行いながら、天道茜は兄の様子を思い出しふむぅと小さく唸る。
本当に些細な事なのだが、一緒に生活している茜には喉に魚の小骨が引っかかっているような、小さな違和感を兄に覚えていた。
(今日も起きてるかな……)
ちらりと視線を階段の上へ向けた。兄の様子に違和感を覚えた理由の一つ。
獏は朝が弱い。三度ほど朝のコールをしてやって、漸く部屋から這い出て来るほど。
それがここ二日、呼びに行く時にはすっかり目を覚ましているのだ!
(……あれ、これだけ?)
……確かに普段とは違うとはいえ、別に心配するような事では無い。
思わず自分の思考へ入れてしまったツッコミを、茜は慌てて首を振って放り捨てた。
無論これだけではない。まだあるのだ。話は終わっていない。
獏は全てを終わらせた一日の終わりにテレビを見るのが好きだ。茜が注意しても聞かない程、夜更かしが大好きだ。
それなのに! この二日、兄は全く夜更かしせず十二時前にはしっかり布団の中に入ってぐっすり夢の中。そのせいで茜は一人寂しくテレビを眺める事になっているのだ。
これは絶対におかしい!
(……はぁー。やめやめ、バカみたい)
すっぱりと思考を打ち切って頬を叩く。今朝起きた時に、兄の事を心配だなと思ったのだ。しかし何故心配になったのか理由が自分でも直ぐには分からず、少し悩んでそう言えば兄の様子がおかしいと思い当たった。おかしい理由を真剣に考えてみた結果がこれだ。
友人に『お兄ちゃんが最近少しおかしいんだけど……』みたいな相談をしなくて良かった。とても恥ずかしい事になる所だった。
たった二日、早寝早起きしただけの兄を心配する妹って何だと自分にツッコミを入れる。
大方少し疲れが溜まっているだけだろう。もしかすると早寝早起きを心掛けようとしているのかもしれない。
(とにもかくにも良い事じゃん。心配する事じゃないよね)
夜一緒にテレビを見れないのはちょっぴり寂しいが、それなら別の日に一緒に見る時間を作れば良いだけ。
二人分の弁当を盛りつけた後エプロンを外して階段を上る。
兄の部屋は二階の一番奥にある。扉をいつも通り開け放とうとして、すんでの所で手を止めた。
今まではノックした所でこの時間に兄が返事をする事などなかったからしてこなかったが、もしかすると今日も起きているかもしれない。
(ノックした方が良いかな)
二日前の兄の言葉を思い出し、茜は控えめに扉をノックした。
返事は直ぐに扉の向こう側から帰ってきた。やはり今朝も起きていたようだ。
「入るよー。お兄ちゃん、おはよ、やっぱり起きてたんだ。じゃあ朝ごはん、並べるの手伝ってよ」
「……、茜……」
獏はベッドの上で頭を抱えていた。こっちを見ずに返した声はどこか苦しそうで、腕の隙間から除く顔色も悪い。
「お兄ちゃん大丈夫?」
慌てて駆け寄ろうとした茜を制止するように獏は手を突き出した。
「あ゛ー……、悪い。風邪引いたみたいだ」
「風邪? お兄ちゃんが? 珍し」
「まあな。学校は休むよ、連絡は俺が入れるから茜は気にせず学校行ってこい」
「大丈夫なの? 何なら私が看病したげよっか」
「そこまできつくないから平気だって。それにお前に移るといけないだろ」
「うーん……、分かった。ゆっくり安静にね。行けたら病院に行く事。お昼はお弁当作ってあるから、食べれたら食べて。あっ、お粥作る?」
「大丈夫だよ。ありがとな」
「はーい。お大事に~」
話が終わるや、ベッドに横になって布団をかぶる獏を見る。
やっぱり兄が少しおかしい気がする。風邪を引いたのなんて何時ぶりだろうか。
(いやむしろ、早寝早起き何て言う慣れないリズムで生活した結果だったりして……ないか)
取り敢えず今日の夕ご飯は食べやすい、身体に良いものを作ってあげよう。
部屋から出ながら茜は今晩のメニューの献立を組み立て始めた。
◆ ◆ ◆
布団の中は暗く、とても静かだった。何もする気が起きない。
たっぷり寝た筈なのにこれっぽっちも疲れは取れていないようだ。
連日の悪夢は間違いなく獏の精神を蝕んでいた。
「……」
眠気は無いが、ベッドから起き上がる気力もなく気の抜けた表情で横になる。
布団の裏を眺め続けてどれほど立ったか。中に居るのが息苦しくなり、のっそりとした動きで顔を出す。
まだ何かをする気にはなっていなかったが、十二時を指す時計が視界の隅に映った。
「もうこんな時間か……」
小さく口の中で呟く。こんな時間までベッドの中に居たのは初めてだ。少し驚いた表情で天井を眺める。
何かをしている訳でもないのにやけに身体が重い。朝だというのに気持ちは暗く沈んでいる。
このまま何もせず、ずっとベッドで寝転んでいたいという誘惑にかられそうになる。
だが学校まで休んでそれを実行する訳にも行かないだろう。
「取り敢えず、病院探そう。精神科」
まさか自分が精神科に掛かる事になるとは思いも寄らなかった。人生何が起こるか予想もつかないものだ。
よっこいせと爺臭い掛け声で立ち上がり、窓の傍に置かれた机へ向かう。
「スマホスマホ……」
獏が場所を覚えている病院何て歯医者ぐらいだ。兄妹揃って病気にも全くかからないから診療所の一つすら覚えていない。当然精神科の場所なんて知っている筈も無い。
そんな彼の心強い味方であるスマートフォンを、何時もであれば手元に置いておくのだが先日の晩はそうせずに寝てしまったらしく、枕元には見つからなかった。
どこに置いたのかも覚えていない。多分そこら辺に適当に置いてしまったのだろう。
昨日はドラマを限界まで見ていた事を考えるに一番可能性が高いのは一階だが、距離を考えて真っ先に探すのは二番手の机。
お目当ての物を探して机の上に視線を走らせる。
残念ながら机の上に探し物は置いていなかった。
だが整理された机上に、何も置いていない訳では無かった。
広い机上にぽつんと置かれた『それ』に獏の視線が吸い寄せられる。
とても見覚えのある物。確かに獏が見た物と全く同じ形。だが実際に目にしたのはこれが初めて。
置いてあったのは、燃え尽きた灰と同じ色をした古臭い手帳。
現実にある筈がない物。あってはいけない物。
断じて自分の物ではない、茜だって間違っても買わない。
震える指先で表紙を捲る。中には二つの文が綴られている。
記憶の中にあるものと同じ。金色で書かれた豪華な文と、黒色で書かれた雑な文。
読まなくたって内容は覚えていた。
それでも獏の視線は文字を一つ一つ丁寧に追っていく。
「なんで……」
掠れた声で呟く。
今見ているのがただの『夢』である可能性に賭けて頬を抓っても、何一つ変化は起きない。痛みだけが明瞭に感じられる。ここは間違いなく現実だ。
だったら何故こんなものが存在するのか。
夢の中で見た手帳と全く同じものが、何故現実の自分の机の上に置いてある?
「――――」
考えたって答えは出ない。
混乱に震える獏の両目に、黒いインクで書かれた言葉が入り込む。
『――これはただの夢じゃない』
頭を疑う馬鹿みたいな警告文が、呪いの様に獏の脳裏で木霊した。