悪夢に囚われた少年のお話
これは夢だ。変な夢だ。
寝ぼけたぼんやりした思考で、しかし確信をもって辺りを見渡す。
今の季節は春、随分と暖かくなりポカポカした日差しが気持ちよくなってきた四月の終り。
だと言うのに。
『天道 獏』は今、猛吹雪の中一人ぽつんと立って居た。
確かに暖かなベッドの中に身体を横たえた記憶がある。外に出て立って居る事自体おかしく、重ねて言えば真冬でさえ雪何て滅多にお目にかかれない地方に住んでいるのに、この時期にこの吹雪はありえない。
地球寒冷化は何時の間にかこのレベルまで進んだのか。最近まで温暖化と言っていたのに。おかしな話だ。ありえないだろう。
それになにより、これが現実ではないという証拠を彼は右手に握りしめている。
「……剣だな、これ」
長さは大体七〇センチ前後だろうか。先端に行くにつれ細くなり、鋭利な切っ先をした鋼のショートソード。ゲームで良く見る初期装備の一つ。
見下ろせば格好もおかしな物になっている事が分かる。両手はピッタリと吸い付く謎の素材で出来た黒い手袋を、足元は底の厚いブーツ。
この猛吹雪の中でも肌に雪が降れる感覚がない。全身はこの白銀の世界でとても映えるであろう漆黒のロングコートを身に纏って、一切の隙間が無いようだ。
頬にすら雪が降れない事を不思議に思い撫でてみると、つるりとした無機質な感覚が返ってきた。視界を妨げる事もなく、触るまで気付かなかったがどうやらヘルメットのようなものを被っているらしい。
改めて自身の姿を見つめ、小さく感想が零れた。
「かっこいい……、人には見せられないけど」
中々の格好だと個人的な感想を抱くが、とはいえコスプレの域は出ない。知人に見られたら羞恥に悶える事請け合いだ。
「しかし、これは何というか……」
真夜中に猛吹雪の中、見た事もないコスプレをして突っ立っているというのが夢の内容。
欠片も理解出来るものではない。
だから彼は回らない頭でこう呟く。
「変な夢……」
そうとしか考えられなかった。
やけにリアリティがあるような気もするが、子供の頃に見たトイレに駆け込む夢もこれと同じくらいリアルだった気もする。あまり思い出したくない苦い失敗の記憶。
「これだけ吹雪いてんのに全く寒くないしな」
やはり夢なのだろう。身に纏うロングコート一枚程度ではとても寒さを凌げそうもないと言うのに、この猛吹雪の真っただ中で寒さを感じない。
取り敢えず立ったまま周囲を見渡してみたが、ただでさえ暗いのに吹雪で遮られ殆ど視界はゼロに近い。
突然トイレが現れるなんて突飛な現象が起こる気配もない。
ただ吹雪いている。おかしな夢だと思う。早く醒めればいいのに何て、ため息の一つでも吐きたい心境だった。
「……」
仕方なく彼は歩き出した。目印らしいものはなく、ただ向いていた方向へ歩を進める。
この視界の中で、真っすぐ進めているのだろうかと首を傾げながらも足は止めない。
考える事と言えばさっさとこの夢終われと、ただそれだけだった。
――――そして。
結果だけを見れば、彼の行動は正しかったのかもしれない。
夢は醒める。
事態は急展開を迎えた。
彼の予想だにしない展開を。想像すらしなかった結末を。
「――――ひっ」
か細い悲鳴を上げて、『天道 獏』は死んだ。
◆ ◆ ◆
「うわぁ!」
情けない絶叫を上げてベッドの上に飛び起きる。びっしょりと顔中に冷汗をかいて、荒く息を吐く。寝起きだというのにやけに目は冴えていた。
それでも視界に飛び込んできた現実を受け入れるのに、少しだけ時間がかかった。
見慣れた天井、見飽きた内装、窓から差し込む朝日が眩しい。
間違いない。
「俺の部屋だ……」
段々と落ち着いていく鼓動を聞きながら、口から零れたのは安堵の息。
僅かに震える右腕が、無意識に胴のあたりを摩っていた。
「夢、夢か……、そりゃそうだ。嫌な夢だ」
あんな事が現実で起こる筈がない。そうなると悪夢一つでここまで震えている現状がやけに恥ずかしくなってくるというもの。
誰ともなしに「別に全然ビビッてないぜ」と虚勢を張って、ベッドから起き上がろうとした所で、
「お兄ちゃん! 起きろーっ!」
「うおぉっ!」
勢いよく飛び込んできた元気な声に、獏はベッドから無様に転げ落ちた。
落ち着き始めた鼓動が再び早鐘を刻み始める。今までの全てが台無しだ。抑えた胸の下で跳ねまわる鼓動に顔を引きつらせながら、入ってきた少女へと強く視線を向けた。
だが『天道 茜』は悪びれる様子もなく、ベッドから転げ落ちている獏を見てきょとんと目を丸くさせた。
「あれ、起きてる。珍し」
「おはよ……、ノックぐらいしろ」
「何時もは寝てるじゃん。起きてるんなら手伝って! 朝ごはんー!」
勢いよく閉じた扉の音と、どたどたどたー! と階段を駆け下りる元気な足音に、獏は大きくため息を吐いてベッドに頭を投げた。
「……挨拶ぐらい返せ、馬鹿」
◆ ◆ ◆
「でっ、どんな夢だったんだ?」
「……」
興味津々と目を輝かせて、机にを乗り出した学友『久保 宗太』に獏は口を真横に引き結ぶ。
どうしても今朝見た悪夢を忘れられず、机に突っ伏していたのが間違いだった。
本当に珍しく元気のない獏を不思議がった二人の友人に、根掘り葉掘り突っ込まれてついポロっと零してしまったのだ。
嫌な夢を見たと。
「おれも気になるな。獏がここまで落ち込んでんの珍しいし」
スマホに落としていた視線を上げて、椅子の背もたれに寄りかかるようにしてもう片方の学友『宮本 翔』も乗ってくる。お調子者の宗太とは違い、落ち着きのある翔ですらこの珍しい獏の様子に揶揄うような笑みを浮かべた。
「だよな。朝一で生理的に無理って笑いながらフられた時ですら、昼前には元気になってたのにさ」
「やめろっ、思い出させるな! そもそもあれはお前が脈ありだッていうから!」
「あるような気がしたんだ、五%くらい」
「そんな情報を大真面目に友達に売ってんじゃねえ」
「ちなみにあの時の動画はまだある。見るか?」
「見ねーよ!」
吼える獏と見ないと言うのにわざわざ動画を再生しだす宗太。
そんな二人を眺めていた翔が頬杖をついて言う。
「それで、どんな夢だったんだよ?」
すっかり脱線した話を戻そうと問いかける翔に、少しだけ迷った末に堪忍したのか獏は肩をすくめて答えた。
「よくある……かは知らねえけど、殺される夢だよ」
「うわっ、何それ」
「へぇ、なるほど」
無意識に右手がお腹のあたりを摩る。
今朝を思い出し気分は最悪だ。誰だってこうなるだろう、自分が死ぬ、それも殺される夢を見たのだから。
やけにリアリティのある変な夢だった。
何もない深夜の吹雪の中を淡々と歩く夢。そして進んだ先で出会ったのだ。
「何に殺される夢? ナイフ持った宗太とか?」
「なんでオレっ⁉」
「でっけー猛獣かな。狼みたいな」
見上げる程の体躯を誇る巨大な獣と。
長い毛の奥から除く血走った眼球を見て寒気を覚えたのを思い出す。
あっという間だった。
どうやって死んだのか、詳細な所は覚えていないし思い出そうとも思わない。
ただ喉が張り裂けそうな程の激痛を確かに感じた。命の火が掻き消える、底冷えする恐怖を。ただの夢だというのに。
「最悪の朝だった……」
「そりゃそうだろ。てか大丈夫か、話して。話すと正夢になるんじゃなかったっけ。ばーちゃんが言ってた」
「え゛?」
「違う、逆だろ。悪夢は人に話す方が良いんだよ。話すと放すをかけてるとかで」
「そうだっけ?」
あーだこーだとそれぞれの夢理論を持ち出す二人に、獏は机に突っ伏して大きなため息を吐いた。
「勘弁してくれ。こっちはもう二度と見たくねえのに」
二人は少しだけ顔を見合わせ、ぽんと獏の肩を叩く。
「なんかさ、悩んでる事あれば言えよ?」
「最近友人がうざくて困ってます」
「早急に関係解消するが吉」
「その友人ってオレじゃないよね?」
「神のみぞ知る」
「おい!」
友人たちと馬鹿な話をして、気持ちは驚くほどに軽くなった。
結局はただの夢で、もう終わった事だ。何時までも引き摺るのはらしくない。
フラれた時とはまた違うが、結局昼前には持ち前の元気を取り戻し、ゲラゲラと笑いながら下校する時にはもう悪夢の事なんてすっかり忘れていた。
◆ ◆ ◆
そして夜。
「お兄ちゃん、早く寝なよ」
「まだ早い」
「私も見たいドラマがあるんだけど」
「これ見たらな」
「もう二時間待ってる!」
「じゃんけん負けたのお前だろ! 黙って待て」
「もーっ!」
一週間撮りためたアニメを月曜日の夜に纏めて視聴するのが獏の習慣だ。同じように妹の茜もドラマを取りためているが、残念ながら天道家にはテレビは一つしかない。たった一つしかないテレビを巡って、じゃんけんという公平な勝負の結果見事チャンネルを勝ち取った獏は満足そうにアニメを視聴する。
「お前は本当にじゃんけんが弱いからな」
「くぅ……」
何故か必ず『ぐー・ちょき・ぱー』の順番で出すという茜の癖を知っているお陰で、兄妹じゃんけん勝負において獏は負けなしだ。そろそろ気づけよと思わなくもないが、今の所その兆候は無い。
ちなみにあまりに負け続ける茜に、別の日に見てはどうかと進めてみたが「月曜日に見ないと一週間が始まった気がしない」らしい。
全く同じ理由で月曜日のテレビ主導権を譲る気がない獏は、一言「分かる」と力強く共感を示して話は終わった。
(まあなんだかんだ言いながら一緒にアニメ見続けてるし、茜も楽しんでだろうなあ)
そういう獏も、何時もはこの後一緒に茜が撮りためたドラマを見ていたのだが。
「ふぁ……」
大きな欠伸が零れる。瞼がやけに重い。まだ0時前で、普段であればここまで眠気に襲われる事は無いのだが、今日の睡魔は特別強力だ。何とかアニメは見終えたが、この後も睡魔に抗い続けるのは難そうだった。
「ねみぃ……。今日は俺寝るわ」
「はやっ」
「早く寝ろって言ってたろ」
「そうだけどさ」
暖かいココアを飲みながら、茜は半分瞼の落ちた獏の顔を珍しいものでも見る様に繁々と眺めた。本当に眠そうだ。何か今日は疲れるような事があったのかもしれない。
引き留める理由もなく、「おやすみ」と言葉をかける。完全に落ちそうになる瞼を擦りながら、獏が「お前も早く寝ろよ」と返す。それに対する返事は余計なお世話と言わんばかりに適当な物だった。既に彼女の意識は始まるドラマに夢中だ。
まあ彼女が寝坊する事は無いだろう。何時だって夜更かしして、寝坊するのは獏の方なのだ。
「ふぁぁ……、ねむ」
欠伸が止まらない。擦ってもすぐさま瞼が落ちてきて視界がはっきりしない。本格的に限界のようだ。
テレビに噛り付いている茜に何とか「おやすみ」と返して、獏はふらつく足取りで階段を上り、部屋に着くなりベッドに身体を投げた。
ぼふんと身体を受け止める柔らかな感覚に瞬く間に瞼は落ちて、意識に霞が掛かってゆく。手足には力がまるで入らず、凶悪なまでの眠気に獏は早々に白旗を上げた。
元々抵抗する気などないのだ。これ程までに強力な眠気。きっとかつてない程ぐっすりと、気持ちよく眠れるはず。
(いい夢、見れると……いいなぁ……)
僅かな期待を胸に、頭の中でスイッチが切られた。全ての意識から灯りが消え、暗い微睡の中へと沈んでいく。
深い深い夢の世界へと。
昏々と――――。
――――。
――。
――――そして彼は夢を見る。
「……なんでだよ」
無意識に零れた言葉。
目の前には果てしなく広がる白銀の世界。
全身を黒く染め、右手に銀のショートソードを握った姿で、彼は一人立って居た。
そこは夢の世界。昨晩見た悪夢と変わらぬ場所。
『――ォォォォ……』
吹雪の音か、はたまた幻聴か。どこか遠くから獣の咆哮に似た声が聞こえた気がした。