第五章 ヒロインなんて要らない
水泳大会は七月十二日に開催される予定である。本日は六月十二日。つまりは丁度一か月後だ。それが終われば夏休み。自然に季節は夏へと巡る。昼は蝉が暑苦しく鳴き、夜は涼しげに虫が声を奏でる。どちらかといえば好きな季節だ。
今は雨の弾ける音が包む。まだ昼間なのに暗い。
本当にそんな季節が来るのだろうかと思ってしまう。梅雨時期と言うのは一体、四季のどの部分にかかっているのだろう。梅雨は五月雨ともいう。つまりは五月の雨ということだから感覚的には春だろうか。
しかしこの《五月》というのは旧暦である。うろ覚えだが、旧暦五月といえば夏至を含む月だった。
春ではない。ではやはり夏ということになる。そうか、夏はもう来ていたのかと、しみじみする。老人が湯呑を片手に、縁側でふと感慨に耽っている画を自分に重ねた。
おや、と思う。思い出した。旧暦では夏は四月五月六月。なるほど、夏はもう行ってしまうのか。光陰矢のごとし。冷めたほうじ茶を一口すすり、置いてきぼりを食った老人である。
縁側ではなく、踊り場に座り直す。最近はここにばかり来ている気がする。そろそろ行きつけと言われても否定できない。しかし、人の寄り付かない静かな場所をここ以外知らないだけなのである。
向かいの窓には少女の涙のように、ササッと水滴が絶え間なくついていく。
――さて、メールは送っておいた。こちらは待つだけで問題ない。
来なかったときは、あるいは、――と考えた時であった。
「この場所がお気に入りだねえ」
両手をポケットに突っ込みながら、階下から真がこちらを見上げている。気付かれないように息をひとつ吐いた。
「来たか」
「来いって言ったのは君だろう」
ひょいひょいと上ってきた。身軽である。
「まったく、貴重なお昼の時間なのに。何の用だい」
隣に座ると足を小刻みに震わせる。手は突っ込んだままだ。寒いのだろうか。
「悪いな。ちょっと思いついたことがあってな」
「お! なにか面白いことが分かったのかい」
背筋が伸びた。嬉しそうな顔をこちらに近づける。
「そんなところだ」
「それならいいんだ。いつでもお呼び立てしてくれ。早朝だろうが夜だろうが、昼放課だろうがね、この埃まみれの薄暗い踊り場に喜んで参上するよ」
楽しそうである。では冗長なものにしてはいけない。
「少し、傘の話をしていいか」
「傘?」
真は狐につままれたような顔をした。表情が豊かである。
「そう傘だ」
「そうかい。傘ね。はい、ではどうぞ」
大袈裟に片手を差し出す格好をする。
「いつだったか、図書館で小沢さんとバッタリ会った時があっただろう。お前の本の返却に俺がついて行った時だ」
小さく頷く。
「もちろん覚えているよ。五月三十一日のことだね」
「日にちまで覚えているのか。なら話は早い。あの日、小沢さんの《忘れた傘》の所在を推理したな」
「そんな大層なものじゃなかったけどね」
同感である。
「どう結論付けたか、覚えているか?」
真は一瞬キョトンとした表情を浮かべたが、ほとんど間髪入れずに答える。
「確か、《外は雨が降っていたから校舎にあるはずはない。ということは、誤って図書館の傘立てに置いてしまった。持ち込むつもりだったから忘れたと形容した》みたいな感じだったと思うけど」
それがどうした、と興味のなさそうな顔だ。ならば、もう一度興味を覚えさせてやろう。
「それは間違いだった」
ズバリ言ってやる。
「間違い?」
「そう間違い。見当違い」
真は顎に手を当てた。
「ふうん」
考える時間を設けているためか、間延びした相槌を打つ。
「これは俺の情報の不完全さが招いたものだ。考えが浅かったよ。すまんな」
「謝られてもねえ」
肩をすくめる。早く説明しろということだろう。
「あのとき、彼女は確かに傘を忘れてきた、と言っていた」
「はあ」
「でも正しくは、《置き忘れた》と言っていたんだ」
真は顎から手を放し、目を瞬かせる。眉間に皺を寄せた。
「なんの違いがある?」
「自分に置き換えてみろ。お前がこの間、返却日に本を机に置き忘れてきたとき、あれはどういう状況だ」
「どういう状況って」
しばし間が空き、
「机に入れたままにして、持ってき忘れた……」
ピンと来たのだろう。思わずハッとした表情を浮かべ、言葉を継ぐのを止めた。真剣な顔で俺を見詰める。こちらが後を引き継ぐ。
「置き忘れる。この言葉は通常、《意図的に置いたもの》に対して《持ってくることを忘れた》ときに使う。そもそも置くこと自体が間違いだった場合に、使うことはない。置いて、忘れた、わけではないからだ」
一度言葉を区切る。自らの頭を整理するためでもある。
「あの日、小沢さんが誤って傘を置いてしまったのなら、置き忘れたとは言わないだろう。ただ言える場合がある。傘を使用するときだ。いざ使う時になって、《置き忘れた》これは自然だ。しかし、あれは図書館内での場面だった。それはありえない」
再び顎に手をやった真は、言葉を反芻しているようだった。あまり納得していないような表情を向ける。
「じゃあ、傘は校舎にあったと言いたいのかい」
「ああ」
「雨に濡れていなかった彼女をどう説明する」
「傘を差して来たんだ。当然濡れやしないだろうな」
あからさまな呆れ顔である。
「傘は校舎にあるんだろう? あの子は魔法使いか何かなのかい。それとも傘に足でも生えているのかな。こんなバカな話はないよ。やっぱり必然的に図書館の傘立てに置いてあったのは間違いない」
真の言葉には強さがあった。それはこいつの考えに確信があるからである。ではこちらはカウンターである。
「違うな。傘は校舎にある」
断言である。
「話にならないね」
笑いを浮かべ、侮蔑を滲ませた声で言う。
「《傘は校舎にある》。《傘は差して来た》。《図書館の傘立てにはない》。あとひとつ付け加えてもいい《手に持っていたわけでもない》。無茶苦茶も甚だしい。論理が破綻しているなんてレベルじゃないよ」
少し間を空けて、こちらが言う。
「ひとつ補足しておく。単純にひとまとめにしてはいけない。お前の考え方は間違ってはいないが、今回ばかりはそれだけでは答えは出ない。なぜならこの話の主人公はお前じゃないからだ。思い込みからの確信は危険だぞ」
ムッとした真は割と珍しい。
人の心は無限だ。根付く行動にも限度などない。真の確信は慢心であるとも言える。足元をすくわれるのもまた心からなのだ。
流れるように言葉は出た。信じるべきは自分の考えなどではないと知っているからである。
「お前の言う通り。彼女は濡れていなかったのだから、当然傘を差して図書館に来た。そして意図的に傘を傘立てに置いた。この意味が分かるな。これでこの傘は《置き忘れた傘》にはなり得ないんだ」
「この傘は?」
頷く。もの分かりが良い奴は嫌いじゃない。話にテンポが出て説明が省ける。一発で核心に迫れるのだ。
「差して来た傘。置き忘れた傘。あの日――」
カウンターはコンパクトに、的確に、相手を打ち抜く。
「彼女は傘を二本持っていた」
真はしばらく黙っていた。
こちらとしても、相手の出方を窺い、喋らずにいた。
窓を叩く雨が激しさを増して、外の風景がぼやけて見えない。お昼時である。中庭で昼食をとっている生徒の姿を見たことはあるが、さすがに今日はないだろう。遠くから昼休みの喧騒が聞こえてくる。違う世界の音のようである。
「傘が二本、ねえ」
やっと出た台詞は自分に言い聞かせるようだった。
「要は《置き忘れた傘》というのは二本あるうちの一つ。校舎の傘立てにある傘だった、というのが君の結論なんだね」
「そうだ」
真は前屈みになっていた身体をよいしょと起こし、体の後ろで両手を地に着けた。視線は天井を見詰めて感情のない声で言う。
「確かにその考えはなかったよ。推論としては面白い。だから僕も一歩踏み込ませてもらおうかと思う」
頷いたのが見えたのだろう。続ける。
「《置き忘れた》の解釈に異論はないよ。君の言った通り、図書館の傘立てに誤って置いた場合、意図的に置いた場合、どちらも《置き忘れた》の言葉は選ばない。意図的に置いた場合は、端から室内に持ち込むつもりがないからね。つまり、図書館に持って来た時点で、《置き忘れた》は使えない。傘が二本あったとしたら、別々の場所に存在しなくてはいけない。そうだろう」
「ああ」
「ならば何でもいい。例えば靴ひもを結ぶため、もしくは一旦トイレに行くために、そういう意味で意図的に傘立てに一度置いた。そしてそのまま持ち込むのを忘れてしまった。これなら《置き忘れる》を使っても不自然じゃない。傘も一本で十分だ」
確かにその通りなのである。順序が意地の悪いものなってしまったが、前提が誤っているのだ。
「小沢さんが図書館内に傘を持ち込むわけがないんだ。厳密に言えば、少なくともあの日だけは持ち込むことができない理由があった」
「理由?」
目だけをこちらに向ける。
「ハンドタオルだ。ハンドタオルを忘れたから濡れた手を拭けない。図書館のトイレに手を拭くペーパーや、乾かす類の機械はなかったよな」
訝しげに答える。
「たぶんね」
「彼女とカフェに行った話はしたな。その日もどうやらタオルを持ち合わせていなかったようだった。とても激しい雨の日で小沢さんの手は濡れてしまっていたんだ。その際、濡れた手で紙のメニュー表を触ることに強い抵抗を示していた」
真は強い視線で先を促す。
「……ビニールに入れるには、傘を一本の棒にする必要がある。どうしたって手が濡れる。カフェのメニューに触れない人間が、借りている本を水滴で濡らすとは到底思えない」
真は弾けるように笑った。
「いいねえ、山田島。調子が良さそうだ。その仮定をすべて受け入れたとしよう。けれど、たかだか彼女の置き傘が校舎にあったという話じゃないか。残念ながらオチとしては拍子抜けだね」
そうだとも。これじゃ何のためにわざわざ昼休みに時間を取ったのか分かりゃしない。
言葉には全て意味があるのだ。そして意味は繋がっていく。あらゆる言葉に引き寄せられるように最後はひとつになる。
今度は俺が笑う。
「安心しろ。本題はここからだ」
「なんだって」
指を一本立てて、
「まず、校舎にあった傘は置き傘じゃない」
真はほうっと息を吐く。
「じゃあなんだ。登校段階で二本持っていたということかい。傘の二刀流とはお初だね」
馬鹿にするような口調である。
「そうだな。そんなことをする意味はない。もちろん一本は使用するために持ってきたものではない」
ここにきて真は初めて首を傾げた。
「結論を言おう。校舎にあったもう一本の傘。《置き忘れた傘》。それは彼女のものじゃない。持ち主に返すために持ってきたものだったんだ」
傾げた首が元に戻る。なぜ君にそんなことが分かるのか、と目が言っている。
「ここからは俺と小沢さんしか知らない話だ。悪いが少し聞いていてくれ」
真は何も言わない。
「図書館の日から一日遡ろう。五月三十日。ゴミゼロのときだ。俺と小沢さんは二人で末永町を周っていた。そして途端の大雨だ。近くの民家に助けを求めて、人の良さそうなお婆さんにそれぞれ傘を借りた」
大分端折った説明だが、今はこれでいい。
俺が言葉を継がないと判断すると、真はのんきそうな声で言う。
「へえ。そのお婆さんから借りた傘が、所謂《置き忘れた傘》。そしてあの日、そいつを返しに行った。まあ確かに可能性はあるよ。でも断定するにはあまりにも都合が良すぎる」
そのとき思わず掌を見た。暑くもないのにじっとりと汗をかいている。いやはや、身体は正直である。
さて、多角的にものごとを説明するとき相手が理解してくれるか心配なのだが、こいつは大丈夫だろうと高を括ってみる。
「脅迫事件」
「は」
「目安箱に脅迫文擬きが入れられていたな。そして先週の木曜日だ」
木曜日とは、あの小沢さんが動き絶叫する兵馬俑になった日である。
少し考えて真も言った。
「小沢さんが全校集会で叫んだ日だね」
「そうだ。でも俺が気になったのはその後のことなんだよ」
「その後、なにかあったっけ」
「地域の方から脅迫事件についての手紙が届いたと、ホームルームで話があったろう」
ぽんぽんと話が飛ぶが、真は腰を折ったりはしない。良い聞き手と言える。
「確かにあったねえ。でもあれは住民の心配の声で、それ以上でも以下でもないと思うけれど」
「全体の内容はそうだ。気になったのは、たったひとつの言葉だ。あのときは当たり前に聞き流していた。当たり前の言葉を当たり前に思ってな」
「ほう」
「あの文章では明らかにゴミ拾い活動だということを認識した上で《ゴミゼロ》という言葉を使っていた。普通の人はゴミゼロなんて言葉も意味も知らない。校区外の人なら尚更だ」
「ふん。それで」
「そしてもう一つ。傘を借りたお婆さんだが、話の流れで説明したんだ。今日はゴミゼロという、ゴミ拾い活動でここに来たって」
反応がない。こちらから水を向けてみた。
「察しの良いお前なら、何が言いたいか分かるよな」
やれやれといった感じで頭を掻き、つまらなそうに言う。
「五月三十一日、小沢さんは傘を返しに行った。そしてそのときに、例の脅迫文擬きのメモを落とした。それを見つけた人の良いお婆さんは矢も盾もたまらずに手紙を送った。そういうことかい」
投げ捨てるように言い終わると、再び天井を見詰めた。その上に降り注いでいる雨を感じているようだった。そして小さな声で続ける。
「……都合の良い憶測が過ぎるよ。お婆さんがよこしたものだと決めつけるには弱い。ゴミゼロという言葉も知っている人は知っているだろう。もしかしたら噂を聞きつけたこの学校の卒業生かもしれない。差出人は誰か言ってなかったんだ。ならば二つ目の傘はお婆さんのものだという断定もできない」
「その通り。飽くまで推論だ」
そうだ。これでは自分の都合のいいように状況を整理しただけ。
ではこちらも一歩踏み込もう。
「でもなぜだ。なんでこの推論に根本的な矛盾が含まれていることを指摘しなかった」
真の揺れる足が止まった。同時に時までも止まったように感じた。言葉を重ねる。
「彼女は脅迫文を……敢えてそう言おう、校舎内で落とさなくてはならない。少なくともこの学校の生徒に拾われなくてはいけないんだ。目安箱に入れられていたんだからな」
足は止まったままである。上に向けていた顔を正面に戻し、真は淡々と言う。
「確かにそうだね。そうでないと辻褄が合わないもの。逆に分かっていて、君こそなぜそんな推論を立てたんだい」
「分かっているからこそ立てられたんだ。彼女がどこでメモを落としても問題ないことを」
真の方に顔を向ける。真はこちらを見ない。唇が微かに動いた。
「ちゃんと説明してくれ」
大きく頷いた。
「ああ、先入観を持たれる前にちゃんと説明しよう。また話が少し変わる。そしてここからは最早推論じゃない」
《確信》、なのだ。
「傘の件はただの前座で、推理ショーだったってわけか」
「そうでもない。正しさを追っていく、その過程で重要なヒントになったさ。結果的に確信によって裏付けされた推論とでも言っておく。実際、小沢さんが傘を二本持っている可能性を思いつかなければ、もっと言えば《置き忘れた》という言葉の真意に踏み込まなければ、その先は考えもしなかったことだ」
思い込みとは恐ろしい。心からそう思った。
「なんでもいいけどね」
本当になんでもよさそうである。
俺も前を向いた。独り言のように呟いた。
「まず、お前のクラスでも読まれた脅迫文の内容を思い出してほしい。ゴミゼロについてはどう書いてあった」
「どうって、不満が書いてあったねえ」
「具体的には思い出せないか。記憶力はいい方だろう」
「……思い出すよ。ちょっと待ってくれ」
待つ間、真の表情は少しも変わらなかった。雨宿りをしながら、雑多な考えを巡らしているように、傍から見れば抜け殻であった。
魂が舞い戻り、確か……と、唇が動いた。
「今日のゴミゼロだって雨でびしょ濡れになってまでやることだったのか、とかなんとか言っていた気がするよ」
さすがである。記憶力の話だ。
「そうだな。そう言っていた。しかし、これはおかしい」
「おかしいのかい。主観的な意見におかしいもへったくれもないと思うけどね」
見るともなく硝子窓に目をやった。
激しい雨である。毎日飽きもせずによく降る。雨は、濡れるから嫌いである。
「いいか、これは小沢さんが書いた文章だ」
「そうだとも」
「ならば事実と違うことを書くはずがない」
真の眼が大きく見開いた。
「ゴミゼロの日、雨に濡れたのは俺の方だ。彼女は湖に飛び込んだから濡れたんだ。雨のせいじゃない。自分のせいなんだよ」
「ミズウミ? 何を、言ってるんだい……?」
そろそろ話を締めていい頃合いだろう。
「真。先入観を持つな。人間の行動は論理と心のもとで突飛に築かれることがある。決して推論だけでは量れない」
そうだ。推し量ってはいけない。
だからこそ、最後の最後は雨の中、三マイルほど歩いてきた。
だからこそ、俺はここに来た。そして、はっきりと断言できる。
「メモも二つ存在している。一つはお婆さんの家に。一つは目安箱に」
唇を噛みしめた。今にも鉄の味がしそうであった。
「目安箱に入れられたあの文章は、小沢さんによって書かれたものじゃない。第三者に。小沢さんがあのメモを書いたことを知っている人間によって、複製された偽物だ」
真は微笑を浮かべていた。
しかしそれは初めて見る、恐らく本物の、――なのだろう。
「脅迫文を再現して投書した犯人。それはお前だな。真」
閉じていた真の口が開いた。
「雨は嫌いかい」
雨音に妙に馴染むような穏やかな口調である。素直に答える。
「好きでは、ないな」
「そうか。僕は好きなんだよね。灰色とやらに染まる空も街も、いつも見えない風景が見えるようになった気がするんだ。……上手くは言えないんだけどね」
こいつにも上手く言えないことがあるのか。
「君はすごい。羨ましいよ。上手く推理をまとめたもんだ」
身を硬くした。心はおそるおそると、しかし口調ははっきりと、
「認めるのか」
言ったものの、思った以上に怖い台詞である。
ややあって、
「ふふ。いつ確信を得たんだい」
真は悪戯がバレた子どもの様に笑った。その瞬間世界が変わった気がした。やはり俺はどこかでまだ信じ切れていなかったに違いない。
硬くなった体は一瞬動かなかった。だが停止している場合ではない。
一度目を閉じて、唇を濡らす。
「さっきだよ。お前がここに来たときだ」
「おっと。また僕はミスをやらかしていたのか」
「ミスじゃない。お前にとっては自然なことなんだろう。真、今は何の時間だ」
「何の時間って、昼放課だろ?」
「そうだな。間違っていない。また話が飛ぶが、お前は愛知県出身じゃないのか」
「おっ。やるね、正解だ。なんで分かった」
緊張感のないやりとりが、どうも違和感である。
「授業の間の時間を普通は《休み時間》と呼ぶんだ。少なくとも関東ではな。つまり、今の時間は《昼休み》。《放課》は、放課後とか終業後の時間を指す。というか《放課》という言葉を使うことはほとんどないんだ。だが愛知県だけは休み時間を、放課と呼ぶようだな」
のんきな声で真は答える。
「へえ。それは知らなかった。だから君はあの文面で僕を試したってわけか。策士だねえ」
「すまんな」
「謝ることはないよ」
文面とは真に送ったメールの内容である。『今日の放課にまたあの踊り場に来てくれ。長い話になる。そのつもりでな』。
真が放課という言葉を休み時間とイコールで繋げるのなら、昼休みに来る可能性が高いと予想をしていた。そうでなければ、放課後に来るだろう。
もしかしたら、ここまでする必要はなかったのかもしれない。だが、やはり、……せずにはいられなかったのだろう。覗いてみれば心も正直であった。
「ヒントはまたしても僕が書いた脅迫文だね」
「……ああ。最初は気付かなかった。小沢さんのクラスで読まれていたのを思い出してやっとな」
あの日聞いた文章では、昼休みを昼放課と言っていた。言い間違えとはまず考えられない。原文のまま読んだのだろう。
「まったく。あんなもの何度も読まなくてもいいのにね」
どこまでも他人事のようである。
「参考にしたのは携帯のレコーダーだな。そしてお前はあの会話を『見ていた』んだよな」
それだけでもかなりの記憶力である。しかし、さすがにあの会話一字一句全てを覚えられるはずもない。
真は軽く膝を打ち、
「ご名答。まいったよ。全部お見通しってわけだ。言う通り、僕は君たちの会話を『見ていた』からね。小沢さんが何をメモしていたかは大体覚えていたよ。面白いものは忘れない質だからね。でもね、まったく、」
肩をすくめる。
「音質の悪さが裏目に出たか。機械を信じすぎちゃだめだね」
飄々とした態度は相変わらずである。しかし、摑みどころがない、とは言えない気がする。この感覚は初めてである。
「まさかあんな会話を録音しているとは思わなかった」
「何言ってるんだよ。あれを録音せずに他に何の面白い話があるって言うんだい」
邪気なく笑う。笑っているところ申し訳ないが、核心に迫る。
「そのときは、まだ――」
「もちろん脅迫文に仕立て上げようなんて考えてなかったよ」
こちらの出方を予期していたのか。言葉を遮られ、笑い声を滲ませながら言われてしまった。
「思いついたのは、彼女がメモを落としたと聞いたときさ」
なるほど。ではひとつ疑問が残る。
「お前は小沢さんがメモをどこで落としたか見当がつかなかったはずだ。もし、メモは校内で落とされていて、生徒に拾われて内容が見られていたらどうするつもりだったんだ?」
「いや、見当はついていたよ」
こともなげに言う。そのままの調子で続けた。
「あのとき彼女は《夜に帰ってきたときにはメモはもうなかった》と言っていただろう。あの日そのまま帰宅していれば夜にはならない。きっとどこかに立ち寄ってきて、そのときに落としたのだろうと当たりはついていた」
「絶対……、ではないだろう」
「まあね。仮に校内で落としていたとしても問題はないと考えていたよ。騒ぎの前に見つかったのなら、内容を見られたとしてもただの悪戯だと思われて捨てられるだろう。その後、問題の文と同じだと気付いたとしても、犯人のメモの失敗作とでも思われてお終いさ。なんたって問題の脅迫文は目安箱に入れられている。この厳然たる事実があるんだからね」
「騒ぎの後で見つかっても同じというわけか」
「うん。誰かが面白がって書き写したくらいにしか思われない」
ここまできたのだ。訊かぬわけにはいかないだろう。
話の流れに乗るように、飽くまで自然に口にする。
「なぜ、こんなことをした」
ここで真が初めて口を噤んだ。前に向けていた顔も少しずつ下がっていく。指を組んで無意味に絡み合わせる。まるで知恵の輪を解くように、何度も何度も同じような形を作り、そして崩れていく。答えを探して戸惑う心がそこに見えた。
俺は、いつまでも待ち続ける覚悟ができていた。
時間にして、二、三分であろうか。もっと短かったかもしれない。
「さすがの山田島もそこまでは解からなかったか」
真の声だった。擦れて、形にしたらすぐに壊れてしまうだろう弱いものだった。顔は俯いたままである。
俺は頷く。
「人の感情が含まれた推論などしたくはない。教えてくれ」
「知りたいのかい」
「当然だ」
「聞いたところで面白いことなんてないんだけどね。でも教えない訳にはいかないんだろうな。教えたくはないけど」
寂しそうな目をしているように思えた。今生の別れであるかのような。
「退屈な日常に飽き飽きしていた、なんて馬鹿な理由ではないよ」
「だろうな」
ふうっと真は軽く息を吐く。
「結論から言うよ。彼女には特別でいてもらわないといけなかったんだ」
「どういうことだ」
思わぬ言葉に聞き返す。
「万が一彼女が理解されるなんてことがあるのなら、そんなのは御免だった。特別でなくなってしまうじゃないか。それは大いに困る」
どんな顔をしていいのかも分からない。訳が分からないのだ。
「なんで、……なんでお前が困るんだ」
「おや、察しが悪いじゃないか」
物分かりが悪い子供を諭すように、真は続ける。
「僕の隠れ蓑の役目を果たせなくなる、ということだよ」
思わず首を傾げる。
「……言葉の意味をそのままとると、小沢さんの影にお前が隠れるということになるが」
真は微笑を浮かべ、
「その通りだよ。特別な小沢さんは僕をマスクする」
「なんだそれは。その必要がどこにある」
またまた肩をすくめられてしまった。
「悪いけれど、僕は初めから知っていたよ。小沢さんは普通の子だなんてことは。それに、もちろん君のこともね。誰が何を言おうと所詮はね、普通なんだ。誤解しないでほしいのは、良い意味でということさ」
目だけでこちらをチラリと見て続ける。
「ただ、本当の自分を見てもらうのが正しさと主張した小沢さんと山田島。何もわかっちゃいないね。正直腹が立つよ。普通の人たちの綺麗ごとはもう沢山だ。社会はそのようにできていない」
徐々に、声に力が加わる。真の心が形を成していくようだった。
「常識を常識と思うな、ね。それは理解できる。失敗はしたよ。君たちが自白を避ける可能性も考えていなかったしね。でも、僕が間違っているとは思わない。いいかい、前にも言ったが偏見こそが自然なんだ。これは覆らない。上辺の理解、それがなされることで特別になる人間というのがこの世にはいる。自分の力の埒外なのさ」
真はこちらに顔を向けた。見たことのない真剣な目つきだった。
「一度しか言わない。レコーダーなんて用意していないだろうね」
ごくりと生唾を呑む。そしてゆっくりと頷いた。
雨足だけでなく、風もさらに強くなっているようだ。屋上への扉に叩きつける雨の勢いが増して背後に不安を覚える。薄暗い空間に二人の影が張り付くようにうっすら伸びていた。
ややあって、真も呼応するように頷いた。
強い覚悟を決めた様に見えた。徐に真の口が開く。
「僕には、色がないんだ」
窓の外の灰色は強く、鈍く、二人を包んだ。
一人分の影が、消えたように思えた。
こちらが口を開かなかったのは無意識に、冗談だよ、と真が再び悪魔的に笑うのを待っていたからである。
だが、それには及ばない。
「驚いたかもしれないけど、嘘じゃない。信じてほしい」
「……ああ」
淡々とした声に、こちらも淡々と答えるしかなかった。
首肯して良かったのだろうか。俺は本当に分かっているのか。現実にしっかりと追いついているのだろうか。
「今度は君が聴いてくれ」
だが頷く他ない。
真は微笑みかける。諦めのような何かも含まれているようで、こちらが不安になる。
「色弱、という言葉は知っているね」
藪から棒でないぶん、質問には戸惑わずに答えられる。
「色の区別がつきづらい、っていうやつだろう」
実はうちの叔父がそうだったと記憶している。
「うん。色弱自体は別に珍しい障害じゃない。日本人男性では五%。欧米では一割の人が患っているそうだよ。多くは赤系統、緑系統の色弁別に少し困難があるだけで日常生活にはほとんど支障がないんだ」
「詳しいことは知らないが、割とよく聞くな」
真は遠い目をして、淀みなく喋りだす。
「不思議なものでね。幼いころの記憶なんてほとんどないんだよ。でも、はっきりと覚えていることがある。四歳のときだよ。どういう流れでそうなったかは覚えていないけれど、母親に台所にあった人参とじゃがいもを目の前に並べられた。それで《どう違う》って訊かれたんだ。もちろん色が、という意味だよ。だから僕は答えたんだ。《りょうほうおんなじ》って。あのときの母親の顔は忘れられないな。まるで化け物を見る目だったもの」
自虐的に笑って見せて、続ける。
「その後は検査地獄だったように思う。アルコール臭い病院に幾度となく通ったよ。その結果分かったのは、全色盲。僕の世界には色がないということだった。君の言い方をすれば、《モノクロの世界》さ」
言葉を区切った真と目が合う。いや、ずっと目は合っていたのだ。焦点の合っていない俺が気付いていなかっただけだ。
色がない。そんな世界をどうイメージすればいい。高く青い空も深い緑に覆われた山々も、煌びやかな繁華街も、真には同じに見える。もっといえば朝も昼も夜も、春夏秋冬、様々な場面で感じとれる色彩が、存在しない。そういうことなのか。
きっと、……きっとそんな単純なことではないのだろう。
お前の眼には、何が映っている。
こうして同じところにいて、同じものを見ていたつもりだった。でも真には、違うものが見えていたのか。俺に見えるものが見えずに、俺に見えないものが見えていた。
……上辺の理解は、より偏見をこじらせてしまう。
「ゴタゴタがつきものでね。誤魔化すのもせいぜい半年が限界だよ。だって、UNO、カードゲームのね、あんなものですら僕にはできないんだからね」
一体どれだけのものを真は抱えてきたのだ。
「もうどうしようもなかったんだ。そしてこちらに転校してきた。教師陣には、これはしょうがない、知られているよ。でも僕だってタダでは転ばない。木を隠すのなら森の中っていうだろ」
一拍置いて、汚いものを吐き出すように、息を吐いた。
「おかしなもんだよ。なぜか多くの人間が集まれば異質なものを見つけたがる。見つかれば馬鹿みたいに皆で汚れなきように大事にするんだ。もちろん皮肉だよ。きっと逆説的に自身を肯定できて安心するんだろうね」
俺は何も言えない。真は続けた。
「僕は君たちのような人の裏で普通に生きるんだ。普通の中の特別に過ぎない人の影でね。本物の特別な僕にはそれ以外ない。君たちに分かってもらえるとは思っていないけどね」
ふと思った。なぜか冷静な心は自身に問いかける。
いつのことかは分からない。でも、きっとそう遠くはない過去に、真も理解を求めていたんだ。求めた結果、普通から特別になった。そして理解されるのを諦めてしまった。真の正しい姿は特別という結果からは決して逃れられない。絶対に理解されることなき世界。
よって、特別を隠し、普通になろうとした。
「小沢さんは僕にとって恰好の隠れ蓑だったよ。ここに来た時、既に彼女は特別になってしまっていた。不憫には思うけど、もう少し偏見の世界に浸かっていてもらわないと。悲劇のヒロインとしてね」
そんなもの、都合の良い言い方である。
「ヒロインなんて要らない」
「そうだね。勝手なのは自覚しているよ」
そして二人して押し黙る。大きく変化したこの状況の中、お互いが気持ちを整理している時間には違いなかった。
だがこれ以上、真にできることがあるとは思えなかった。全てをさらけ出して、今回も特別になるという覚悟がこいつにはもうできているのだ。いつもの終着地点に違いない。
では俺である。俺は何を思った。
小沢さんと真。まったく境遇は違う。でも二人とも戦っているんだ。小沢さんはまさにいま、このときを戦っている。そして真は諦めてしまった。どちらが正解かなんて、そんなものはないに違いない。
俺だけは何もしていない。歯を食いしばった。自らを恥じる。
俺には何ができる。いまここで何が言える。
甘いコーヒーの香りと、マスターの低い声と共に思い出す。彼女の正しさを追い、深遠に踏み入ろうと思った理由を思い出してみろ。
深呼吸をひとつ。
自分を理解してもらうためには、まずは人を理解しようとするところからなのだ。
「解かる……とは言えない。口が裂けても、それは言えない」
この解からない、も理解のうちであると思いたい。深遠に入り込んだからこそ言えるのであると。
真はニッと笑った。
「素直でいいよ」
「でも変わらない。俺の中の真は特別にならない」
「本当かな」
「本当だ」
「そうかい」
「俺にお前の世界は見えない。でも、話してくれたおかげで少なくとも、――俺には本当のお前が見えている気がする。それは普通でも、特別でもない、《本物》なんだ。……それでは、ダメか」
真は笑って、世間話をするかのように切り出した。
「ねえ、ひとこと言わせてくれよ」
このときだけ、同じものを感じられた、そう信じたい。
「ここに来てくれて、ありがとう」
短編も載せております。拙作では御座いますが、宜しければご清覧下さいませ。