表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
安楽椅子から立ち上がれ!!  作者: May Packman
3/6

第三章 中国人がいる!

 ホームルームが終わったとき、額にも汗が滲んでいた。もちろん暑さのせいなどではない。むしろ寒い。体の芯から冷えている。身震いを抑えながら教科書を鞄に詰め込んでいく。夏はまた遠くなった。

 いつもなら無気力に家までの道のりをのろのろと歩むところだが、今日は違う。早急に向かわなければならないところがある。

 鞄を手にして勢いよく立ちあがったとき、

「辰吉くん」

「うお!」

 目当ての人物が目の前にいた。教室の喧騒の中でひとり浮いたような冷たいオーラを放っている。いつにも増して顔を青白くさせて俺の名を呼ぶ。両手で鞄を持ち、心細そうに身を縮め濁った目をこちらに向ける。

 うちのクラスだけ先程の連絡があったとは思えない。きっと各クラスであったのだろう。あのメモの発表が。

「ちょうど良かった。小沢さんのところに行こうとしていたんだ」

「そう」

 声に力はない。当然だろう。

「小沢さんも俺に用があるんだろう? きっと同じ理由で」

「ええ。おそらく」

「そうか。じゃあ場所を移した方がいいな」

 小沢さんはゆっくりと頷いた。今すぐ訊きたいことは山のようにある。しかし、おおっぴらに主犯が現場近くで事件の話をするわけにはいかないのだ。幇助者も然りである。

 俺は近くの喫茶店に移動することを提案した。最近行ってはないが、客数の少ない静かな場所である。少なくともうちの生徒がいることはまずない。あとモーニングが実に美味い。店の名前は「エイティーズカフェ」。

「分かったわ」

 憔悴しきった小沢さんは存在自体が今にも消え入りそうである。なんとか顔を上げているだけで精一杯という感じである。

 昇降口まで下りると生徒たちの低いざわめきと、なにやら殷殷とした物音が聞こえた。

 ひょいと外を覗いてみてギョッとした。

 大雨である。朝の夏を思わせる暑さはどこへやら。いよいよ地球はおかしくなってしまったようだ。他の生徒たちと一緒になって、俺はしばし線となって勢いよく落ちてくる雨を見守っていた。

「何をしているの。さあ行きましょう、辰吉くん。イエティーズカフェとやらに」

 振り返ると小沢さんが左手を腰に当て、呆れ気味に顔を傾けていた。そして右手にはピンク色の、

「傘を持っているのか!?」

 驚いて声も大きくなる。

「ええ」

 何をそんなに驚いているのかい。そんな感じである。

「置き傘か」

「違うわ。今日は夕方からにわか雨が降ると予報で言っていたから」

 信じる者は救われる。稀に信じていない者が救われることもある。俺は後者になった。

 不本意ながら小沢さんと相合傘でエイティーズカフェに向かうことになった。傘の恩で言わずにいたが、断じてイエティーズカフェではない。未確認生物のカフェなんて気味が悪いじゃないか。

 昨日、関係の希薄を予感した小沢さんと、今日は相合傘で喫茶店に向かおうとしている。本当に人生って何が起こるか分からない。雨の中、無言でカフェに赴く際にそう思ったものである。

 十分も経たぬうちに俺たちの足は止まった。

 大通りに面している比較的新しい喫茶店。ここに来るのは約半年ぶりである。雨に濡れたエイティーズカフェは以前よりも趣深く感じられた。

 薄いグレーの外壁に、温かみのある茶色の木で縁取られたガラスのドア。窓は大きく、間接照明で照らされた薄暗い店内が良く見える。どうやら客は誰もいないようだ。好都合である。

 店先には名も知らぬ観葉植物とブラックボードが置かれており、チョークで「突然の雨にはエスプレッソが良く似合う」と良く分からないことが書いてあった。自分で提案しておいてあれだが、変な店である。

 軒下に入りやっと雨から解放される。小沢さんは傘についた水滴を払っていた。それを横目で見ながら、以前来たときのことを思い出していた。長いこと足が遠のいていたが、こういう形で再び来店することになろうとは思いもしなかった。

「辰吉くん」

 呼ばれてハッとする。水滴をしっかりと払い落とした小沢さんは不思議そうに俺を見ている。忘れてはいけない。俺たちはここに雨宿りをしに来たわけではない。

「中に入ろう」

 勝手知ったる俺が先導するべきだろう。ノブに手を掛ける。ガラス戸を押し開けるとコーヒーの香りが漂ってきた。大きく息を吸い込む。俺はこの匂いがたまらなく好きなのだ。

「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

 カウンターにいる店主の低い声が、店内にかかっている洋楽に混ざって聞こえた。年の頃は四十過ぎくらいだろうか。顎髭が特徴的な店主である。ダンディーという言葉を使うことは日頃無いのだが、この人には使わざるを得ない。愛想があるわけではないが、決して不愛想という訳ではない。独特な雰囲気と近すぎない距離感が俺をこの店の常連にしていたのを思い出す。

 一番奥の席を選択する。密会を行うには打って付けの席である。歩みを進める前に小沢さんを振り返る。するとやっと彼女は店内に入ってきたところだった。マイペースである。

 木目の綺麗なテーブルを前に、黒い革の椅子に腰を下ろす。サイドワゴンに鞄を預けると、改めて小沢さんを見た。彼女は椅子の形状を確かめながらゆっくりと腰を下ろすと、持っていた鞄を同じようにサイドワゴンに収める。そして俺を見た。

 しっかりと目が合う。眼の奥を覗き込むように凝らしてみる。

「御注文がお決まりになりましたらお呼びください」

 店主が水とメニューを置いて戻って行くまで俺たちは目を逸らさなかった。お互いが考えをまとめている時間ではないかと思う。

「とりあえず。なにか注文しよう」

「ええ」

 やっとお互い視線を外し、メニューを手に取る。なるほど、やはりエスプレッソがおススメか、などと思っていたが、

「どうした」

 小沢さんがメニューを前にもじもじとしているのだ。

「手が、濡れているの」

「だから?」

「メニューが濡れちゃう」

 この店のメニュー表は木製の表紙で、中身はラミネート加工されていない紙である。水には弱そうだ。

「これを使うといい」

 テーブルに置いてあるロゴ入りの紙ナプキンを手渡した。小沢さんは念入りに手から水分を拭う。ようやくメニューを手に取った。まったく世話の焼ける御嬢さんである。

 俺は月並みにアイスコーヒーを、小沢さんはオムライスを注文した。なぜオムライスなのか、訊かなかった。

 注文を待つ間、店内に首を巡らす。以前来た時から特に変わった様子はない。木の床のそこここに観葉植物が並べられ、マガジンラックにはよく分からない英語の本が置かれている。何と言っても特徴的なのが、白い壁にでかでかと額に入れられることなく張り出されているポスターたちである。おそらく全て映画のそれなのだろうが、とても古いもののようで、それぞれ傷みが窺える。

 ちょうど俺たちの席の横の壁にもポスターが飾ってあった。ガルウィングタイプの車の前で、若い白人の男性が右手でサングラスを上げ左手の腕時計を見ている。映画のタイトルは聞いたことのあるものだったが、見たことはなかった。

 その他にも二本足で立つマスコットのようなキャラクター。小動物的ではあるがモンスターのような、しかしどこか愛らしいキャラクターである。タイトルは少し不気味である。機械に悪戯をする妖精の意味だったであろうか。

 少し離れてその横には、一般禁止のピクトグラムからオバケのようなキャラクターが顔を覗かせている。映画名からして彼らはバスターされる運命なのだろうか。

 これらすべて店主の趣味なのだろう。前回来店した際から何も変わってはいなかった。少し安心する。

「良い店ね。イエティーズカフェ」

 小沢さんが呟いたのと同時に俺のアイスコーヒーが届いた。店主が心なしか微笑を浮かべて戻って行ったように見えた。俺は声を潜める。

「小沢さん。イエティはUMAだ。ここはエイティーズカフェ」

 ここで訂正をしないと俺まで勘違いしていると思われる。小沢さんは俺を数秒間見詰めると、顎に手を当て、

「なるほど。そういうことね」

 小さく頷く。

「何を納得したんだ」

「いいえ。別に。言葉には全て意味があると、まあそういうことよ」

 意味が分からない。元来彼女は意味が分からぬ人間だとはいえども。

 再び店主が顔を見せる。

「お待たせ致しました。オムライスでございます」

 真っ白な皿に半熟卵を大胆に覆い被せた注文の品を小沢さんの前に置く。よく見るとケチャップで『NO FATE』と書いてある。なんじゃこりゃ。

「まあ。粋な計らいですね。ただ食べてしまうと文字が消えてしまいます。でも机に刻むわけにもいかないですね」

 木の机を優しく撫でる。なぜか小沢さんの声音は嬉々としている、ように思える。

「御嬢さんとは話が合いそうですね。ぜひともあなたの心に刻んでおいてください。それだけで私は幸せです」

 店主、あんたもか。何度もこの店に来たことがあるが、そんな笑顔を見せたことなんてなかったじゃないか。

 中年男性の満面の笑みが奥に下がると俺はグラス置き、口を開いた。

彼のスマイルにお茶を濁されたが、我々の話は重大なのだ。

「さあ、始めよう」

 ここからが本番である。

「ふぇえ」

 オムライスを口に運びながら彼女は返事をした。訊きはしないが、なぜ君はオムライスを頼んだんだ。 まあ良い。まず話を整理しよう。

「今日のホームルーム。担任から目安箱に投函されていた文書の報告があった。小沢さんのクラスもそうか?」

「ええ」

「あの文書は、その……」

 俺が少し言い淀んだ間に小沢さんはスプーンを置き、

「私が書いたメモに間違いない」

「やっぱり、そうだよな……」

 そりゃそうだ。あんなメモがこの世に二つとしてあるわけがない。

「念のために訊くが、小沢さんが投書したなんてことは――」

「ないわ」

 言い終わる前に否定される。

「だよな。すまん。メモは失くしたって言ってたもんな」

「信じてくれるの?」

 テーブルの上で手を組んで上目づかいに俺を見る。

「そりゃそうだろう。そんなことをする理由がない」

 一拍あって、

「ありがとう」

 どういたしまして。などと呑気に言っている場合じゃない。

 頭を抱える俺に、小沢さんは相変わらず無表情なまま首を傾げて見せた。

「それにしても」

「ん?」

「なぜ私のメモが目安箱とやらに投函されたのかしら」

 もっともな疑問である。しかし、その点はある程度当たりが付いている。

「小沢さんはあのメモを失くしたと言っていたな」

「ええ」

「落としたのは校内なんじゃないのか?」

「かもしれないわ」

 ではそう仮定しよう。

「校内に落とされたメモは生徒に拾われ、ゴミと認識され捨てられた。しかしゴミ箱ではなく誤って目安箱に投函された」

「ちょっと待って」

 珍しく早口に小沢さんが口を挟む。

「なぜゴミ箱ではなく、目安箱なんかに」

「君は知らないだろうが、似ているんだ。目安箱の形状がゴミ箱に。間違ったとしても責められないくらいに」

「へえ」

 もちろん、拾った誰かがメモを読んで、悪意のもとに目安箱に入れた可能性も考えた。しかしそれはあまりにもリスクが大きすぎる。どこの誰が書いたかも分からぬ、とち狂った脅迫文らしきものである。推し量れない他人の悪意と罪をひっくるめて負ってまで、悪戯で学校側に宣戦布告する奴がいるとは到底思えない。飽くまで常識論だが、疑う余地はないだろう。

 この前提条件は既定されたと言ってもいいはずである。

 誤って投函した生徒がメモの中身を見たかどうかは分からない。見ていないのなら当面の問題はあまりない。もし見ていたとしたら――。

 溜息は自然に出た。そして、

「どうする……」

 心の底から湧き上がった言葉だった。ホームルームからずっと押し留めていた四文字。

 そもそも迂闊だった。小沢さんが記したあのメモを全て繋げると、頭の悪そうな脅迫文になっているなんて、気付きもしなかった。俺たち二人そろって間抜けである。

 だが後悔ばかりもしていられない。あのメモは脅迫文として処理され、教師たちも厳戒態勢を張るようだった。事件はすでに起きてしまっている。当事者たちを置き去りにしたまま。

 小沢さんは何かを考えているようであった。指を組んだまま眉を寄せて口を引き結んでいる。やがて指を解き、そのままスプーンを持ちオムライスを一口食べる。……なぜ食べる。

「二つあるわ」

 しっかりと口の中のものを呑み込んで、小沢さんはそう言った。

「二つ?」

「ええ。大まかに分けて、二つの選択肢」

「なんだ」

「自白か、逃亡か」

 がっくりと首を垂れる。これでは本当に犯罪者である。

「自白はまだしも。逃亡って……」

「そうね。言葉の選択を誤ったわ。自白か、否か、ね」

 自白か……、逃亡か。天秤にかけるまでもない。

「だとしたら、やはり全て話した方が良いと思う」

 返答の代わりに小沢さんは俯いた。

「もちろん。しっかり理由は説明しようじゃないか。俺たちは脅迫文を書いたつもりもなければ、投函したのも俺たちじゃない。誰かが落ちていたメモをゴミ箱と勘違いして、目安箱に入れたに違いないと説明する」

 小沢さんは何も言わない。視線を手元に落とし手をもじもじさせ、いかにも反対の意を示している。

「なぜ反対なんだ」

 辟易の表情は俺である。

 こうなってしまったら説明しなければしょうがないじゃないか。いくら発端が馬鹿馬鹿しく、非現実的で、経過が奇跡的であったとしても、本当のことなのだから仕方ない。きっとしっかり話せば教師たちも分かってくれるはずである。仮に全てを信じてもらえずとも、放置すればさらにややこしいことになりかねないのだ、それよりは遥かにマシであろう。

 メモを誤って投函した生徒は内容を見ている可能性がある。それは一読忘れ難い。俺たちに猶予があるようには到底思えない。

 担任教諭の言葉を思い返す。

 その生徒が心当たりを覚えて事情を話せば、記載した犯人探しになる可能性もある。

 全てが明るみに出てから白状したとしても素直に教師たちが俺たちの話を信じてくれるとは思えない。浅知恵で仕立てた言い訳に聞こえるのがオチであろう。つまりこのまま黙っているということは、やましいことがあると自ら認めたことになるのだ。そんなのは俺も御免である。

 もじもじ遊ばせる指を止めて、小沢さんは静かに口を開いた。

「きっと、……またきっと誤解される……」

「誤解?」

 俯いたまま頷く。

「いや、すでに誤解されているんだよ。あれはただのメモで脅迫文じゃない。その誤解をまず解かなくちゃ駄目だろ」

「真実を述べたとして、仮に信じてもらえたとする。でも誤解は生まれる」

「どういうことだ」

 何を言っている。小沢さんは顔を上げ、俺と視線を合わせる。

「人は信じたいものだけを信じる」

「ああ。そうだな」

「この事件が収束すれば必ず憶測が飛び交う。一体あの事件はなんだったのか。犯人は誰なのか。目的は何なのか。どのような結末を辿ったのか」

 まあそうかもしれない。古今東西、高校生はその類の噂話が好きだ。

「そこで私の名前が出る」

「ちょっと待て。いくらなんでも教師たちは情報を漏らすことはしないはずだ」

「人の口に戸は立てられない。それにこの件は生徒会の人たちも巻き込んでいる。私とあなたの自白は彼らにも伝わるはず。後はお得意の尾ひれがついた情報の拡散」

「そんなこと……」

「ないと思っているの?」

 予想は経験を覆すことはできない。彼女の口ぶりには強さがあった。

「私たちの正直な自白は、結果的に私たちの身に覚えのない誤解を招く。それはもう想像できないくらいに大きくなって、正しさを失う」

 小沢さんは合わせていた視線を外し、小さく、小さく呟く。

「そして、また特別になる」

 背筋が寒くなった。伸ばしていた背を少し丸めて、目の前のグラスを覗き込むような格好になる。その姿を映し出すグラスのコーヒーはまるで揺らめく黒い鏡である。

 アイスコーヒーを口に含む。ストローで氷をかき混ぜながら考えてみる。

 安易に事件の解決だけに気を取られていた。彼女の問題は解決されるどころの話じゃない。

 責任と無責任。必要と不必要。もう一度考え直すべきだ。できるだけロジカルに。

 飽くまで俺たちにとって、あるべき形で、望むべく結果でこの事件が解決されるのには。何が必要で。何が不必要なのか。

 腕を組んで思考を巡らす。腕を組むのは防御の姿勢と聞いたことがある。その通りだと思う。

 現時点で目安箱に投書されたあのメモは脅迫文とされている。投書したのは小沢さんではない。また、 小沢さんは脅迫するつもりであのメモを書いたわけではない。

 メモを紛失した彼女に落ち度はあれど、少し身勝手な言い方をすれば我々も被害者と言えなくもない。

 では自白をするのは俺たちの義務であろうか。最早自白という言葉を使うことすら憚られる。小沢さんの言うように全てを話し、この事件を解決に導いたところで俺たちに何がもたらされると言うのか。正直者が損をする。まさにそれではないのか。

 今回は確固たる証拠物がある。脅迫文という名のそれがある。事件の全貌を知るものとして名乗り出ることによって、真実味のない真実を説明することによって、あらぬ噂が立ち、みな信じたいものを勝手に信じる。今までのように。

 そして、また特別になる。

 俺たちの犠牲は必要なのか。不必要なのか。それは責任なのか否か。

「私は嫌だ」

 小沢さんの声である。冷たく吐き散らすような声。

 コーヒーの黒色に映る自分から視線を移す。

「私は特別になんか、もうなりたくない」

 小沢さんの大きく開かれた眼に答えが宿っているように思えた。俺は小さく頷く。

「……では、どうする」

 話は振り出しである。説明を放棄し、俺たちは何をすべきか。

 顎に手を当て考えてみる。アイスコーヒーの氷が溶け、カランと音を立てる。小沢さんは久々にスプーンを取り上げ、少しずつ口に運び始めた。よく食べられるな、とは言わない。

 オムライスが残り少なくなったとき、ぽつりと彼女が呟いた。

「分からないわ。どうするべきなのか……」

 そうだろう。フィクションの世界ではないのだ。そうそう名案が思いつく訳もない。

 コーヒーに口をつける。水と混じり合い、苦みも味も薄くなってしまっている。それでも苦い顔をしてしまうのは、俺も彼女と同じ答えに辿り着いてしまったからである。

「……分からんな」

 溜息交じりに言って、天井を仰ぐ。

 全てを投げ出して、俺たちが新たにすべきこととは何なのか。背負う責任とは、何なのか。

 ――分からない。

 そこではたと気付いた。考えが頭を巡る前に小沢さんが徐に口を開く。

「ごめんなさい」

 疲れた脳は反応を鈍らせる。その間に、

「まず初めに言うべきだったわ。辰吉くんは関係ないのに、私のせいで巻き込んでしまっている。ごめんなさい」

 謝罪を重ねる。いつの間にか肩に入っていた力が抜ける。自然と背筋も伸びる。

「いや、そんなことは」

 首を振って見せる。しかし小沢さんは腹に何かを決めたような、なぜか力のある声で続ける。

「実は私は、水泳大会、別に嫌ではないわ」

 思わぬ話の方向に鼻白む。一方彼女は一層力を得たように話を継ぐ。

「もしかしたら、この行事で皆と仲良くなれるかもしれないもの」

「そうか」

 呆れ気味に返す。今はそんな話はしていない。それどころではないはずである。

「私はどうすれば良いか分からない」

「ふむ」

「でもどうしたいかは分かる気がする。それはもうずっと前からそうだったから」

「何の話だ。良く分からない」

「そうね。私も良く分からない。やろうとしていることが正しいことなのか、どうなのか。でもどうせ分からないのなら」

 視線で俺を射すくめる。

「あなたを信じる」

「は」

「あなたが教えてくれた、私の無意識を意識する」

 たったいま響いた声は、果たして彼女のものだったのだろうか。

「私は皆に理解してもらいたいの」

 それほどまでに力強いものだった。

 馬鹿げた話である。

 その時初めて、彼女の言葉にも感情が宿ることを知った。





 ことは何も解決を見出せないどころか、進展すらしてはいなかった。しかし、

「帰りましょう」

 小沢さんは何の思い残しもなさ気にそう言った。あまりの歯切れの良い口調にこちらとしては言葉を失う。咄嗟にコーヒーの残りを啜るくらいである。

 彼女はサイドワゴンから鞄を手に取ると徐に立ち上がる。ピンクのスカーフがかすかに揺れた。手でスカートを払い、そのまま両手を前で添えると正面を向いた。どうやら帰り支度の準備は完璧のようだ。

 そして彼女は壁のポスターに目をやる。例の《題名は知っているが見たことはない映画》のポスターである。数秒してから片手を挙げ、

「マスター。タブを」

 ややあって、請求書を持って髭の店主が現れる。

「こちらですね。御嬢さん。それとも低カロリーの例の飲み物の方でしたか」

「少しだけ期待しておりました」

「失礼。次回までには何とか用意しておきましょう。どうぞお忘れ物がないようにお帰り下さい。あなたには是非また来店して頂きたい」

「こちらこそ。再びお会いできることを楽しみにしております」

 俺はといえば再び置き去りである。二人だけで楽しまないでいただきたい。氷すら残っていないグラスを空にしながらそう思ったものである。

 六百円と千円をそれぞれ支払って外に出たとき、雨はもう止んでいるように思えた。二人とも空を仰いで雲の行方を窺ってみる。軒先から手を伸ばして水滴を感じられなかったところで、顔を見合わせた。一度開花を経たピンク色の花も役目を終える。パチンと音がして、今は蕾となり彼女の片手に携えられる。

 ここで解散の流れのようだ。

 小沢さんは三十度に折れながらお礼を言って帰って行った。

 残された俺は本当にこれで良かったのかと考えるばかりで、その場から動くことができなかった。小沢さんは何かを心に決めたようだった。それが何かはもちろん俺には分からない。このままただの傍観者として、この件を見守っていいものだろうか。

 ふと見るとブラックボードの文字が変わっていた。

『今昔の流れも知らず ひたすらの 美味なる故に 愛す(アイス)珈琲』。

 変な店である。

 



※※※




 梅雨には、もう入っているのだろうか。

 例年で言えば六月七日は梅雨入りしていてもおかしくはない日付ではある。今日の空は、もくもくと雲こそ湧いているが雨粒を落とすまでには至らなかった。曇天を仰いで、心に翳りが落ちていくのを感じた。当分はこの空模様が続くのか、と思えば無理もないことである。

 現在は昼休みの時間である。我がクラスは喧騒に包まれていた。昨日の脅迫文事件を受けて特に変わった様子はない。男女の喋り声と、たまに大きく響く高い笑い声がない交ぜになって、薄暗い空に突き刺さる勢いである。

 少し拍子抜けであった。しかしそれは自分が当事者であるからだろう。彼らの立場であったのなら、同じく変わらぬ日常を過ごしていたに違いない。

 まだ何かが起こったわけではないのだ。昨日の今日で現実感が湧かないのは当然。事が真実として浮き彫りになっていくのはここからなのだ。対岸の火事がこちらに燃え移るには少し時間がかかる。

「ごきげんいかがかな」

 およそ高校生に似つかわしくない挨拶である。こんな台詞を吐く主は一人しかいない。声がした方に顔を向けると、

「借りていて忘れていたよ。堪忍」

 右手に持った英和辞典を高く上げ、特に申し訳なさそうな表情の真がいた。

「そうだったな」

 差し出された分厚い辞典を受け取る。意味もなく少し両の手で弄んでいると、顔を覗きこまれた。

「元気がないようにみえるけど」

 どうかしたのかい? と続けてきた。台詞とは裏腹にその表情から《心配》の二文字は読み取れない。 腹立たしい笑顔である。

 確かに元気はない。しかし、こいつの前で元気に振る舞った記憶もないので問題はない。

「別に。いつも通りだ」

 自然に目を逸らし答える。だが真は肩をすくめた。

「嘘はいけないな」

 本当に嫌になる。こいつは確信があるのにも関わらず、俺を試しているのだ。

 分かっているのだ。それでいて俺がどう反応するかを楽しんでいる。もしかしたら英和辞典を返しに来たのはそのついでなのかもしれない。憎らしいことに、こいつはいつも俺の先を行っている。

 下手なことを言われる前にこちらから切り出した。

「確かに嘘は良くないな。でも本当のことが必ず良いとも限らない」

「その通りだね」

 立ち上がり、今度は真を見下ろす。冷静でいることは、こいつとの対峙において必須条件である。ペースを握られると命取りになる。

「ついて来いよ。少なくとも、もう嘘はつかない」

「良い心掛けだよ」

 それだけ言って俺の後ろをついてきた。どうやら余計なことを言うつもりはなさそうだ。


 足は自然に屋上へと続く階段に向かっていた。

 どんな顔をして真は後ろをついてきているのだろうか。確認したところで何の足しにもならないので、前だけを向く。

 もちろん屋上への扉は施錠されている。同じ棟の三階から屋上へと続く階段。上りきると、どちらともなく踊り場に腰を下ろした。見下ろせる向かいの窓からは人気のない中庭が見える。完全に姿を隠せる場所ではないが、話を盗み聞きされるようなところでもない。ここならば邪魔が入ることはないだろう。

 真が口を開く。ひんやりとした空気に響くようだった。

「よくここに来るの?」

「そんなわけないだろう。初めてだ」

 だよね、とどうでも良さそうに相槌を打つ。そして恨めしそうに、閉ざされた屋上への扉を見やる。

「どうせなら屋上に行きたかったね。青春の香りがするよ」

「今日は曇りだ。大した風情も期待できんだろ」

 沈黙が降りる。無言は即ち催促である。話を核に誘う、強い力が備わっている。その力に押し出されるように俺は喋り始める。

「昨日、脅迫文が目安箱に投函されていたと発表があったな」

 真は何も言わない。続ける。

「あれは小沢さんが俺との会話を書いたメモなんだ」

 チラリと表情を窺う。驚かないところを見るとやはり分かっていたのだろう。決して不思議なことではない。なんたってこいつは盗み聞きを決め込んでいたのだ。会話の内容から俺たちが関わっていることぐらいは想像できるだろう。

「それで――」

 冷えた空気は振動する。真の目はこちらを向いていた。転がって行く玩具を見るような目である。

「どうするつもりだい」

 これもまた意地の悪い訊き方だと思う。クローズド・クエスチョンは会話をコントロールされている証拠である。

 答えあぐねて下を向いていると、口調が変わった声が聞こえてきた。

「まさか、名乗り出ない気じゃないだろうね」

 答えに窮している息を真はイエスと汲み取ってくれたようだ。

「冗談だろ、山田島。何があったかは知らないけれど、これは歴とした《脅迫事件》だよ。今でこそ問題はそれほど顕在化してはいないけれど、……いや、十分顕在化しているよ。このままにしておけばさらに事は大きくなるのは間違いない。でも君たちが名乗り出れば全て終わるんだ」

「そんなことは分かってる」

 突っぱねる様に言っても駄目である。声が弱々しい。

「分かっているような人間が出すような答えじゃないね。責任を放棄するなんてさ」

「責任?」

 つい反応してしまった。続けるしかあるまい。

「……責任って、なんのだ」

 真は呆れたような微笑を浮かべ、諭すように言う。

「君たちが書いた脅迫文のせいで、教師陣が事態収拾のために東奔西走し、生徒たちは少なからず不安になっている。それに少しでも罪悪感を覚えるのであれば、押っ取り刀で校長室にでも出頭することはごく自然の行動だとは思わないのかい?」

「あれは脅迫文じゃない。ただのメモだ。投函したのも俺たちじゃない。嘘じゃない、本当だ。小沢さんはメモを校内で失くしてしまったんだ。それを拾った誰かが、ゴミ箱と誤って目安箱に入れてしまったと、俺は思っている」

「君を疑っちゃいないよ。事実もおおよそそんなところだろうね」

 あっさりと言う。

「幾らなんでも君がそんな馬鹿げた嘘をつくとは思っていないさ。さっきも言ったろ、《何があったかは知らないけれど》、でも、こうなってしまっているんだ。図らずとも発端者となってしまった君たちは、なんらかの行動を起こすべきじゃないのかい」

 正論だとは思う。

 でも違うのだ。事はそんなに単純ではない。それでは解決しない問題がある。

「考えがあるなら言ってみてよ」

 不満が表情に出ていただろうか。真に言われてしまった。ややあって腹を決め、唇を舐め、開いてみる。か細い声は真の耳に届く最低限のものであったろう。

「彼女は、……小沢さんは、また特別になってしまうんじゃないのか」

 間が空いた。それなりに長いものである。さすがに不安になったころ、真の声がした。つまらなそうなそれだった。

「ふうん。そういうことか」

 足を投げ出して、ブラブラさせている。いつもより低い声で真は話し始めた。

「無実である小沢さんが、事実を述べる。しかし、ステレオタイプの人間たちは信用することはしない。あるいは、表向きでは彼女の発言に沿う形で事件は収束するかもしれない。でも、彼女のイメージに符合させるように、彼らの脳内では事実をそれぞれ捏造していく。そこに乖離が生まれる。当然、残るのは後者。《本当の事実》がどうであるかは二の次。人は信じたいものしか信じない。そんな感じかい?」

 黙って頷く。大体は合っている。

「どうかしているよ。君はこの間、言っていたじゃないか。《他人に本当の自分を理解してもらうなんて無理だ》、ってね。僕もそれには賛成だ。それなのに、今の君は彼女が誤解されないか憂いでいる。《彼女は理解されるべき》。前提をそこに置いて行動しようとしているじゃないか。矛盾しているよ」

 矛盾。果たしてそうだろうか。

「無理、……実際はそうなのかもしれない。でも無下に彼女が誤解されるのは、やっぱりそれなりに抵抗があるんだ。それに、小沢さんには何か考えがあるらしい。昨日喫茶店で少し話した」

 特別おかしいことじゃないはずだ。頭では分かってはいても、目の前の理不尽はやはり避けたい。

「無理なことに抵抗を示して何になる。真理・原則を相手にして君たちに何ができるっていうんだい。そんなもの、駄々をこねている子供と一緒だよ。どうしてそんなことをするんだ。貫くべきところはそこじゃないだろう」

 俺は黙った。真の言うことが正論であると分かっているからである。

「やっぱり、捨てきれないかい」

 この言葉に身を硬くした。まるでこめかみに拳銃を突きつけられているかのような、息を飲むのも気を遣うほどに。視点は定りすぎて、なぜだか焦点は合わない。

「それにしても――」

 真の声は明るいものに戻った。それはどういう心境の変化なのだろう。

「彼女が君に嘘をついて、本当はあの脅迫文を投函したという可能性を微塵も考えないんだね」

「……当たり前だ」

「なぜ?」

「彼女はそんなことはしないからだ」

「それは結構な根拠だよ。よほど厚い信頼関係が築かれているんだね。彼女の全てを知ってなければそんなことは言えないもの。《本当の彼女》とやらをね。矛盾もここまでくると正論だよ。彼女の考え、とやらにすがる気持ちも良く分かった」

 態度が悪い。

「嫌味な奴め」

 真は清々しいほどの笑顔を浮かべ、

「自覚はしているよ」

 自覚しているならば良い、と言う訳でもあるまい。小沢さんは自覚できなかった分、まだマシと言えるかもしれないが。どうだろうか。

「ところで、なぜ屋上への扉が封鎖されているか知っているかい?」

 藪から棒である。俺は鼻白みながらかぶりを振る。

「その昔、文化祭の準備期間に生徒の転落事故があったらしい。残念ながら亡くなったそうだよ」

 本当なのか。にわかに信じ難い。

 それにしても不吉なことを言う。少なくとも今この場所で聞きたくはなかった。

「なぜそんな話をする」

 恨めしげに真を睨みつける。

 真は笑って、

「ごめんごめん。ただね、知ってほしかったんだよ」

 なんだか懐かしそうな表情を浮かべて、呟くように続けた。

「君の知らないことはいくらでもこの世にあるんだよ。気付かないのは不憫ってもんだろう」

「不憫って、誰がだ」

 回顧に浸った顔を止めて、どこか遠くを見るような目をする。珍しく無理をした笑いを口元に作る。

「もしその生徒が幽霊になって彷徨っていたとしたら、誰にも気付かれないのは可哀想だろう?」

 真の視線を追って空中をしばし眺めてみる。

「教えてもらったところで隠れているものは見えやしない。気付きもしないさ」

 生まれて此の方、霊感などに目覚めたことはないのである。幽霊がいたとして、それはまさしく住む世界が異なるに違いない。

「そりゃそうだ」

 真が破顔したことに少しばかり安心している自分がいた。見えない幽霊なんかより、不器用な笑いを作る目の前の真の方が、よっぽど薄気味悪いのである。

「まあ、君の考えは分かったよ。考えがあるのなら少し様子を見させてもらう。ただ意見が違う僕は何も力になれない。その代わり何も言うまい。簡単に言えば、告発は心配しなくていいよ」

 伸ばしていた足を折りたたみ、真は勢いよく立ちあがった。腰に手を当て、のけ反るように伸びをする。

「実を言うとね、平凡な日常に飽き飽きしていたところだったんだ。小沢さんの珍妙な行動を期待して、この場は知らぬフリをさせてもらうよ」

 他人事とはいえ、あんまりである。真らしいといえばそれまでだが。

 俺は何も言わずにただ真を見上げていた。その表情はあまり友人に向けるべきものじゃなかったかもしれない。しかし、こいつは何も気にする素振りも見せず、

「貴重な昼放課に呼び出して悪かったね。君たちの暗躍を期待しているよ」

 勢いよく階段を下りていってしまった。こちらを一切振り向くことなく、消えていった。

 空気は一気に冷え、急にこの場にいるのが怖くなった。恐らく先程の話のせいだと思う。

 

 真が切って行った風で埃が舞う。はらはらと再び地面に落ちていく。どうやらここは掃除が行き届いていない場所のようだ。そのとき初めて気付いた。




 翌木曜日は、早朝から体育館で全校集会があった。兵馬俑の如く生徒たちが整列している姿はお馴染みのものである。

 重要なのは、これは学年集会でなく全校集会だ。つまり出席者は生徒全員である。記憶を辿れば、全校集会というものはその月の初めに行われるはずである。よって今月は既に済んでいる。

 これは臨時集会と言える。あまり良い響きではない。何かしら緊急事態が起こった際に開かれるものに違いないからである。しかもその事態に心当たりがあるので尚更だ。

 悪い予感というのは当たるものである。頭頂部が薄い、名も忘れた小太りの我が校長は時候の挨拶もそこそこに、マイク越しに話を切り出した。

「えー、皆さんも御存知だとは思いますが、つい先日、今週の月曜日ですね、ある文書が生徒会所管の目安箱に、えー、その、入れられておりました、ようです。私も目を通しましたが、悪質な妨害文書でございました。まあ、えー、……大変遺憾です」

 なんともやきもきする話し方である。

「えー、まあ、単なる悪戯だとは思います。事の解決に関しましては、まあその、先生方が尽力します。そうですね、改めて文章を読み上げることはしませんが、危険な思想と犯罪予告らしきものが書かれておりました。だから、その、えー、生徒の皆さんも注意して下さい」

 こんなにも説明下手でも校長になれるものなのかと呆れてしまった。

隣の、他クラスの知らない男子生徒が、大口を開けて欠伸したのが分かった。無理もない。この人の話からは緊迫感の欠片も伝わらない。

「こちらとしても、なるべく警察に通報など、事を大きくしたくはありません」

 どきりとした。単純なもので、《警察》という単語だけで俺は心臓がキュッとしてしまった。事態は国家権力を巻き込むほどのものなのか、という具合である。

「何事もなければそれに越したことはありません。もしかしたら万全を期して水泳大会は中止にせざるを得ないかもしれません。とても残念ですが」

 この際なんでもいい。間違いなく、これ以上は何も起こらないのだ。少しでも穏便に事件が終息していけばそれでいい。とういうより、そうなってもらわなければ困る。さわらぬ神になんとやら、と言っては当事者として罰が当たるかもしれない。

「しかし、これも安全のためです。皆さんの身の安全が第一でありまして、えー、その」

 再び校長の話が路頭に迷いそうになったときであった。

 兵馬俑の中でするりと手が伸びた。白くて細い腕が静かにニョキっと生えてきた。

兵馬俑の挙手である。

 いや、《静かに》、とは言ったが、直前にむにゃむにゃとした、あるかなきかの声が聞こえた気もするのだ。どちらにせよ、今は真っ直ぐ伸びた手が天井に向かっているだけである。

 俺の少し前方で突然上がった腕は、他の生徒にざわめきを与える。湖に小石を放ったときのように、ざわつきの波紋はその生徒を中心に広がって行く。やがて体育館の隅まで行き届き、極限に達した。

 しかし、その長い腕は沈まない。どよめきの中、強い意思と力に支えられた手は折れない。校長は美しく伸びた透明な右腕に気付く。

「どうしました」

 混乱を収めるように、また自身も困ったように校長は言う。

「なにか、ありましたか」

 まさしく渦中の生徒に問いかける。伸びた腕はようやく折れた。

 その生徒が何を言うのか、全員が注目していた。無論俺もその一人になっていた。

「……ダメです」

 聞こえたのは、むにゃむにゃとした声だった。踏ん切りのつかない、気を遣った呟きと言っても良い。

「なんですか」

 校長には届かない。単純に聞こえやしないのだろう。

 生徒はひとつ息を吐いた。自分の中にある迷いや恐怖を断ち切るようだった。そして、少し間を置いてから今度は大きく息を吸った。同時に背を反り、両の腕は羽ばたくように広がった。つま先で立ち、勢いを身体に乗せた。それから彼女は叫んだ。

「テロに屈しては、ダメです!!」

 果てしなく強い感情と共に緊迫感がこの場を包んで、身じろぎする人すらいなくなった。しんとした会場に女生徒の声がこだまする。その声に熱は、こもっていた。

 あのときと同じ体育館だった。あのときと同じ、長くて黒い髪の少女を見ている。

 でも違う。彼女は叫んでいる。無意識を自覚して自分を開放している。ひとり、この場を支配している。だが顔は見えない。

 でも、見えなくて良かったと、少し思った。




※※※




 その日のホームルームのことである。

 櫻井教諭から話があった。前置きなどもういらないのだろう。

「さっき地域の方から手紙が届いたそうだ。しかも校区外の方からだ」

 予め用意していたコピー紙に目を落とす。

『そちらの学校さんでゴミゼロや水泳大会を巡って問題が起こっているのですか。そうであるのなら、ぜひ生徒の気持ちを聞いてあげて下さい。私は信じております。先生方で不安を取り除いてあげて下さい。』

 原文のままだと付け加えた。

 事態は生徒だけでなく、地域住民の注目の的となっているようだ。櫻井教諭がわざわざこの話をしたのも、件の問題が校内に留まるものではなくなっていることを強調するためであろう。

 しかしながら、俺の当面の問題は小沢さんのあの絶叫である。

 この脅迫事件の当事者である彼女が、「テロに屈してはダメです!!」とぶつけた。どの口が言うかと思うが、問題はそこではない。

 さっきのは、明確な彼女の意志表示だ。今までにない大きな力である。彼女の中で何かが生まれ、それを口にせずにはいられなかった。あの場面で、である。

 あれが彼女の言っていた《やろうとしていること》の結果なのだろうか。だとしたら真意を量る必要がある。いや、わざわざ量る必要もない。直接彼女に聞けば良い。

 放課後になったら小沢さんに会いに行こうと決めていた。



 場所はどこでも良かった。邪魔が入らなければ。

 というわけで、昨日と同じ埃っぽい屋上前の踊り場を選んだ。

 小沢さんの教室へ向かったとき、思わぬ待ち時間を喰った。

 五組はまだホームルーム中だったのである。年配の女性教諭のはきはきした声が廊下まで聞こえていた。彼女は確か数学教諭である。うちのクラスも担当している。小沢さんのクラスの担任だったとは、初めて知った。

 その大きな声は厳格さを象徴していると言える。口調も女性とは思えないほどに強い。俺は静かに廊下で身を縮めて待った。

そのとき聞こえてきた言葉にさらに身を縮めた。

「大体前々から思っていたことではあるが、少しばかりこの学校は行事に尽力し過ぎじゃないか。合唱コンクールを経験してよく分かった。朝も昼放課も放課後も練習をさせられ、得られるものはなんだったのだろう。ほんの少しの喜びと引き換えに徒労や虚無感を大量に得ただけじゃないか。今日のゴミゼロだって雨でびしょ濡れになってまでやることだったのか。その上、水泳大会だって。馬鹿馬鹿しい。またアホみたいに練習させられるに決まっている。放課後まで残ってやらされるかもしれない。おかしいだろう。行事なんて無理強いされるものじゃない。水泳大会は中止すべきだ。思うような結果にならなければ危害を加える可能性がある」

 なぜ今更あの文面を読み上げているのだろうか。

 しかし、この女性教諭が言うと迫力がある。これは間違いなく脅迫文だと再認識させられる。

 ややあって、女生徒の号令が聞こえた。続いて揃った挨拶が聞こえ、一瞬にして喧騒に変わる。気の早い男子生徒が教室の後ろ扉から飛び出してきた。エナメルのスポーツバッグを抱え廊下を走って行った。部活動だろうか。

 それからぞろぞろと五組の生徒たちが流れ出てくる。少し待ってみたが、小沢さんの姿を見つけることはできなかった。

 流れが途切れたところで教室の中を覗いてみる。彼女を見つけたのはすぐだった。窓際の席に座っている。横顔は相変わらず透き通るような色白で、アンニュイな表情が分かる。今朝校長に噛みついた張本人とはとても思えない。

 何をするともなく、小沢さんは座っていた。ベージュのカーテンが風に揺れ、彼女の前髪も合わせるように小さく踊っていた。

 他の生徒がお喋りをしながら帰り支度をする中、正面を向いて固まっていた。彼女だけまだ見えぬ授業が続いているのだろうか。

 誰も小沢さんに気を配るものはいない。前を向く彼女の眼にはクラスメートの様々な顔が映っていることだろう。だが、彼らの眼は小沢さんを少しも捉えていないようだった。いるようで、いない。そう感じた。

「小沢さん」

 遠くから呼びかけて、近づいて行く。

 まあ、と口を開けたのが分かった。そして、

「ジョーイチロウ、くん」

「いよいよ誰なんだ、それは」

 これでは人違いである。

 一度は横に向けた顔は、再び前を向いた。俺との会話はするつもりはないのだろうか。しばらくポーズボタンを押されたように、そのままである。せっかく赴いたのに拍子抜けしてしまう。

「いいのかしら」

 小沢さんである。からくり人形のように首を傾げている。

「なにが」

 教壇から女性教諭が去るのを見届けてから、答える。

「お説教は」

「あぁ……」

 なるほどである。漏れた息は納得と、次の疑問までの間を繋ぐ。

「そういえば、さっきまたあの脅迫文擬きが読まれていたようだが、何かあったのか」

 こちらに目だけを向ける。にべもなく答えてくれる。

「別に何も。《気を抜くな》、という前置きがあったから、ただ私たちに釘を刺しただけだと思うわ。それにしても、もう聞きたくないわ。あの文章は」

「そうだろうな」

 こちらだって同じである。

 沈黙はあまり面白くはない。会話を続ける努力はしてみる。

「それで、あの後はどうだったんだ」

 ゆっくりこちらを向く。薄い唇が開く。

「色々とおかしな問答が繰り広げられたわ。ただ私は何も悪いことはしていないから、相手もやりづらそうだった」

「そうか」

 小沢さんは全校集会が終わり次第、生徒指導の屈強な男性体育教師に声を掛けられていた。色黒教諭に何かを問われ、彼女が頷いたのが見えた。その後はどこかに連れて行かれてしまった。大体の予想はついているが、訊いてみる。

「何を訊かれた?」

「なんであんなことを言ったのか、とか、何を考えているのか、とか。そうね、すごく曖昧な質問が多かった。あの先生も処置に困っていたのでしょうね。よく言葉に詰まっていたわ」

 いわゆる不良相手ならば、力で抑え付けることもできたろう。しかし、現れたのはしかつめらしい顔をした厚みのない少女。あのいかにも脳筋な教諭では手に余りそうである。

 剣道の防具を着て意気揚々と竹刀を構えたところ、横で将棋を打ち始められたような。

 違うのだ。戦っている世界が。勝負にすらならない。

「私は思ったことをそのまま答えた。少し困ったような顔をしていたけれど、怒られはしなかったわ。注意程度ね。あんまり無茶はしちゃダメだと、そう言っていたわ」

 それぐらいが妥当であろう。教師というものも大変だ。

「思ったことってのは?」

「水泳大会が中止になってほしくないということ」

 なるほど。これは注意しにくい回答だ。悪意どころか一高校生の純粋な願いのように思える。少なくとも、怒られる理由にはならない。

「少しいいか」

 小沢さんは首を傾げたが、すぐに立ち上がった。



「よくここに来るの?」

 もの珍しそうに顔を左右させながら、階段踊り場で小沢さんが訊いてきた。昨日のあやつの台詞と同じである。

「来ると思うか?」

「分からない」

「今日で二回目だ」

「割と来るのね」

 そうだろうか。価値観の違いである。

 このひんやりとした軽い空気に身を置くのも二度目である。昨日と同じ場所に腰を下ろす。小沢さんも丁寧にスカートを押さえながら横に着く。

「無駄話は好きじゃないから単刀直入に訊くぞ」

「私は割と好きだけど」

 話の腰を折らないでほしい。

「今朝の集会での行為が、小沢さんの《やりたいこと》だったのか?」

 少し考えて答える。

「やりたいこと、とは少し違うわ。この前、どうしたいかは分かっている、と言ったでしょう」

「ああ」

「私は水泳大会を行ってほしいと思っている。中止になっては困る。それで叫んだ」

 あっさりと言うが、短絡的に聞こえる。

「あの場面で、叫ぶのは正解だったのか?」

「正解?」

 少し肩を揺らして俺の方を向く。そして継ぐ。

「あなたは不正解だと思ったのね」

 言葉に詰まる。答えはイエスだからである。

「……事実、皆は訝しげな目で小沢さんを見ていたはずだ。それは本意ではないんじゃないか」

 見詰められる。彼女は何を考えているのだろう。こちらが考えてしまう。必死に彼女の眼を見て、口元を見て、薄い眉の形にまで、変化を探す。

 しかし、無駄であった。はっきりとした答えが返ってくる。

「違うわ」

 あの時とは違う淡々とした声。薄汚れてひび割れた壁に、静かに吸い込まれていくようだった。俺は身じろぎができない。

「私の不本意は、私の気持ちが伝わらないこと。前にも言ったでしょ。それにあなたにも言われた。その原因も」

 だからあなたのせい、と言われた気もしたが違うようだ。

「確かにあの場面、勇気が必要だった。でも私には言う理由があった。もう逃げるわけにはいかなかった」

 はてな。分からないことが一つある。訊いてみることにする。

「特別に――」

「え」

「特別になりたくないんじゃなかったのか、……小沢さんは」

 表情を変えず、

「そうよ」

「じゃあなぜ。よりによって全校集会で、大声で叫んだんだ」

 沈黙が降りる。廊下の窓から優しい陽が差し込む。ほんの少しだけこちらにも輝きのおこぼれが届く。ささやかな光の中を舞う小さな埃の動きが、際立たって見える。まるで宝石のくずのように床に降り注いでいた。

 小沢さんは俺から目を逸らさない。俺も逸らすわけにはいかない。お互いの主張が、見えない火花を中心にせめぎ合っている。ややあって、

「特別な私とは《虚像の私》よ。あなたは勘違いしている。私はただ《普通》になりたいんじゃない。私は《普通の私》になりたいの」

 俺は目をしばたたかせる。

「何がどう違う」

「特別は作られたものなの。今の私は、作られた私。他人が創造した小沢という知らない私。私はまだ皆の中に存在すらしていない。スタート以前の問題」

「では、本当の自分とやらは普通で、分かってもらえたら普通になれると思っているのか?」

「それは分からない」

 言葉を失う。

「知るわけないわ。やってみないと分からない。でも、――でも、今よりはずっと良いはず。虚像が特別になっているより、結果的に私が特別になる方がまだマシだわ。それに正しいはずよ」

 それはつまり否定された場合、救いがないということである。

 特別なのは虚像の小沢である、という、いわゆる保険がいまはある。仮に理解されたうえで、特別の値札をつけられた場合、もう逃げられない。

 本心は大脳皮質を通さずに口を衝く。

「怖くないのか」

 小沢さんは《こんにちは》とでも言うように、こともなげに言う。

「すごく怖いわ」

 つばを飲み込む。

 じゃあなぜ、なぜ、そこまで知ってもらおうとするのか。愚直とまで言えるほどに自分を見てもらおうと思えるのか。なんのために。そうだ、なんのために、小沢さんは理解を求める――。

 小沢さんは《こんばんは》と続ける。

「でも一番怖いのは、誤解が生まれ、纏うこと」

 長い《おやすみなさい》は結句にふさわしい。ゆっくりと、優しく、強さも伴って紡がれていく。

「何度でも言うわ。私は誤解されたくない。そして、私は理解してもらいたい。それ以外はどうでも良い。これが私。身に覚えのない事柄に首を突っ込むほど優しくないわ。いま、私は私のためだけにしか真剣になれない。そしてこれからも、誰よりも自分を大切にする。それは私にしかできないことだから。諦めたとき、私を捨てることになる。そんな気がする」

 深い闇に誘うように思考を朧げにする。《宝石》がひらひらと肩に舞い降りる。

「そんなの、怖くてできない。自分からもう逃げたくない。私は私でいたい。脅迫事件の真相もはっきり言ってどうでもいいの。正義や信義則がどうのと言うのなら言えばいい。私の目的はそこにはない。決まっているの。やりたいことはすべて。そのためには水泳大会は行うべきだと私は考える。それさえ伝われば、今日のそれは正解だと言えるでしょう」

 信義則は日本民法第一条である。重要性は、語るまでもない。

「あなたは勝手だと思うでしょう。巻き込んでおいて無責任だと思うでしょう。でも、引けない。私は無意識を意識した。あなたのおかげよ。ありがとうと言うわ。頭だって下げる。でも、……意識した感情は消すことなどできない。私を隠すことはできない」

 眼差しに熱が帯びている。要らない。もう説明は、要らない。

「私は、正しくいたい」

 冷たい吐息のように、顔に浴びさせられた言葉に今度は凍りつく。

「あなたなら、分かってくれるかしら」

 とんでもない驕りであった。俺は彼女のことなど、なにひとつ分かっていなかったんだ。

 彼女は叫んでいる。今も叫んでいる。

 私はここにいる、と。




※※※




「おや。またここにいたんだ」

 陽は傾き、薄暗い踊り場はより一層深い闇に沈んでいた。

「そんなところで寝転んでいたら服が汚れるよ」

 真の窘める言葉など聞く気はなかった。俺は誰もいなくなった埃積もる踊り場に、身を横たえていた。 小沢さんが去ってから、もうかれこれ三十分は経っただろうか。

「夕涼みとは、ずいぶん風流だね」

 風流なものか。

 階段を上ってきた真に、体を起こしながら答える。

「何の用だ」

「別に」

 真は汚れを払うように、二、三度俺の背中をはたく。こちらはといえば、されるがままである。叩かれるたびに心臓が押し出されるように痛む。しまいには咳き込んでしまった。

「埃を吸い過ぎたね」

「……違う」

 安心、とは違うだろうか。真が現れたことに実は少し助かった、と思っていた。床は冷たかった。妙にそれが気持ちよくて、そのまま眠りに落ちそうだった。

 でもそれは夢になってしまうようで。さきほどの小沢さんとの会話を忘れてしまいそうで、なぜかとても怖く感じる。

「小沢さんと、話していた」

 独り言のように呟く。唐突な報告にどう反応するかと思ったが、さすがは真である。

「そうなんだ」

 表情を変えない。小鳥がはばたくのを見守るようである。

「彼女はもう帰ったのかい?」

「……ああ」

「残念だな。僕も話を聞きたかったよ。全校集会で絶叫した女生徒の話をね。あれにはさすがに驚いた」

 俺の肩に手を置いて、そのまま自身も座り込む。昨日の風景の再現である。

 まるで母親に不安を打ち明ける子どもだ。小さな掌に余って、両の手からも溢れだしてしまいそうな他人の想いを、誰でも良いから共に抱えてほしかった。

「小沢さんは、水泳大会を行ってほしいんだ。クラスメートと仲良くなれるチャンスだと考えているらしい」

「それは前向きだこと」

 冷たい母上である。

「それに……」

「それに?」

「彼女は特別になりたくないんだ」

「そうかい。ならあの行動はおかしいね」

「ああ、そうだな。でも――」

 もうひとつ咳き込んで、

「彼女は特別になってもいいと思っているんだ。あの子は正しさを、求めている」

「何を言ってるんだい?」

「ただ普通になりたいわけじゃない、ってことだ」

「は」

「自分が理解されて、それが結局受け入れられなくても、彼女はそれでいいと思っている。偽物の自分が特別になっている今が耐えられないんだと、そう言っていた。だからあの場で、自分の口で、みんなに向かって叫んだんだ」

 ほうっと溜息ともつかぬ息が漏れた。

「それが、正しさね。それであの咆哮か」

 少し間が空いて、笑いを含んだ声が弾んだ。もしかしたら嘲笑すらも。

「不器用な人だ。やっぱり小沢さんは変わっているね」

 返事はしなかった。その代わりに話題を変える。

「前言を撤回する」

「なにをだい」

「俺は小沢さんを理解などしていなかった」

 少し考えて首を傾げる。

「そんなこと言ってたっけ?」

 適当な奴である。しかし、はっきり断言したかといえば、記憶が怪しい。

「忘れた。言ってないかもしれない。でも心では思っていた。だが、それは違った」

「そうかい。そうだろうね」

 気に病むことはない。そう励ますような同調である。そしてまた脈絡なく言い出す。

「ミステリで言えば」

「ミステリ?」

「差し詰め彼女は中国人といったところだね」

「何言ってる。生粋の日本人だぞ。たぶん」

 真は鼻で笑う。

「知らないかい? ノックスの十戒さ」

 知らない。聞いたこともない。

「推理小説を書く上でのタブーだよ。そのひとつ。『中国人を登場させてはならない』」

 俺は好奇心が赴くまま訊いてみる。

「なぜ中国人なんだ」

「決して人種差別をしているわけではないよ。ものの例えさ。ときは二十世紀初頭。ヨーロッパの人たちにとって東洋の文化は未知のものだったんだよ。自分たちと価値観の全く異なる人間を登場させることはストーリーに混乱をきたすからね。それに読者に対してフェアでなくなる」

「小沢さんがそれだと?」

「まあね。僕がミステリ作家なら決して彼女を登場させはしないさ」

 ここは小説の中じゃない。現実だ。彼女をタブー扱いするなど言葉が過ぎる。

「何も知らないのに好き勝手言うなよ」

 苛立ちを抑えきれず怒気を込めて言う。

「何も知らないよ。初めから言っているだろう。本当の意味で、知ることなんてできない。だから知ろうとする必要もない」

 勝ち誇ったような表情だ。

「何も知らないから好き勝手言えるんじゃないか。人間は元来そういうものだろう。無責任なもんさ。でもとても自然だよ。それ故なのかな、強い力を持つ。個人の解釈が自由に許される領域だからね。なかなか手放せないよ。それとも――」

 そして、悪魔的笑み、である。

「君はやっぱり彼女を知っているとでもいうのかい」

 ぐうの音も出ないとはこのことか。

「話は振り出しだね。頭打ちとも言っていい。結局ね、無理なんだよ」

 でも、それは否定してしまうことになる。小沢さんを。あの熱い眼差しをくれた彼女のことを。人は理解される、という希を。

 そのとき、陽の当たらない神聖ともいえぬこの領域に、小さな火種が生まれた予感がした。

「どうも気に入らないよ」

 真が俺の顔を指差す。失礼である。

「君の眼は何かを考えている。目は口ほどになんとやらだね」

「そりゃ俺だって常に何かしら考えているさ」

 やれやれという感じで頭を掻き、嘆息する。

「小沢さんの考えを正当化しようと、ね」

「別にそんなことは――」

 言い終わる前に真が喋り出す。

「彼女の考えは所詮綺麗事だよ。そもそも《理解》とは肯定的な言葉なんだ。その人が否定された場合、理解なんてされていないんだよ」

「小沢さんは、そんなことどうでもいいんだろう。理解の定義なんてものは」

「ほお」

「自分を見てもらいたい。ただそれだけなんだ」

「背中がむず痒くなるようなことを言うねえ」

 気付けば激論である。

「見てもらって何になる。何が変わる。いいかい、何も変わらない。変わらないどころか、個人の勝手な解釈が加速度的に進むだけだ」

 俺たちが、二人がなぜ、こんなに熱く意見交換しているのだろうか。

「それが正しさ、だなんてちゃんちゃらおかしい。伝えたところで、叫んだところで、見えやしないんだ。誰も」

 と続けて真は口を噤んだ。合わせて俺も、天井を仰ぎ見て言葉を途切らせる。深い沈黙だった。少し冷静さを取り戻せただろうか。どうもいけない。机上の空論は終わりが見えない。

 ややあって、おちゃらけた具合を声に滲ませて真が言う。

「なんてね。僕たちが言い争ってもしょうがない」

 力が抜けた。いつのまにか肺に溜まっていた熱い息を吐くタイミングである。

「そうだな。止めよう」

 あっ、と声を上げて、真は立ち上がった。

「机の中に本を置き忘れてきてしまったよ」

「そうか」

「今日は本の返却日なんだ。まあ、また面白いことになったら教えてくれよ」

 行かなくちゃ、と階段を下り始めた。無論、図書館にである。重力を無視するようにふわりと駆け降りるとこちらを振り向く。

「そうそう、一つだけ聞いておこうかな」

 まだ何か言う気か。少しうんざりする。

「どうしてだい」

「なにがだよ」

「どうして、小沢さんを理解していなかったことに――」

 その見上げる表情をどう形容していいのだろうか。無表情とも哀れみともとれる。

「君自身がそんなにも落ち込んでいるんだい」

 ぐっと、再び体に力が入る。肺が焼けるように熱くなる。左腕の腕時計がズシリと重くなったように感じた。

 答えられなかった。答えられるはずなのに、答えられない。

 階下は別の世界のようだった。太陽が本日最後の力を振り絞って放った、目が眩むほどの光が差し込んで、こちらの世界から切り取られたようである。

 ――いや、逆であろう。こちらが切り離された側。文字通り闇に葬られた空間。不必要な、特別な、そう、場所である。

「ねえ、山田島」

 真は続ける。無慈悲な処刑執行人のように、首筋に見えない刃をあてがう。

「中国人は君の方なんじゃないのかい?」




※※※




 これは小沢さんへの懺悔ではない。自分を顧みる行為に他ならない。

 少し考えてみることにする。理解とは、なんなのかを。

 考えるのは、それほど嫌いではない。


短編も載せております。拙作では御座いますが、宜しければご清覧下さいませ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ