第二章 小さくなるストライド
昨年の秋に行われた合唱コンクール。小沢さんのクラスは入賞を果たせなかった。
彼女たちのクラスは朝も休み時間も、ときには放課後も遅くまで残って練習をしたのにも関わらず結果が出せなかった。大方の生徒は悔しがりながらも結果に納得をしていた。自分たちの努力が足りず、他のクラスがさらに努力をしていたのだと。素直に力不足を認め勝者を称賛した。
しかし、受け入れられない者もいた。私たちの努力不足ではない。私たちはどのクラスにも負けないほどに練習をした。ではなぜ勝てなかったのか。
――このクラスに真剣に練習に取り組んでいなかった生徒がいるからだ。
犯人探しは実に自然な流れだった。熱心な者が多く集まれば不真面目な者は淘汰される運命にある。逆もまた然りだ。
不真面目な生徒はすぐにあぶりだされた。疑われた生徒は歌声も小さく、最後まで音程をとることもままならなかった。練習中はいつも気怠そうで、笑顔どころか表情を変えることすら一度もない。明らかに熱心さがその生徒からは伝わらなかった。なにより、結果発表の際に顔色ひとつ変えなかった。これは決定的だった。
一部の生徒がそう言い始めれば、いつしかそれは事実のように語られた。一度は負けを認めた生徒も、他に敗因があったとなるとそれを疎まずにはいられなかった。本人もそれを感じとっていた。
あいつのせいで負けたんだ。あいつがもっと真面目にやってくれていたら。誰もはっきりとは口に出さなかったが、皆そう思っていたようだ。そんな雰囲気の中、ひとりの女生徒が諦めたように呟いた。
「しょうがないよ。あの人、変なんだもん」
溜息交じりのその言葉は、戦犯とされた生徒の耳に辛辣に響いた。
涙は出なかった。ただ悔しかった。苦手な歌だけど、あれほど一生懸命に練習をしたのに。か細い声も大きく張り上げたのに。入賞して皆と一緒に、普通に喜びを分かち合いたかっただけなのに。なぜ分かってくれないのか。悔しくて、悔しくて仕方なかった。
ただそのとき、疑惑の生徒は、――小沢さんは思った。
私はいま、悔しさを表せているのだろうか。
※※※
雨が降ってきたのは、俺たちには好都合だったと言えただろう。
全身びしょ濡れになった小沢さんの手を引いて近くの民家を訪ねたとき、説明を省くことができた。朱色のトタンが印象的な古い家。住んでいたのは人の良さそうなお婆さんで、俺たちを一目見るに「あらぁ」と口に手を当て呟くと、玄関に待たせ、奥に一度消えた。戻ってくるなり大きなバスタオルを俺たちに手渡してくれた。
「課外授業か何かかい? 災難だったね」
事態を勝手に察知してくれたのだろうか。お婆さんは気の毒そうに言ってくれた。俺は濡れた髪を拭きながら曖昧な笑いを浮かべる。
「おやおや。お嬢さんはこっちにおいで」
お婆さんは小沢さんを家に上げると、廊下の奥にある部屋に連れて行ってしまった。まさか彼女が湖に飛び込んだとは思うまい。逆に考えついたらそれはもうヤバい婆さんである。
古い木の香りが漂う玄関で待つこと数分間。お婆さんだけが戻ってきた。
「いま着替えさせているからね。あの子、下着までびしょびしょだったよ」
笑顔を浮かべる。深く刻まれた皺が目に入った。
下着までか。まあ入水したのだから当然だろう。しかし、まさかお婆さんの下着を借りるわけにもいかないはずだ。どうするつもりなのか。
「ドライヤーで乾かしているからね。覗いちゃだめだよ。あとであんたにも貸してあげるからちょっと待ってな」
そういうことか。それならなんとかなりそうだ。おニューの靴だけはどうにもならないだろうが。
俺は悪戯なお婆さんの笑顔に再び苦笑いで答える。
「あんたらは高校生? どこの高校かね」
首肯して高校名を伝えると、大袈裟な驚きを浮かべる。
「あらあ、賢いね。今日は何してたんだい。こんな何もないところで」
別に興味があるわけでもないだろう。恐らくこの場に沈黙が降りるのを嫌っているのだ。のべつに話しかけてくる。
「ゴミゼロです。それで急に雨が降ってきてしまって」
「ゴミゼロ?」
「あっ、えーと、地域のゴミ拾い活動です」
「そうかい。ゴミゼロっていうのかい。ハイカラだねえ」
一瞬怪訝そうな表情を見せたが、すぐに穏やかな笑顔を浮かべる。うっかりしていたが一般人にゴミゼロは通じない。気を付けねば。それにしても、ハイカラとはどう意味だろうか。
「急な雨だったねえ。しばらく止みそうにないみたいだよ。わたしも昼から畑に出ようと思っていたから、困ったね」
「はあ、そうですね」
こういうとき、もっと気の利いた会話できればといつも思う。いわゆる世間話というものはどうも苦手だ。
「どれ、車で学校まで送って行ってやろうかね」
「そんな、ご迷惑になってしまいます」
慌てて首を振る。さすがにそこまでしてもらうわけにはいけない。タオルだけでなくドライヤーまでを貸してもらうのだ。これ以上世話を掛けたら罰が当たりそうだ。
お婆さんは困ったように首を傾げる。
「でも、あんたたち傘も持っていないでしょう」
そうだった。これでは服を乾かす意味もなくなる。俺はしばし考え、恐る恐る訊いた。
「すみませんが傘だけ貸していただけませんか。必ず返しに来ます」
もちろん名前や電話番号を告げていくつもりだった。しかし、それを言う前にお婆さんはニッと笑う。そして温かみのある声で言った。
「あんたらがそれでいいならもちろんいいよ。それに傘は返さなくて良い。たくさん余ってるからね。うちの爺さんがどっかからいっぱい持ってくるんだよ。もらってくれるかい? その方が助かる」
それは気を遣った方便だったのかもしれない。しかし有り難い言葉だった。
「ありがとうございます。重ね重ねすいません」
頭を下げる。顔を上げたとき、奥の部屋から心細そうに顔だけ出してこちらを見ている小沢さんと目が合った。お婆さんも俺の視線に気付いて振り返った。
「あら、もういいのかい」
「あ、はい。なんとか応急処置は……、ありがとうございました」
小沢さんは顔だけ出したまま頭を下げた。お婆さんは早足で部屋に向かう。二人で部屋に引っ込むとヒソヒソ声が聞こえてきた。きっとこの会話は男子が聞いてはいけないものだろう。耳に力を入れ、声を遮ろうとする。効果があったとは思えないが、内容は一切分からなかった。
お婆さんが小沢さんを連れだって戻ってきた。
「お待ちどうだったね」
「いえ」
チラリと小沢さんを見ると、なんだか恥ずかしそうに目を合わせようとしない。
「あんたも奥の部屋で服を乾かしな」
「いえ、僕は大丈夫です。思ったほど濡れていませんでしたから」
お婆さんは「そうかい」とそれ以上勧めはしなかった。
「急にお邪魔してしまい、すいませんでした。本当に助かりました」
深々と頭を下げる。つられて小沢さんも頭を下げた。
「あ、ありがとうございました……」
目も合わせず小声でお礼を述べている。基本的にこの人は人見知りなのだろう。今となっては意外とは思わない。
お婆さんは笑顔を浮かべ、優しい声で言う。
「いいんだよ。困ったときはお互い様。じゃあほら、傘選らんでいきな。好きなのでいいよ」
指さした傘立てには、なるほど乱雑に十本は刺さっていた。
「傘?」
小沢さんは首を傾げる。
「傘を貸していただけることになったんだ」
「そうなの」
言われるがまま傘を品定めしようとしたところで、小沢さんはハッと顔を上げてお婆さんに会釈した。そうだ、お礼は大事である。
「気にしなくていいよ。オンボロの傘しかないけど、気に入ったの持っていきな。さっきも言ったけど傘は返さなくていいからね」
俺たちは傘を選ぶ。図らずとも二人とも透明のビニール傘を手に取った。俺としてはできるだけ古そうなものを選んだつもりだ。きっと小沢さんもそうだろう。好意に甘える者にとってのせめてもの心遣い。そのあたりはやはり彼女も心得ている。
「道中気をつけなさいな」
お婆さんは手を振って送り出してくれた。それぞれお礼を口にして後にする。
ところどころ黒く汚れたビニール傘が二つ、横に並ぶ。雨足はあれから少し弱くなったようだ。傘に当たる雨の音で無言はあまり気にならなかった。真っ直ぐ伸びた道を歩いて行く。
ただ一つ聞いておかなくてはいけないことがある。気になることがあるのだ。
「良い人だったな。あのお婆さん」
「ええ」
「服は大分乾いたのか?」
「……ええ、まあそれなりに」
彼女に合わせて短い歩幅でゆっくりと進む。そろそろ本題だ。返答次第では厄介なことになりかねない。顔は向けずに俺は言う。
「どうやって帰るんだ?」
「どうしましょ」
他人事のような回答に辟易とする。
お婆さんの送迎を断ってしまったのは失敗だったのかもしれない。図々しさを承知でお願いしておくべきだった。
彼女はさっき「全然知らない場所に来てしまった」と言っていた。そして湖に飛び込んだのだ。
「これもダメみたい」
彼女がポケットから白い物体を取り出した。文字通り《物体》である。それ以上に形容できないただの白い塊。そこには巡回している教師たちと学校の電話番号が書かれている、はずだった。俺は家に忘れて来ており、持っていない。
「だろうな」
手に取って広げてみるが、そのさきからボロボロと崩れていき、到底文字など判別できない。
気付かれないように小さく溜息を吐いた。そのままポケットに突っ込む。これで櫻井教諭に応援を頼む手段は断たれた。あとは公衆電話でも探し、タウンページで学校の電話番号を調べ、直接連絡するくらいか。あまりに大袈裟でやりたくはない。最後の手段としてとっておこう。
吐いた息を吸って、辟易の表情も整えて訊く。
「小沢さん、財布は持ってるか」
「財布?」
「ああ。小銭でもいい」
財布を持っているとしてもお札は濡れてしまっただろう。しかし小銭であればあるいは。
あっけらかんと彼女は答える。
「持ってない。だってお金は持って行ってはいけないって、昨日言われたから」
今度ははっきりと溜息をついてしまった。
彼女は俺の顔を覗きこもうとする。
「ごめんなさい。お金が必要だったかしら」
台詞のおかげで無表情も申し訳なさそうなものに見えてくる。俺はかぶりを振って少し声を明るくする。
「いや、小沢さんが謝る必要はないよ。俺も持っていないから」
小沢さんは安心したように顔を前に向けると、少し考えたような間を空けて、再び顔だけこちらに向ける。
「お腹が、空いたの?」
「違う」
あまりに的外れな言葉だったので、思わず笑い声が混ざってしまった。
「お金があればバスに乗れると思ったんだ。さっきバス停があったろ」
彼女は大きく口を開けて手を打った。申し訳ないがすごく間抜けに見えた。笑いが込み上げてくるのを我慢して顔を背ける。
「でもお金がなければしょうがない。違う手を考えよう」
吹き出しそうなものを押し込んで前を向く。雨はまた強くなってきたようだ。地面に落ちて跳ね返った雨粒が足に当たる。視界はぼやけて不安はさらに増す。
そこでふと気付いた。つい声も大きくなってしまう。
「小沢さん、携帯は!?」
ゆっくり首を傾げる。ええい、もう。
「湖に落ちただろう。壊れたんじゃないのか」
小沢さんは慌ててポケットをまさぐり、
「大丈夫。無事」
安堵のような、表情を浮かべる。
何度も言うが正しくは分からない。《安堵のような》と表現するのは飽くまで確率の高い状況的推理に過ぎない。
メタリックブラックのスマートフォンはどうやら機能を失ってないらしく、大事そうに彼女の両手に抱きしめられていた。
「消えなくてよかったわ。本当に」
データのことだろう。電話番号やアドレスのデータが消えたらいろいろと面倒だ。
無事であれば問題ない。では問題はひとつに絞られた。
「辰吉くんは? 携帯、濡れたでしょう」
「あ、ああ、俺は大丈夫だった」
ズボンの右ポケットをパンと叩いて見せる。小沢さんがお色直しをしている際に少しいじってみたのだ。問題はなかった。慌てて存命を確認した腕時計も休まず針を進めていて安心した。
両機とも防水機能が施されているらしい。こんな形で役に立つとは思いもしなかった。
しかし困った。考える頭に安らぎを与えるために、一度彼女に水を向けてみる。
「小沢さん、あれを使おう。体内のカーナビを」
小沢さんは一瞬にして固まると、おずおずと答える。
「あれは、ごめんなさい。ジョークです」
「知ってるよ」
今度は声を出して笑ってやった。こんな普通の会話をしていると、さきのことを思い出してしまう。強く握られた腕。痕も痛みも残ってはいないが、忘れられない言葉が刻まれた。雨音とともに響いたその声はこだまして消えそうもない。
――私は特別なんかじゃない。
なぜ彼女はあの言葉を選んだのだろうか。初対面の俺に弁解をする言葉としては適当とは思えない。するとあれは俺だけに向けてのものだと考えるのは、いささか安易な気がする。
確かに、俺は彼女のことを合唱コンクールのときに見かけている。そして印象を抱いた。だが、彼女はそのことを知らない。なにより俺は《知らない》と伝えた。俺たちは今日出会って、初めて互いに印象を抱いた。そういうことになっている。
いつの間にか二人の間にはまた無言が降りていた。ピチャピチャと足に纏わりつく雨を踏みしめながら、どこへと続くかも分からない道を歩く。雨音に誘われながら踊る人形のように、自然と足は進む。
だとすればあの言葉は、恐怖だ。そう思った。
あれは、この後の展開を予測して出た台詞。経験を元に張った予防線。彼女は予め恐れたのだ。今後、俺が深く抱いてしまうかもしれない印象を。
話は一度終わっている。再び蒸し返す必要はない。それでもポツリと言葉が出てしまったのは、俺自身が言わずにいられなかったからだろう。
「……さっきは、すまなかった」
「はい?」
咄嗟に顔を覗き込んでくるが、俺は素知らぬ顔をして何も言わない。
聞こえなかったのならそれでもいい。でももう一度謝っておかなければ自分自身を許せなかった。
「湖に落とされたこと?」
聞こえているんじゃないか。しかも上手いこと話を誘導されてしまった。
「違う。それに人聞きが悪いな。まるで俺が突き落としたみたいじゃないか。自分が勝手に落ちていったんだろ」
「そうね。蜂のせいだもの。気にしないで」
「気にしてたまるか。そっちじゃない。そのあとの、……特別がどうの、とかの方だ」
「ああ……」と呟き、少し声を落として彼女は続ける。
「……こちらこそごめんなさい。あれは私が勝手に暴走して、暴走機関車で……。あなたが謝る必要なんてないの」
暴走機関車ってなんだ。まあ、言ったら野暮になるだろう。
「そうかもしれんが」
二人とも前を向いて歩みを続ける。白い靄が立ちぼる。朧な風景はまるで心中を投影したかのようである。心のもやくやの原因は分かっている。
謝るのは間違いなくこちらなのだ。
俺は彼女に勝手なイメージを押しつけてはいなかっただろうか。さほど喋ったこともない人間を、勝手な想像で埋め合わせして、自分の中に小沢さんという人間を作り上げていたんじゃないのか。
事実、俺はあの日見た小沢さんを勝手に特別だと決めつけていた。今日もそれを信じて疑わなかった。
だがそれは間違いだった。本当は、彼女は緊張していたのだ。ジョークを言って場を和ませようとしていたのだ。蜂を恐れて錯乱していたのだ。湖に落ちて(断じて落としたわけではない)焦っていたのだ。
チラリと小沢さんを見やり、訊いた。
「そういう誤解が、良くあるのか」
少しの間が空く。言った後で飛躍した訊き方だと気付いたが、
「そうね。昔から、小さい頃から良くある」
落ち着いた声で小沢さんは話を続ける。
「私は人より少し感情表現が苦手らしいの。自分ではそうは思わないんだけど」
「少し?」
思わず出た言葉だ。誰も俺を責められまい。小沢さんは顔だけこちらに向き直す。
「少しではないと?」
「いや、どうだろうか。まだよく分からん」
誤魔化した訳でもない。一応本当のことだ。小沢さんは「そう」と言っただけで深くは追及してこなかった。
「でも、よく分かったわね」
「なにが?」
「日頃、私が周りから良く誤解を受けていること」
「分かるだろう」
道は突き当たり、なんとなく左に曲がる。
「さっき、あんな言い方をされたら」
あの言葉は俺に向けての言葉じゃない。いままで出会ってきて、今もなお自分を誤解して受け入れてくれない人たちへのものだ。分かるに決まっている。
「そっか」
妙に納得できたようで小沢さんは二度頷いて、
「そうだよね」
嬉しそうに言う。俺の希望的観測かもしれないけれど。
結構歩いたつもりだが景色に変化は見られない。畑と古い民家ばかりが続く。雨のせいかもしれないが人通りが全くない道路を進む。アスファルトの水溜りに踏み込んでしまい、何度かしたたかに水を飛ばしてしまったりした。
再び突き当りに差し掛かり今度は迷わず右に曲がる。脇にある電柱に貼られた蛍光反射幕、『学童多し注意』に見覚えがあるのだ。確証を持って進む俺に、彼女は不安そうに尋ねる。
「ホントにこっち?」
「ああ、なんとなく覚えている」
小沢さんは、ほうっと溜息をついた。
「すごい」
不安だった帰り道だが、何とかなりそうだ。思いの外覚えているものである。等身大の小沢さんに触れたおかげで頭がクリアになったからだろうか。それとも危機感を抱いた頭が記憶を無理に引っぱりだしてくれているのだろうか。
なんにせよ、時間をかければ知っている道に辿り着けるだろう。道のりは長くても構わない。むしろこの時間は長く続いてほしいとさえ思った。心なしかストライドはさらに小さくなる。
「小沢さん」
「はい」
「ひとつ決めておこう」
「なんでしょう」
「この先迷って意見が食い違ったら、じゃんけんで決めよう」
小沢さんは手を顎につける。頷いて、
「イエッサー」
弾んだ声が聞こえた気がした。もしかしたら俺だけじゃないのかもしれない。彼女もこの状況をやや楽しんでいる、いや、さすがにこれは希望的観測だろう。
そんなことを考えていると、
「辰吉くんって頭が良いでしょう」
不意な言葉に驚いた。慌てて首を振る。
「良くない! 中間試験は赤点が二つもあったぞ」
思わず大きくなった声を反省しつつ、さっきから不思議に思っていたことを訊いてみる。
「そういえば、なぜ俺を下の名前で呼ぶ」
「え? 名字でしょ。辰吉は」
逆に不思議そうに答えてくる。
「どこの世界にそんな名字の奴がいるんだ」
すると、彼女は軽やかに走り出し俺の前に立ちはだかった。傘の柄を斜めにして肩に掛け、悪戯っぽく俺を真正面で待ち受ける。
「いるのよ」
今日初めてちゃんと顔を見た気がする。口許が緩んでいる、様に見えた。
「伝説の世界のチャンピオンがね」
何の話か分からず、俺は思わず足を止めてしまっていた。彼女は踵を返し歩き出す。
「櫻井先生が辰吉って言ってたから、てっきりね。ごめんなさい。名字はなんだったっけ。確か変な名字だった気がするけど」
慌てて彼女の後を追って言う。
「山田島だ。失礼な。立派な名前なはずだ」
「そう。でも私は辰吉くんって呼ぶわ。その方がカッコイイもの」
「好きにしてくれ」
横に並んで靄のかかった道を歩く。ようやく住宅街が囲む場所に戻ってきた。レンガ塀に挟まれた路地に入り込む。首を巡らす。塀の向こう側には洋風な家が目に入った。特に見覚えはない。昼間にもかかわらず薄暗い。見知らぬ外国の地に迷い込んだようだ。
幻想的な雰囲気を感じたのは、彼女の落ち着いた声音が手伝ってのことだと思う。
「辰吉くんは賢いと思う」
「またそれか。道を少し覚えていたくらいで大袈裟だ」
「それだけじゃないわ」
俯いて雨を蹴りあげるように足を上げて言う。
「少なくとも今まで会った人の中では」
重ねた言葉は寂しげに聴こえた。目だけで彼女を見やる。やはり感情は読み取れない。
「そうか。そりゃどうも」
何を以って彼女がそう言うのか分からないが、何かあるのだろう。とりあえず話を合わせておく。
「でも、そんなあなたでも分からないでしょう」
一つ溜息を吐き、続けた。
「ただそこにいるだけで『怒ってるの?』と訊かれる辛さを」
「…………」
何を言い出すかと思えば。俺は黙るしかない。口を開けば笑ってしまう。
「ね、分からないでしょ」
念を押すな。
「……まあね」
なんとか平静を装い相槌を打つ。状況がありありと想像できる分、破壊力が強い。
「それで、訊かれてなんて答えるんだ」
「普通に。『怒っていない』と」
「それじゃダメだ。怒っている人はみなそう答える」
「では、正解の答えは」
「普通は、驚くんだ。いきなり覚えのない容疑をかけられたりしたら」
「驚いているわ。驚きながら言ってるのよ」
恐らく伝わっていないんだろうな。今と同じ、熱のこもっていない声で言われたとしたら当然だとも言える。
「さすがに曾祖父の出棺の際に親戚に言われた時は血の気が引いたわ。この瞬間に怒る人なんて常識的に考えて、いると思っているのかしら」
「その常識を覆してでも訊かざるを得なかったんだろうな」
「そういうことなのね。驚くわ」
まったく驚いて見えない。
緩い下り坂を歩いていると、車の音が轟いてくるのが分かった。下りきるとようやく覚えのある大通りに出た。これでもう心配はないだろう。結局小沢さんは俺の先導に物言いをつけることなかった。行きとはまるで立場が逆転してしまった。じゃんけんを交わすこともなくこの旅も終わりそうだ。
大通りを進む。一転して喧噪に包まれる。
車の往来がこれほど安心感をもたらすことを初めて知った。俺がホッと胸を撫で下ろしていることなど気付いていないのだろう。彼女は再び起伏のない声で語り出した。
「去年、合唱コンクールというものがあったでしょう」
安堵も束の間。ドキリとする。
俺は表情を読み取られないように頷いた。
学校に到着したのは二時を少し過ぎてのことだった。
小雨が降り続くグラウンドにはやはり誰もおらず、変わったことと言えば校内に入ったときに吹奏楽部の楽器の音色が聴こえてきたことだった。生徒のほとんどはもう帰宅しているようだが、部活動に所属している者はその限りではない。人の気配に安心した。
小沢さんを更衣室へ促し、俺は職員室へ報告に向かう。小沢さんは「えっえっ」と慌てた素振りを見せたが、報告ぐらいなら一人で十分だ。むしろ俺だけの方が、都合が良い。
職員室は良く冷房が効いており寒いぐらいであった。在室している教師はそれほど多くはなかった。数名だが生徒もいる。よって目当ての顔がいるかどうかはすぐに判断が付いた。
「櫻井先生」
背後から呼びかけると勢いよく振り向いた。
「おお、山田島!」
色黒の顔が驚きの表情へと変わる。
「帰って来たか。遅かったから心配したぞ」
「すいません。道に迷ってしまって」
「そうだったか。良かった良かった。無事で良かった」
そう言って表情が緩んでいく。手にしていた紙を隠すように折り曲げて、ポケットに入れたのが分かった。
やはりお咎めなし。予想通りである。
「ご迷惑をお掛けしました」
俺の謝罪になおも笑顔で、
「大丈夫だ。気にすんな」
そう言ってくれた。そのとき、ちょうど向かいのデスクで大きな怒鳴り声が聞こえた。
「あれほど言っただろう! なぜ財布を持っていた!」
見ると、ジャージ姿の女子生徒二名に対して中年の髪の薄い男性教諭が鬼の形相を浮かべている。デスクにはその生徒たちのものだろうか、財布が二つ置かれていた。
「今日の活動は遊びじゃないんだぞ! 授業の一環なんだ!」
女生徒たちは何も言えず縮こまっている。男性教諭の怒号は止まらない。デスクを叩いて怒りを露わにする。
「それをなんだ! カラオケだ? 駅前でお前たちが入店していくのを見たという者がいるんだぞ! どうなんだ!?」
彼女たちは何も答えない。俯いてジャージのズボンの裾を強く握っているだけだ。それはつまりイエスの意味であると取ったようだ。
「挙句終了時間にも遅刻をして! 先生方全員がお前らを探していたんだぞ! 迷惑をかけたという自覚があるのか! 馬鹿共が!」
とてつもない大きな声が室内に響いた。女生徒たちは肩を震わせている。もしかしたら泣いているのかもしれない。不穏な空気が漂い、ここにいる誰もが彼女らを注視していた。
「山田島」
しかし、櫻井教諭が俺の視線を戻させる。気付けば櫻井教諭も立ち上がっていた。
「もういいぞ。着替えて帰りなさい」
耳元でそう言って俺の肩を掴んだ。そのまま扉までやや強引に連れて行く。背後ではまだ男性教諭がなにやら叫んでいる。
「小沢はどうした」
職員室を出て、扉を閉めたのと同時に訊かれた。
「いま着替えていると思います」
「そうか」
ばつが悪そうに、曖昧な笑顔を浮かべている。ひとつ息を吐くと明るい声で言う。
「今日はもう帰りなさい」
肩をポンと叩かれた。
「分かりました」
俺は小さく返事をすると一礼し、踵を返した。
「あっ、山田島」
振り返ると櫻井教諭は右手を上げている。それを軽く振りながら、
「気をつけて帰れよ」
いつも通りの笑顔を浮かべていた。
俺は頭を下げ歩き出す。そして考えた。
櫻井教諭は良い人だ。彼がさっき咄嗟に隠した紙だが、チラリとだけ見えた。察するに、あれは巡回している教師たちの電話番号。
櫻井教諭はずっと探してくれていたんだ。集合時間から一時間半経っても戻らない俺と小沢さんを。良い人なのだ、櫻井教諭は。のこのこ戻ってきた俺を叱るどころか気遣ってくれた。しかし、それは優しさとは少し違う。まだ短い期間だが、あの人はいつもそうだった。いや、あの人だけではない。
考えはいつしか纏っていた。これは反芻である。
あの怒られていた彼女たちと俺とで何が違う。明らかな差異は、彼女たちがルールを破って財布を持参し、カラオケに行った疑惑があること。逆に共通していることは、一報も入れず集合時間に大幅に遅れたこと。そして周回中の全教師に迷惑をかけたことである。
大同小異ではないのか。そしてその結果はどうだ。彼女たちはありったけの罵声を浴びせられ、俺は無罪放免。これが一番大きな違い。
叱責される理由にそれほど差異は無い。では差異があるのは――、
「やあ、遅かったじゃない。どこかで道草でも食っていたのかい?」
ちょうど階段を上りかけたときだった。顔を上げると踊り場に見知った面があった。
「その顔はたっぷり絞られた顔だね」
反芻を途中にされ酷く気分が悪い。重ねて目の前にある、学生服に身を包んだ男の厭味ったらしい笑みに心底嫌気がさした。
「俺を待ち構えていたのか」
「なんだいその言い方は。折角待っていたのに」
「頼んだ覚えはない」
ぴしゃりと言い捨てると肩をすくめ、
「そりゃそうだ」
忌々しいやつである。
小柄な俺から見てもなお小柄で、中性的で幼い顔立ちは中学生と言っても疑念を抱かれることは無いだろう。名は体を表すというが、この「熊谷真」に関しては当てはまらない。こいつは熊どころか猫そのままである。いつも気まぐれに現れては、気まぐれに去っていく。人に媚を売ることはしないが、気付かぬうちにちゃっかり恩恵を受けている。なにより言葉の一つ一つが胡散臭い。
「遅刻したんだってね。一人でゴミゼロを周っていたのかい?」
横に並んで階段を上る。一拍置いて答える。
「いや、知らない女子と組まされた」
「へえ。それはそれは」
意地の悪い顔である。
「こんなに遅くなるわけだ」
「お前が考えているようなことは何もない。その代わりお前の予想もつかないことが起こった、とだけ言ってやる」
俺の優位性は保たれた。そう思ったのも束の間である。
「そうかい。山田島は僕の考えていることが分かるんだね。それは予想もつかなかったよ」
ああ忌々しい。
あからさまに嫌な顔をすると、真は気にする素振りもなく欠伸をした。
「ところで僕は傘を持っていないんだ。途中まで入れていってくれよ」
こいつはどこまでもマイペースなのだ。食えぬ奴とはこういうやつのことを言うのだろう。常に飄々としており、掴みどころがない。朦朧としていて見えぬ心の内では、人を小馬鹿にしていそうで憎たらしい。
ただこいつが俺に気兼ねをしない分、俺も気を遣わなくて済むのだ。これは案外気楽なもので、一年生の途中からクラスが変わった現在まで、なにかと行動を共にすることが多くなった。
「俺が傘を持っているとなぜ思う」
「簡単さ。濡れていないから」
「馬鹿を言え。濡れているぞ」
しっとり湿った右腕のラインを見せつける。しばし眺めると、
「いや、やっぱり僕の勝ちだよ。それは一度濡れたものが乾きかけたものだ。大方ゴミゼロの途中で傘を購入したんだろう? 悪い奴だね山田島は。財布の所持は禁じられていたじゃないか」
「断じて違う」
濡れ方でそんなことが分かるのだろうか。眉唾ものだが、とりあえず部分否定だけはしておく。階段を上りきって教室へと進む。なんとなしにポケットに突っ込んだら手に触れるものがあった。ああ、そういえばまだ持っていたんだった。しかしもう必要ないだろう。
「こらこら、ダメだよ」
真の声に制されて、伸ばしかけた手は止まった。
「なんだ。ゴミを捨てるだけだぞ」
小沢さんがお釈迦にした巡回教師陣の連絡網。もうお役御免と、都合よく廊下にあったゴミ箱に捨てようとしたのだ。
「だからそれがダメなんだって。それはゴミ箱じゃないだ」
正直意味が分からなかった。伸ばした手の先を見てみる。地面に直に置かれ、朱色に染められた直方体の段ボール。高さは三十センチほどだろうか。上の面は大きな口を描くように、長方形にくり抜かれている。今まさにその口にゴミを投げ入れようとしたのだ。
「ゴミ箱じゃないのか、これ」
真はやれやれといった感じで肩をすくめる。
「屈んでごらん」
言う通り腰を落としてみると、正面右下にサインペンか何かで書かれた小さな文字が目に入った。
「目安箱……?」
「らしいよ」
真は微塵の興味も感じさせない声で続ける。
「ご存知の通り、民意聴取のために設置されたものだよ」
もう一度、今度はまじまじと目安箱なるものを見る。
「役に立っているのかこれ。十中八九ゴミ箱だと勘違いするぞ。ゴミ箱が真っ赤ってのも言われりゃおかしいとは思うが」
それでも反射的に不要物を捨てそうになってしまう。こいつ自身もゴミを食べたそうな顔をしている。良心がものをいい、あげたくなる。その魅力がこの箱にはある。もちろん皮肉である。
「真っ赤ねえ」
真は曖昧に笑う。
「小学生の工作でも、もっと上手く作るだろうよ」
「……まあね。確かに貧相な出で立ちだとは思う」
でも、と続ける真は、どこか得意気だった。
「投函された意見書は必ず毎週月曜日に生徒会が目を通し、審議にかけられるらしい。今までもいくつかの意見が採用されているらしいよ。そういう意味では確かな影響力は持っているね」
ほうっ、と唸ってみるが正直どうでもいい。今の俺にとってはゴミ箱であってくれた方がよっぽど有り難かった。なんなら、目安箱に代えてゴミ箱を設置せよ、と投書しても良いくらいである。
「歴史も古いようだよ。今日のゴミゼロ活動なんかも、かつてこの目安箱に投書された意見がもとになって行われるようになったらしい」
全く余計なことをしてくれた奴がいたもんだ。幾ばくかの歳月が過ぎたいま、そいつは後輩たちがこんなに苦労しているということを知っているのか。
「危険な箱だな。まさにパンドラの箱だ」
「災いの詰まった箱だって? 山田島みたいな人にとってはそうかもね」
邪気のある笑顔を見ない振りをして歩を進める。途中、本物のゴミ箱に白い塊を投げ捨てる。廊下の一番奥にある我が教室が見えてくる。
「着替えるんだろう? 僕は帰り支度を済ませてくるよ」
返事をする間もなく、真は一つ手前の教室に飛び込んで行った。俺は自分の教室に入る。誰もいない教室。朝と同じ風景だが、一つ違うのはすでにどの机からも鞄がなくなっていることだ。みんな帰宅ないし、部活動に行ってしまったのだろう。
濡れているジャージを鞄にしまうのは気が引けたがしょうがない。思いの外下着は濡れていなかったため、学生服に袖を通すとすっきりとした気持ちになった。
教室を出ようと通学鞄を手にしたときだった。
「辰吉くん」
名前を呼ばれた。油断すれば聞き逃してしまいそうな小さな声である。視線は流れた。
開きっぱなしの扉から女生徒がこちらを見ている。さきほどまでのジャージ姿ではなく、学校指定のセーラー服を纏っている。
「小沢さんか」
ピタリとした制服に身を包んだ小沢さんを真正面から見て、さきとは違う印象を抱く。思わず息を呑んでしまった。
背が高く、少し長めの紺色のスカートから覗くスラリと伸びた脚は細くて長い。詳しくはないが、ファッション雑誌の中から飛び出してきたそれ、と言われても信じられそうなスタイルの良さだ。これが 初対面なら、綺麗な人だと素直に思えたに違いない。
「先生はどうだった? 怒られなかった?」
認めたくはないが、しばし俺は見とれていた。小沢さんの問いにほとんど不意を衝かれたようになってしまった。
「あっ、ああ。それは、問題ない。大丈夫だった」
「本当に? こんなに遅れてしまったのに」
言いながら教室に入ってきた。俺は一度持ちかけた鞄を下ろす。
「まあね。上手くやったよ。そういうことは得意なんだ」
俺の前まで来ると怪訝そうに首を傾げ、
「どうやったの?」
「企業秘密だ」
小沢さんは黙った。不服に思っただろうか。
「優秀な企業ね。有限会社山田島」
「やめてくれ」
宝島みたいである。
少し間が空いた。何かに迷っているような雰囲気が彼女から漂う。やがて決心がついたように訥々と喋り始める。
「そうね、この席を借りるわ」
誰に対して許可を取ったつもりだろうか。
言うと、俺の隣の席の椅子に腰かける。徐にポケットからメモ用紙とペンを取り出して机に置く。
「その優秀さを見込んで、少しお願いがあるの。聞いてくれるかしら」
聞く前から、嫌だ。とはさすがに言えまい。俺も椅子に腰かけ、
「なんだ」
努めて冷静に訊き返す。
「教えてほしいの。私はどうしたら良いのか」
「そんなもん分からん」
「早いわ。辰吉くん」
口を引き結んで下を向いてしまった。やれやれと言った感じで頭を掻く。
「何を、どうしたいんだ。初めから話してくれ」
小沢さんはパッと顔を上げ、急いでペンを手に取る。
「さっきも話したけれど、私は周りに誤解されやすいの。きっとそれは生来的かつ無意識的な私の行動や表現のせい。そこまでは分かっている」
俺は頷く。
「私は私を分かってもらいたい。ではどうすれば良い? 無意識的な振る舞いが災いの元であるならば、それを意識すれば是正できると言ってもいいはず」
まあ、言っていることは分かる。
「でも一人では無理。なぜなら、生来的な無意識は意識できない」
確かにその通り。ではつまり。確信を持って訊く。
「第三者の目が必要だと」
小沢さんはゆっくり頷く。
「それも、偏った目を持たない人が、ね」
「俺がそれだと?」
「ええ」
「買いかぶりすぎだ」
呆れて長い溜息を吐く。しかし小沢さんは食い下がる。
「あなたは他の人とは違うわ。私の言葉に耳を傾け、すぐに考えを改めてくれた」
他の人とは違う、か。
「それは小沢さんが、今までしっかり周りに訴えかけなかったからだろう」
小沢さんは目を閉じてかぶりを振る。それは諦めを覚えた行為に思えた。
「無関心な人に何を言っても無駄だった。彼らは信じたいものだけを信じている。その中に私の声は含まれていない。でもそれは私にも責任がある」
彼女のこの台詞には妙に納得してしまった。しかし、
「別に俺は小沢さんに関心があるわけじゃない」
「だからよ」
彼女の声は力強かった。溜まっていたものを思い切り吐き出すように。
「あなたは真実を見ようとする気骨があるように思ったの。主観に捕われず、常に客観性を持ち合わせて理解しようとしている。そして、自分の考えを改めることに抵抗がない。これは簡単そうでいて、とても難しいことよ」
一息に言いきると、
「だからあなたは賢い」
「その結論は飛躍だ」
小沢さんは真っ直ぐな目で俺を見据えている。だから俺は視線を外さずにはいられない。
「今回はたまたまだ。気骨なんて言葉、使われるような人間じゃない」
そうだ。たまたま。偶然。タイミング。俺は強い意思など持っていない。
「小沢さんのあの言葉が無かったら、他の奴らと相違なかっただろうよ。いいか、俺はそんな大層な奴じゃあない」
「分かったわ。あなたがそう言うなら、そういうことにしておきましょう」
「よろしく頼む」
「それで、教えてくれるかしら。私がどうしたら良いか」
奥歯を噛む。自然に眉間にしわが寄る。唇も噛みしめ過ぎて、今にも鉄の味がしそうである。
「話を聞いていたのか」
語気も強まるというものだ。
「もちろん」
あっけらかんとしている。ふざけているのか、それとも馬鹿にしているのか。両方なのか。
「私はあなたの言ったことを信じる。考えも改める。でもあなたに教えてほしい。それは変わらない」
言葉に詰まってしまった。なんというか、無茶苦茶だ。理屈が崩壊した熱っぽさがない言葉ほど、反応に困るものは無い。感情論ではない。だからこそ始末に困る。そんな感じである。
「気骨があるのは小沢さんの方だろ」
首を傾げて、
「それは無いと思うけれど」
「いいや。これだけは改めない」
ほんのり、本当にほんのりだが彼女の口許が緩んだ。
「そう。ではその件は保留ということで」
「保留かよ」
「もしくわ、そうね、じゃんけんでどうかしら」
拳を見つめ、握ったり広げたりしている。
「じゃんけんで決めるようなことじゃないだろ。保留でいい」
俺は椅子に深く座り直す。あまり長い話にはしたくないが、蔑ろにするのも気が引ける。両手で腿のあたりをパンと叩いた。仕切り直しである。
「本題に入ろう」
言うと同時に、小沢さんはペンを強く掴り直す。深々と頭を下げ、
「ありがとう」
あまりにも仰々しくてこちらは何も言えなかった。もしかして彼女は何かしらの名家の出なのではないか。雰囲気は纏っている。その手の素養が有りそうな気もする。気恥ずかしさを声に滲ませて話を進める。
「自分を分かってもらうには、だったな」
「そう」
背筋を伸ばし真剣な眼差しを向ける小沢さんを前に、ふむっ、と腕を組んで唸ってみる。飽くまで俺は第三者の代表。言うなればオブザーバーである。妙案を考え付く必要はなく、現在の問題点を彼女に伝えることが役目である。煎じ詰めれば、思ったことを言えばそれで良い。
「はっきり言っていいんだな」
「ええ」
彼女が頷いたのを見届けて喋り出す。
「じゃあ改めて指摘させてもらう。まず、根本の原因は表情の固定と、熱のこもっていない嘘っぽい喋り方のせいだ。小沢さんの気持ちは他者に伝わっていない」
「ぐう」
「今日グラウンドで出会った時、カーナビのイカしたジョークを飛ばしたとき、蜂に襲われたとき、湖面から出していたそれ、すべて今の表情と変わりがない。つまり感情が小沢さんに宿っているように思えない。まるでマシーンだよ」
「ぐうぬ」
「加えてその抑揚のない声。申し訳ないが亡者の心電図を模写しているかのようだよ。平坦なんだ、とっても。その中に熱心さが籠っているとすれば、この世の熱という言葉が全て蒸発して消えてしまう」
「ぐ……う……」
両手で胸を抑えて頭をガクッと下ろす。精神は絶命した。
ショックを受けているな。言い過ぎただろうか。いや、でもしょうがない。事実を語らないとこの議論に意味は無い。この場合、優しい嘘は一番の大罪となる。
右の肘をついて小沢さんをじっと見る。
「表情はもっと動かせないのか」
顔を上げて、心なしか俺に近づける。自信と抗議を声に滲ませた、気がした。
「動かしているつもりよ」
「抑揚のついた、感情のある喋り方はできないのか」
「よく分からない。普通に話している、としか言えない」
「聞いてくれ。喜怒哀楽というものが人間にはある」
「そんなこと知っているわ」
「いいか。これは冗談じゃないんだ」
「待って。メモするの忘れていたわ」
慌てて机に向き直り、彼女は手を動かす。
これは冗談じゃない。
「おいおい、そんなメモ必要ないだろ」
「一応」
ならば止めはしない。好きにしたまえ。俺は役目を果たそう。
「いいか。真剣にことに対処しないと大変なことになる」
再びペンを持つ手が動く。書き終わると、顔を上げた。
「大変なこととは」
「学校行事の度に責任は小沢さんにあるとされる。いくら小沢さんが熱心に取り組んでいたとしても、何か問題が起きればすべて事情聴取をする前に有罪となる。弁護士も検事も必要ない」
あと裁判官も。
小沢さんは黙り、目をしばたたいた。表情は変わらぬままだが、顔が青くなっていくのが分かった。
「そ、そんな。酷いわ」
「ああ、酷いな」
「来月の水泳大会も、合唱コンクールも体育祭も球技大会もサッカーハンドボール大会も、すべて私のせいになるの?」
「そうだ」
偉そうに頷いたものの、内心げんなりしていた。二年時にはそんなに行事があるのか。一年生ではその半分もなかった気がするが。
表情に出てしまっていただろうか、小沢さんが訝る。
「どうしたの?」
「いや、別に」
小沢さんのように上手くはいかない。俺は感情に素直なのだ。ふうっと息をひとつ吐いてから努めて無感情に続けた。
「とにかく、すべてが小沢さんのせいになる可能性がある。迫害を受けたユダヤ人のように、彼らはきっと不幸や不満の責任を小沢さんに押し付けてくる。だから観念して無意識をとりあえず自覚してくれ。それらが小沢さんの喜怒哀楽を覚えさせない生来的無意識な行動で、その結果だ。というか自分でも分かっているんだろう」
さきの帰り道。合唱コンクールの話を聞いた。冤罪を訴える中、小沢さんはひとつ仮説を立てていた。
「悔しさを表現できているのかどうか、疑問に思っていたじゃないか」
ゆっくり頷く。なんとなく不服そうではある。分かってはいても、認めたくないものがあるのはよく分かる。声にも力が入っていない。
「私は普通にしているのに」
普通、か。これほどまでに曖昧な言葉は無い。大多数が認めなければどんな正論も普通とはみなされない。逆にどれほど無理屈で理不尽でも世間が認知していれば、普通となりえる。異文化における風習などがまさにそれだ。そこには、正しさ、などの概念もない。あえてあるとすれば、既存のものを受け入れることであろうか。
小沢さんは小沢さんとして自分を体現しているだけだ。それが小沢さんで、それが彼女の普通なのだ。頭ごなしに異常と忠告されて理解できるわけも、特別だと指摘されて納得できるわけもない。受け入れてしまえば、それは自分を否定したことになる。
詰まるところ、これが全てなのだ。
消沈しているであろう小沢さんに声を掛ける。
「小沢さんは、悪くないよ」
小沢さんが言っていた通り、人は信じたいものを信じる。誰も心の深遠に踏み入ろうなどとは思わない。俺たちのようなちっぽけな存在に、その原理を覆すことなど土台無理な話。彼女には悪いが結論など端から分かっていた。
小沢さんは、はっと顔を上げる。
「メモ忘れてた」
途端に今までの自分の台詞が恥ずかしく思えてきた。
俺は今の台詞を掻き消すように、少し論点を脇道に逸らし構わず続ける。
「……大体前々から思っていたことではあるが、少しばかりこの学校は行事に尽力し過ぎじゃないか。合唱コンクールを経験してよく分かった。朝も昼休みも放課後も練習をさせられ、得られるものはなんだったのだろう。ほんの少しの喜びと引き換えに徒労や虚無感を大量に得ただけじゃないか」
あのときは周りの熱に当てられたが、思い返してみるとそう思えてくる。
「今日のゴミゼロだって、……びしょ濡れになってまでやることだったのかしら」
自分が言ったことまでもメモしているようだ。この人はメモの意味を分かっているのだ
ろうか。
まあ、初めから意味のないものだったわけだから気にする必要もない。
そして、ペンを走らせながら首を捻っているが、びしょ濡れになったのは自分のせいである。ゴミゼロに罪を着せてはいけない。
「その上、水泳大会だって。馬鹿馬鹿しい。またアホみたいに練習させられるに決まっている」
小沢さんも小さく呟く。
「放課後まで残ってやらされるかもしれない」
「おかしいだろう。行事なんて無理強いされるものじゃない」
小沢さんのペンの勢いは止まらない。俺はもう止めはしない。勢いだってないよりはマシなはずだ。
「水泳大会は中止すべきだ」
なぜ、というように小沢さんは首を傾げる。勢いを失ったペンは一旦小休憩に入る。
「さっきも言っただろう。クラス対抗の行事は小沢さんにはリスクが高い。加熱したエネルギーが暴走したら、彼らはもしかしたら――」
はっとして、再びペンを持つ。
「思うような結果にならなければ、危害を加える可能性がある」
書き終えるとペンを置いた。一息つくと、はたと顔を上げる。忘れていたものを思い出したように、正しい道に俺を引っぱりこむように、
「それで、私はどうしたらいいの」
視線で射すくめてくる。
自分を分かってもらうには、と文頭に付け加えてみれば考えるまでもない。無意識を自覚しても本質的なところ、何も変わらないのだ。結果と原因も分かっていても、対策を立てられないことなどたくさんある。オブザーバーはしかし、それでも事実を言わなければいけない。
俺は微笑を浮かべてしまう。その表情を小沢さんは理解してくれるだろうか。深奥な心根に分け入ってきてくれるだろうか。
「だからさっきも言ったろ」
分かっているのだ。そんなこと。
「それは、分からん」
無理な話なのだ。異文化の習わしに正解も理解も求めるべきではない。無意識を自覚してもそれで解決にはならないのだ。
彼女は何も言わなかった。悲壮や嘆息した表情を見せることもなく、少しの間目を伏せていた。そっとペンを胸ポケットにしまうと、色々と無駄なことを書き連ねたメモを折りたたんでポケットに入れ、ようやく小さく呟いた。
「そう」
文頭に、俺には、と付け加えるべきだったかもしれない。しかし、きっと大した違いは無かっただろう。
ただ語尾に、きっとどうしようもない、と付け加えるべきではないことだけは分かった。そんな辛辣な言葉、オブザーバーが言う必要はない。
小沢さんは懇切丁寧にお礼を言って教室を出ていった。その態度にどう応えていいか分からず、無言でそれを見送った。椅子に背を預ける。大きく息を吐いて目を閉じた。
偏った目を持たない、か。
「……それは間違いだよ」
気付けば呟いていた。すると被さるように声を掛けられた。
「何が間違いなんだい?」
目を開けると、いつの間にか目の前に真が立っていた。手に持っている鞄を肩にかけながら、お得意の意地の悪い微笑みを口元に浮かべた。そして再び訊いてくる。
「良い顔をしているね。ねえ、何が間違いなのさ」
俺は立ち上がり鞄を引っ掴む。
「なんでもない。行くぞ」
教室を出るとすぐに真は横に並んできた。軽やかに歩を進める真は口調も軽い。
「山田島が何を考えているかは知らないけど、大丈夫。さっきの答えは間違っていないよ」
前置きもなしに言ってくる。一度だけ真に目をやるが、すぐに前を向く。俺は諦念を滲ませて言う。
「聞いていたのか」
「いやあ。盗み見るつもりはなかったんだけどね」
申し訳なさなど微塵も感じられない。明るい声に嫌味ぐらいは言ってやらなくてはいけない。
「趣味の悪いやつめ」
「別にいいじゃないか。山田島が女の子と二人で親密に話をしていたんだ。興味も湧くってものだよ。それに、聞かれて困る話はしてなかったろう?」
真は階段をリズムに乗ってトトンと下りていく。手を頭の後ろで組んで踊り場で俺を待ち構える。
「確かにそうだが。どのあたりから聞いていた」
組んでいた手を外し顎に当てる。ややあって、白い歯を見せて言う。
「『聞いてくれ。喜怒哀楽というものが人間にはある』というところだね。そしたらあの女の子が『そんなこと知っているわ』と返していた」
「よくそんなにはっきりと覚えてるもんだ。それにしても長い間ご苦労だったな」
皮肉を混ぜてみたが効果は無いようだ。真はへらへらと笑いながら、
「面白い話は忘れない。みんなそうだろう? それに、自慢じゃないけど記憶力には自信があるんだ」
先の発言から会話の大筋を把握しているとは思ったが、どうやらほとんど聞かれていたようだ。なんとなく弱みを握られたような気分になる。
「それにしても面白いね」
こちらの心持ちなどお構いなしである。真は新しいおもちゃを買い与えられた子供の様な笑顔を見せる。俺は眉根を寄せて応える。
「彼女さ。小沢さんだっけ。変わり者はああでなくっちゃ」
「面白いやつだが、別に変わっちゃいない。俺に言わせればお前の方が変わっている」
「酷いね。彼女には負けるよ。それに、変わり者なんて学校に一人で十分だと思わないかい?」
「一人も必要ない」
「ごもっともで」
お決まりに肩をすくめる。
「お前は小沢さんを知っていたのか?」
「まあね。噂を聞く程度だけど。彼女は有名人だから、嫌でも耳に入ってくるのさ」
相槌をしないでいると真は続ける。
「あの人は何事にも興味がないんだってね。誰にも合わせることのないマイペースっぷりで、揉め事も多いと聞くよ」
下駄箱で靴に履きかえる。昇降口から見える外の風景は白く煙っていた。傘を手に取り、後ろでまだ靴を履きかえている真の方は見ずに言う。
「噂を信じすぎない方がいい。小沢さんはお前らが思っているような人じゃない」
「驚いたね。彼女の肩を持つなんて。ゴミゼロの間によほど仲良くなったのかな。それとも――」
「なんだ?」
振り返ると、珍しく苦笑う真が目に入った。
「なんでもないさ。お待たせ。さあ行こう。雨が強くなりそうだよ」
肩をポンと叩かれ、俺たちは外に出る。
雨は強さを増し、二人で一本の傘では防ぎようのないほどであった。真相手に気を遣う必要はない。俺はいつものように傘を差す。
「ちょ、ちょっと。僕も入れてくれよ」
「入りたければ入ってこい」
真はそそと肩を寄せてくる。なんとなく俺は体だけ少し横にずれる。結局半身は濡れてしまうことになりそうだ。
大通りで信号待ちをしているとき、はたと気付いた。
「そういえば、なんで俺と小沢さんが一緒にゴミゼロを周ったと知っていた」
真は涼しい顔で答える。
「なんでって、言ってたじゃないか。『今日のゴミゼロもこんなに濡れてまでやるようなことだったのかしら』的なことを。あれは一緒に周った者しか分からない共有情報だろ。まあ、蓋然的であるのは確かだけど。違うのかい?」
「いや、そうだが」
本当に記憶力が良いのだな。それだけではない。帰納的推理力と言うのか、こいつは本当に変わっている。
「でも良く分からないよ。なんで彼女は山田島に相談を持ちかけたんだい」
「俺にも分からんさ」
信号が青に変わり、俺たちは歩き出す。
「しかもなかなかヘビーな話のように思えたけれど」
「話に重力は働かない」
あまりさきほどの話をしたくなかった。あれは俺の話ではなく、小沢さんの話だからだ。しかしこいつを煙に巻くのは難しい。
真はへえ、と物珍しそうに俺を見ると、
「妙な言い回しをするじゃないか。ドク・ブラウン。よほどこの話をしたくないように見えるよ」
このようになる。結局、核心に迫られてしまうのだ。余計なはぐらかしは逆効果だ。
しかし、ドク・ブラウンとは誰だ。無知を醸す結果になるかもしれないので訊かないでおく。
諦めて簡潔に言う。
「彼女は、周りに抱かれている誤解を解きたいんだ」
「みたいだね」
チラリと見えた真の笑顔に続ける言葉が見つからない。代わりに、ではないが明るい声が耳元で響く。
「それは難しいことだよ」
俺の心中を察してくれたわけでもないだろうが、
「さっきも言ったろ。山田島の答えは間違ってない」
慰めるような台詞に少し心が軽くなる。雨の音に混じって真の声はやや小さく聞こえたが、良く聞こえる。不思議だった。
「他人に本当の自分を理解してもらう。こんなに難しいことは無いよ。各々が自分は普通だと思っているんだ。その自己基準に照らし合わせて他人を評価する。当然だけどこの世に自分とまったく同じ人間なんていやしない。結果ズレが生じる。誰が相手だってね」
俺は黙って頷く。群盲象を評す、と言うくらいである。
「自分が当たり前に思っていることでも、他人からするとそうでもない。そんなこといくらでもあるよ」
話を締めるように真は雨空を仰いで、大きく息を吐く。灰色の空の下である。空気も沈んで、会話も沈みがちになる。
「限られた狭い範囲で、篩にかけられたものが常識となる。その常識からのズレが大きければ大きいほどその人は世間から特別扱いされる。ときには排除しようとされさえするんだ。でも当の本人は理解できない。だってその人にとっては普通なんだから」
一息で言い切る。そして最後にいつも通りの悪戯な笑顔を浮かべた。
「よってどうしようもない。残念だけれど、本人の力の埒外さ」
満足気な真の横顔を見やる。
「証明終了だな」
「だね。QEDだ」
ニッと笑った顔に安心する。その後しばらく無言が続いた。嫌な無言ではない。お互いの心中が知れた不言である。
歩道にはあちこちに水たまりができ始めている。上手く避けながら歩を進める。交差点に差し掛かったところで真が口を開いた。
「ここまででいいよ」
「そうか」
答えるより早く、真は横断歩道を小走りで渡って行く。肩越しに振り返り、右手を上げる。
「サンキュー。助かったよ」
張り上げた声に俺も大声で返す。
「真!」
交差点を渡りきってしまった真は足を止めた。雨に濡れながら不思議そうにこちらを見ている。
「待っていてくれてありがとな」
一転、ニヤッとした笑顔を浮かべたのが見えた。
「なあに。僕が勝手に待っていたのさ。じゃあまた明日!」
くるりと反転。勢いよく走り去っていった。途端雨音が劈くように耳に響いた。なぜだろうか。去来する虚無感に心当たりなどなかった。
不思議だった。
雨は夜のうちに一度上がったようだ。しかし朝方から再び強く降り出し始め、通学の際には豪雨と呼べるほどになっていた。天気予報によれば五月最後の今日は、終日雨であるらしい。気は滅入る一方である。
本日は冬服の着納め。今朝は昨日に比べて随分と涼しい。寒いくらいである。明日から夏服になることに少しばかり不安を覚える。きっと晴れてくれれば問題ないのだろうけれど。
特筆すべきこともなく授業が終わり、下校時間となる。部活動にも所属していない俺はさっさと帰宅の準備をして教室を出た。雨は止んでいるだろうか。望み薄な希望を胸に、生徒たちのお喋りで喧噪な廊下を進む。そのとき、不意に後ろから声を掛けられた。
「もうお帰りかい」
振り向かずとも誰かは分かる。歩みを止めずに横を見やると小さな人影が飛び込んできた。
「悲しいね。この歳で家と学校の往復が全てとは」
「やかましい。勝手に決めるな」
真は肩をすくめると、何かを思いついたような表情をして言った。
「丁度いいや。山田島も付き合ってくれよ。家が目的地ならば、経由場所とでも言おうかな。僕がひとつ提案してあげるよ」
こいつの話し方はいちいち回りくどい。大袈裟に溜息を吐いて訊く。
「どこについて来いって?」
幼さが残る笑顔浮かべ、真は隣でビシッとどこかを指差す。
「二万冊の蔵書と八十席の閲覧室がある、我が高校の誇りある施設に、だよ」
なるほど。つまりは、
「図書館だな」
「ま、そういうこと」
特に断る理由もない。俺は誘いに乗ることにした。
うちの高校には図書室ではなく、図書館がある。珍しいことなのかどうか良く分からないが、以前中学時代の友人に話したところ非常に驚かれた。県立高校において、それほど一般的ではないということだけは分かった。
真と並んで廊下を進む。外に目を向けると強い雨が降り続いていた。あーあ、と心の中で呟いた。
「図書館になんの用なんだ」
上履きを下駄箱に戻している真に訊いてみる。運の悪いことに、こいつは自分の下駄箱が最上段にあるのだ。背丈が低いことが災いして、毎回目一杯の背伸びが必要らしい。
少しすると息苦しそうな声が返ってきた。
「なんの用って――。本を返しに行くだけさ」
悪戦苦闘の末に手にした靴を地面に投げ落とす。腰を折り曲げると目だけをこちらに向けた。
「山田島は読まないのかい。小説とか」
「小説か。あまり読まないな」
「なぜ?」
心底不思議そうな表情である。
「なぜって。じゃあ逆にお前はなぜ本を読むんだ」
ようやく靴を履き終えた真は立ち上がり、邪気のありそうな笑顔をする。
「ずばり、人生がただ一度であることへの抗議からだよ」
とりあえず、偉そうな態度が気に食わない。
「何言ってんだ。大丈夫かお前」
「こら。失礼な。これはある先生の素晴らしき名言なんだよ」
「ほう。何の教科の教師だ?」
馬鹿にしたように鼻で笑われてしまう。
「教師じゃない。小説家だ」
分かるわけない。皮肉を交えて答えてやる。
「お前の言葉じゃないのか。じゃあ意味がないな」
一拍空いて、いつにも増して明るい声が返ってきた。
「確かにね。そりゃそうだ」
調子の軽い普段の真のようにも思えたが、なんとなく違和感を覚えた。表情を覗いてみるが特段変わったところはない。逆に訝られるように、
「なんだい、ジロジロと。気持ちの悪い」
「いや別に。それじゃあ、行くか」
「だね。それにしても寒いね。もうすぐ六月なのに、関東はこんなものなのかい?」
「雨が降ればそれなりに寒いさ。前いたところもそうだったろう」
真は少し考えて、
「そうだったかもね。もう一年も前の話さ。忘れたよ」
「たった一年だろうが」
しかし、言われるまで俺も忘れていた。
真は去年の夏休み明けに転校してきたのだ。確か東海地方だったか、中部地方に住んでいたと聞いている。二つの違いもよく分からない。こいつ自身があまり以前の話をしないため、それ以上の詳しいことも知らない。きっと知る必要もないだろう。
並んで校舎を出た。図書館はもちろん学校の敷地内にあり、正門のすぐそばに位置している。ものの二分もかからず到着してしまった。
俺にとってはあまり馴染みのない施設である。
入り口でもたもたしていると、
「ほらほら、学生証を出して」
真に窘められてしまった。
入ってすぐに駅の改札のような機器が目に入る。これが入館ゲートなのだ。前を進む真に倣って、カードリーダーに学生証を読み取らせ入室する。これがスキャンというやつか。
よくよく考えれば図書館に入るのは二度目である。一度目は入学当初に行われた『図書館の使い方』というチュートリアル。それ以降は足を踏み入れることは無かった。我ながらもったいないことをしていた気がしてくる。スキャンに感動しているとはおめでたい。
「僕は本を返却してくるよ。適当に時間を潰していてくれ」
真は正面のカウンターに向かっていった。
さて困った。俺はどうしたものか。返却カウンターにはそれなりの列が出来上がっており、真はその最後尾についた。時間はかかりそうである。
とりあえずトイレに向かった。さして催してはいないが、意味なく用を足すこともある。
手持無沙汰の者なら尚更である。
ここで予想外に落胆した。トイレに期待をしていたわけではないが、大きな図書館に設置してあるそれが非常にみすぼらしかったのだ。校舎のトイレと変わらない。もちろん押しボタン式の小便器で、ハンドドライヤーもありはしない。しょうがなく、洗った手を振ってごまかした。男子のみ許される行為である。俺自身は許しているので良しとする。良し。
その後は適当にぶらつくことにした。さきほどの真の発言が頭に残っていたからだろうか、自然と小説のコーナーを探していた。
しかし、不慣れな身においてはそう上手くはいかない。どこに何が配架されているのか見当もつかないし、どう確認していいのかも良く分からない。フロアの見取り図でもあればいいのだが、見当たらなかった。熱心に探す気にもなれない。
すっかり目的を喪失し、無意味にうろうろしながら色々なところに目をやる。今日は雨だから生徒の数は多い方なのだろうか。そこらに設置してある大きな木製机はほぼ人で埋まっていた。それぞれ教科書や本を並べて、懸命に作業をしている。図書館の常連たちなのだろう。各々スペースを主張し、うまく領地を築き上げている。細かい攻防がありそうだ。
彼らのほとんどは、一本の棒になった傘をビニールに綺麗に包んで、傍に立てかけている。紙を扱う図書館では傘の取り扱いも厳しいに違いない。恐らくこれが雨の日の図書館の日常なのだろう。俺には新鮮に思えた。
書架の列を横目で見やりながら歩いて行く。どうやら本を吟味している生徒はほとんどいないようだ。学生にとって、図書館は自習室と同じようなものなのかもしれない。無人の書架通りをいくつも過ぎていく。あるエリアで足が止まった。
おや、人がいた。セーラー服に身を包んだ女子生徒。本棚を見上げ、熱心に目当てのものを探しているようだった。長い綺麗な髪は雨の日でも湿気を寄せ付けず真っ直ぐで、蛍光灯の下で夢のように輝いていた。眠たそうな眼も今は大きく見開いている。
「小沢さん」
気付いてしまった以上素通りするわけにもいくまい。話しかけてみた。
彼女は首だけこちらに向ける。ロボットのようである。
「あらまあ」
驚いているのだろうか。少し間があって、
「辰吉くん(株)」
「商号が変更しているな」
昨日まで有限会社だったはずである。
小沢さんは首を傾げる。床に置いてあった鞄を手に取りこちらに歩み寄ってきた。
「なぜこんなところに」
「ああ、友達に付き合って連れてこられた」
「友達、……いたの?」
「おい、失礼だぞ。いるよ。……少しは」
何か言いたげな小沢さんであったが、今度はこちらが訊く番である。
「そっちは? 何か探し物か」
一度目を逸らし、
「本を返却しに来たの。あとは、まあ……いえ別に。ただの暇潰しよ。うん、そう。暇潰し。それより雨ばかりね。今日はハンドタオルを持ち合わせていないの。まったく不都合なことだわ。ねえ。不都合、不都合よね」
白々しい。表情には出ないくせに分かりやすいところは分かりやすい。
小沢さんの横を抜け、今まで眺めていた書架を見上げる。追いかけてきた小沢さんは俺の袖を引っ張る。
「ちょっと辰吉くん。あなたなりのクロスカウンターを見つけましょう」
「なんだその話は」
ねえねえ、と肩を揺らして、あからさまに俺を遠ざけようとする彼女を邪険にして視線を巡らせる。クリーム色の背表紙の文庫本が並んでおり、その中になんとなく気になる題名を見つけた。思わず口を衝いてしまう。
「『空気を読むには』……」
「どうすればいいのかしらねえ」
訊かれてしまった。質問には答えず、顎に手を当てて思案している小沢さんに顔を向ける。
「自己啓発本をお探しだったのか?」
「いや、別に、そういうわけでは、……ないのだけれど」
元から小さい声がさらに小さくなっていく。なんだか見てはいけないものを見てしまったような気分だ。罪悪感が自分の中で生まれたのを感じた。
俺の気を知ってか知らずか、小沢さんはひとつ咳払いをして場を仕切り直す。
「たまたま目に入っただけよ。本当に」
「そうか」
「そろそろ行くわ。傘を置き忘れてきてしまったし」
「分かった」
「じゃあさようなら。また会うこともあるでしょう」
「どうかな。まあ、気をつけてな」
頑張れよ、とは言わなかった。なにか違う気がしたからだ。
俺が上げた右手に小沢さんも右手を上げて応えると、くるりと背を向けてこの場を去っていった。なんとなくその後ろ姿を眺めていた。彼女がいなくなったその後も、ぼうっと視線は彷徨う。すると視界に真が飛び込んできた。
「こんなところにいた。結構探したよ」
眉根を寄せている。と思ったら急に破顔し早口で言葉を継ぐ。
「そういえば、あの子がいたよ。昨日の」
「小沢さんか」
「そうその子。挨拶をしなくてもいいのかい。礼儀を欠いたらいけないよ」
上司と部下でもあるまいし。こいつは何を勘違いしているのだ。
「その小沢さんと今まで話をしていたんだよ。お前が来るほんの少し前までな。傘を忘れてきたからって行ってしまった」
てっきり「何の話をしていたんだい」と邪気のある笑顔を浮かべて訊いてくるかと思いきや、真剣な顔をして真は思わぬことを口にした。
「それはおかしいな」
予想外の言葉に反射的に返す。
「何がおかしい。何もおかしいもんか」
するとニッと笑い、俺の後ろを指差す。振り向くと大きな窓ガラスから誰もいないグラウンドが眺めやれた。窓を叩く雨は強さを増しているようだった。
「簡単な話さ。雨の日に傘を忘れてくる人はいないよ」
確かにそうだ。俺は真に向き直り、むきになって言い返す。
「でもそう言ってたんだ」
「へえ」
笑みを保ちつつ真は続けた。
「校舎から図書館に行くには一度屋外に出る必要がある。構造上、直接室内からの移動は不可能だからね。いくら小沢さんが変わり者だからと言っても、傘の使い時くらいわかるだろう」
悪意しかない物言いである。
「傘を持って来られなかった理由が何かあったのかもしれない。俺には思い付きはしないが」
我ながら苦しい理由付けとは思ったが、それほど思考を巡らす必要もないと思った。たかが小沢さんの傘の所在の検討である。
「違うね」
しかし真は力強く否定する。
「言ったろ。僕はさっき小沢さんを見ている。髪や肌が濡れたのならタオルで拭けば問題ない。でも衣服はそうはいかないよ。彼女の制服は濡れてなんかいなかった。濡れていたものが乾いた直後ってわけでもなさそうだった」
そういえばこいつは変な特技を持っていたんだった。変な奴は変なところにこだわるものである。真は、つまり、と切り出して話を一旦纏める。
「彼女は傘を持ってきている」
俺はうんざりした表情を隠さず、溜息を吐く。
「じゃあ、俺との会話を終わらせるための嘘だったんだな」
「それを言っちゃあおしまいだよ」
こちらとしてはおしまいでいい。
「山田島。何か思い当たることはないのかい?」
迫るような語気に一瞬ぐっと言葉に詰まった。
しょうがなく思い返してみる。
さっき、間違いなく小沢さんは傘を手に持っていなかった。そして真の言う通り制服が濡れている様子もなかった。結果、やはり彼女は傘を持ってきている。そしてそれを忘れたと言った。一体どういうことだ。
――そうか。室内を徘徊しているときに見た光景を思い出す。
真の目を見て言い切る。
「校舎に置いてきたんじゃない」
「ほう」
「図書館の入り口の傘立てに置いてあるんだ」
真は手を顎に当て不敵な笑みを浮かべた。どういう類の笑みか分からないが話を続ける。
「お前もそうしているように、傘は室内に持ち込むのが普通のようだな。実際、図書館の常連はみなそうしているんだろう?」
真の右手にある透明のビニールに入った傘を指差す。俺は何も考えずに傘立てに置いてきたのだ。俺の行動が間違いであるわけではない。しかし、常識が思いがけぬ形で生成されることはよくある。
少し間があって真は頷いた。
「なるほどね。確かに雨の日に図書館を利用するときは傘を持ち込むようにしているよ。ここの傘立ては校舎のそれと違って個別の置き場所がないからね」
校舎の傘立てはクラスごとに設置してある。名簿番号がふられており、自分専用の置き場があると言って良い。
「傘が盗まれるかもしれないから小沢さんは焦っていたんだね。普段持ち込んでいるものならば『忘れた』と形容したのも頷ける。持ち込むのを忘れたってわけだ。合点がいったよ」
そいつは良かった。このあまり意味のなさそうな会話にも終止符が打てる。
「良い推理だよ。まるでニッキイ・ウェルトみたいだ」
お褒めの言葉は聞かなかったことにする。
「しかし、盗まれるって、そんなことする奴はこの学校にいないだろう」
「どうだろうね。意識的、無意識的、どちらでも結果は同じさ。今日は利用者も多い。不慣れな人も交じっているだろう。ビニール傘なら見分けがつかなくて間違えられる可能性もある」
ああ、そうかい。俺は曖昧に頷く。
なんでもいいさ。たかが傘の在処にこれ以上思案したくはない。俺はそれ以上何も言わなかった。
※※※
これ以上雨が強くなる前に帰りたかったのだ。しかし真は新たに借りる本を探すと言い出した。渋面をしたまま後ろをついて行く。結局十五分後、奴は四冊もの文庫本の貸し出し手続きを終え、俺たちは図書館を後にした。傘立てに俺の傘がしっかり残っていたことに少しばかり安堵したものである。
心なしか雨はさらに勢いを増していた。正門を出たあたりで皮肉交じりに真に水を向ける。
「そんなに借りて一体いつ読むんだ」
少し考えて答える。
「主に授業中かな」
「呆れた奴だ……」
沈黙が降りる。線になって落ちてきた雨は、地面に跳ねて、白い煙のように再び空に立ち昇る。視界を奪うように靄になる。天は薄墨を塗ったように暗い。見慣れた街は灰色に染まっていた。
雨音に混ざって聞き取りづらい声が耳元で響いた。
「本当はね」
「ん?」
「余計なものがないからなんだよ」
「何の話だ」
ことさら元気よく、宣言するように言う。
「僕が本を読む理由さ」
「その話か」
「そう。落ち着くんだよ。とっても」
逆に余計なもの、というものが思いつかない。小説でないといけない理由が思い当たらない。
「字だけだろう? 小説はさ。黒い活字が並ぶだけだ」
そんなことか、と力が抜ける。確かにそういう意味では余計なものがない、
「まあな。モノクロな世界だ」
「そういう言い方は、好きじゃない」
雨の音は真の声を少しずつ呑み込んでいく。そして再びゼロになる。揚げ足を取ってみる。
「お前にとっては授業も余計なものか」
「そうは言ってないよ。それに授業を聞いていない訳ではない」
なんだそりゃ。聖徳太子じゃあるまいし。しかし、真が得意気にポケットから出したものを見てなんとなく予見はついた。
「携帯電話のボイスレコーダー、か」
「ご名答」
ニヤリと笑い、ボタンを押す。こもった男性の低い声が流れてきたので耳を澄ます。ただでさえ雨音の雑音が入るのだ。
ややあって、
「西田先生。世界史だ」
真が残念とばかりに正解を発表する。うちのクラスの担当ではない教師だ。端から分かるはずがなかった。
「いやはやこいつは本当に便利だよ。何度でも聴きかえせるのは大きい。少し音質が悪いのはご愛嬌だね。実際下手にノートを取るより効率的なのさ」
そうかもしれないが、教師たちは報われない。
「お前、授業はすべて読書に充てているのか」
流れ出る音を止めて真は弁解する。
「とんでもない。地歴公民の講義形式の授業のときだけさ。英語や数学は板書が重要になってくるからね。なにより問題を解かされるし、回答するよう当てられるじゃないか。まあ、僕はそうそう当てられやしないけどね」
猫型人間の真である。教師の目から隠れるくらい簡単にこなすのであろう。
「そもそも携帯の持ち込みは禁止だぞ」
昨日のゴミゼロは特別だっただけで、基本校内で携帯の所持は禁止されている。
「誰もそんな校則守っちゃいないだろう」
肩をすくめる真に何も言い返せなかった。実際その通りだからである。雨は明らかに強くなり肌寒い。明日から六月になる。
そろそろ梅雨の時期だ。夏はまだ遠すぎる。
日本の多くの地域で衣替えの時期は六月一日と十月一日と決まっているらしい。
慣習に倣って本日から我が校も夏服にチェンジである。学生服の男子生徒にとっては、見た目学ランを脱いだだけなので、特別大きく変わるわけではない。少し体が軽くなるくらいである。
喜ばしいことに六月の初日は晴天に恵まれた。まるで衣替えに合わせたかのように太陽は熱気を放ち始めた。逆に教室は夏服の白で彩られ、涼しさを覚えた。昨日まで冬服を着ていたせいでまだ慣れないが、そのうちこの光景が普通に思えてくるのだろう。そしてまた十月に違和感を覚えるのだ。
その日の昼休み、俺は雉撃ちを終え廊下を歩いていた。急に後ろからポンと肩を叩かれ振り向く。
「英和辞典を貸してくれないかい」
また熊谷真である。何を言ってやろうかと少し考えたが意地悪をしても仕方がない。
「教室のロッカーにある。取りに来い」
満面の笑みを浮かべると俺の横に並んで歩き出す。
我が教室、二年七組からトイレは一番離れたところにある。何の話をするわけでもなく歩いていると五組の教室から見知った顔が出てきた。
「あら」
「おお」
昨日の今日で再び出会ってしまった。
「元バンタム級チャンピオン」
「誰のことだそれは」
当たり前であるが小沢さんは夏服だった。ピンクのスカーフに、襟と袖は空色で、白のラインが入っている。黒い髪と白の制服がコントラストを成して印象的である。生地が薄くなった分小沢さんのスタイルの良さがより際立つ。スラリと伸びる白い足はこちらに向かってくる。
「今日はお友達と一緒なのね」
「……あ、ああ、まあね」
「言い淀むとは酷いね」
真が話に割り込んでくる。この二人は会わせてもいいのだろうか。何かしらの化学反応を起こして地球に悪影響が出ないだろうか。心配である。
「五組の小沢さんだよね。僕は六組の熊谷真だ」
真はいつも通り人畜無害を装った笑顔で小沢さんを迎え入れる。ややあって、
「なんだか胡散臭い人ね」
鋭い。顔色一つ変えず真の全てを見抜いた。概して自分に鈍感な人間ほど冷静に周りを見ているものなのである。
一方、真はやや眉をピクリと動かす。珍しい表情である。
「さすが小沢さんだね。噂通り。なかなかの御挨拶だよ」
「ごめんなさい。気を悪くさせたかしら」
「とんでもない。むしろ感心させられたよ」
「そう。照れるわ」
無表情と嘘臭い笑顔の対立。段々と気味が悪くなってきた。二人に割って入る。
「小沢さん。その後、どんな感じだ」
話題は何でも良かった。曖昧な問いかけで小沢さんに主導権を握らせる。小沢さんはゆっくりこちらに顔を向けると少し考えて、
「特に変わりはないわ」
相変わらず抑えのきいた声音はくぐもって続く。
「でも、辰吉くんに謝らなければいけないことがあるの」
「俺に?」
黙って頷く。
「なんだ。何かしたのか」
彼女は真をチラリと見やる。手をもじもじして、申し訳なさそうに答える。
「……あのメモ失くしちゃったの。ほら一昨日の」
再び真を横目で見る。やっと彼女の心中を察する。
「あ、ああ。……あのメモ」
「昨日の夜に、家に着いた時にはすでになかったの。たぶんどこかに落としちゃったんだと思うわ」
「そっか」
もちろん小沢さんはあの話を、ここにいる胡散臭い人間に聞かれていたことなど知らない。わざわざ教える必要もない。あんな身の上話を他の知らぬ者に聞かれるなど、恥部をさらすようなものだ。
「まあ、しょうがないだろう」
そもそもあのメモは無意味な代物だ。何の問題もない。
「ええ。でも辰吉くんには迷惑を掛けたから、報告はしておこうと思って」
「分かったよ。もう気にしないでくれ」
軽く手を挙げて了解の意を示す。すぐにニヤニヤと訳知り顔を匂わす真を連れてこの場を去ろうとする。こいつはきっと余計なことを話し出すに違いない。やはりこの二人は会わせてはいけなかった。
「またね。辰吉くん」
肩越しに頷くと足早に彼女から離れる。すぐに真の弾んだ声がした。
「失くしちゃったんだってさ。メモ」
性根の悪い奴だ。
「問題ない。大したメモじゃなかった」
「そうだろうね」
こいつを黙らせるには英和辞典を賄賂として贈るしかないだろう。
教室まであと少しである。
六月一日は木曜日であった。それから金曜日、土日の休日を挟んで月曜日になる。再び一週間が始まった。辟易の瞬間である。
月曜の放課後、昇降口で小沢さんを見かけた。彼女はいつも通りひとりで、重そうな瞼をしていた。こちらに気付く様子はなかったのでわざわざ話しかけることはしなかった。ふと、このまま俺たちの関係も希薄になっていくんだろうな、と漠然と思った。そもそも関係と呼べる関係も築いてはいなかったのだけれど。人と人との関わりというものの脆さと儚さをなんとなく感じとった瞬間だった。それはいわゆる哀しさだったのだろうか。
その刹那の後、小沢さんの姿は見えなくなっていた。
六月六日は晴天だった。夏は遠すぎると思ったけれどそうでもないのかもしれない。これで蝉でも鳴き始めれば立派に夏と言えるほどに暑い。毎年思うのだが、やはり地球の気候はおかしくなり始めているのだろうか。
夏服の風景にも慣れ始めた。普段通りに今日も流れていく。窓から差し込む日差しが弱くなってきた午後四時過ぎ。ホームルームが始まる時間である。
櫻井教諭が入室してきたのと同時に生徒たちの喧騒が止んだ。俺はなんとなしに外の風景に向けていた顔を櫻井教諭の方に移した。そのとき違和感を覚えた。いつも柔らかい表情を維持している教諭が思いつめた顔をしているように見えたのだ。
固く引き結んでいる口が解き放たれ、低い声が響いた。
「ええと、……皆に報告というか、連絡事項がある。心して聞いてくれ」
やっと違和感が輪郭を得て確信に変わる。
櫻井教諭が発する重苦しい雰囲気を感じ取り教室は静まり返る。《心して聞く》連絡事項。嫌な枕詞である。緊張感はすぐに最高潮に達した。
「実は先日とある投書が目安箱に入れられていた。昨日生徒会から報告を受けて確認をした。こちらも事態を重く受け止めている。とりあえず、今からその投書を読み上げる」
目安箱? なにそれ? 生徒の一部で囁く声が聞こえた。
その存在にピンとこない生徒もいるようだ。偶然にも俺は一週間前にそやつをゴミ箱と見紛えている。頭にはあの朱色の箱が鮮明に思い浮かぶ。
櫻井教諭は生徒の動揺もお構いなしに、ネクタイを揺らしワイシャツの胸ポケットから一枚の用紙を取り出した。ゆっくりと読み上げる。
「『これは冗談じゃない。真剣にことに対処しないと大変なことになる。』」
櫻井教諭の口から似合わぬ台詞が飛び出し、教室が無音になる。
よりゆっくりと続けられる。
「『大体前々から思っていたことではあるが、少しばかりこの学校は行事に尽力し過ぎじゃないか。合唱コンクールを経験してよく分かった。朝も……』」
一旦櫻井教諭は言葉を区切った。この先を読み上げることが憚れるのだろうか。息が詰まるような静寂が教室を包む。
無論、俺も息が詰まっていた。しかしそれは皆とは違う閉塞感。
嫌な予感が少しずつ、でも確かに組み立てられて、迫り来る恐怖を覚える。吸うのも吐くのも忘れ次の言葉を待っていた。思い切ったように櫻井教諭は継ぐ。
「『……昼休みも放課後も練習をさせられ、得られるものはなんだったのだろう。ほんの少しの喜びと引き換えに徒労や虚無感を大量に得ただけじゃないか。今日のゴミゼロだって雨でびしょ濡れになってまでやることだったのか。』」
再び間が空いた。それは刹那であったが、俺の理解が及ぶまでに十分なものだった。教壇の彼の口が開こうとしている。そうだ、これで終わりでない。終わりであるはずがない。
「『その上、水泳大会だって。馬鹿馬鹿しい。またアホみたいに練習させられるに決まっている。放課後まで残ってやらされるかもしれない。おかしいだろう。行事なんて無理強いされるものじゃない。水泳大会は中止すべきだ。思うような結果にならなければ……』」
明らかな言い淀みであった。クシャリと、紙を強く持ち直す音が静かな空間に微かに響く。櫻井教諭は続く言葉に抵抗を感じていた。そりゃそうだろう。確かその後に続く言葉は、
「『危害を加える可能性がある。』」
櫻井教諭の声と同時に俺の脳内では再生が行われた。
なんてことだ、これは。
「以上が投書の内容だ」
教諭の目がこちらを向く。黒く日焼けた顔もどこかいつもより白い。
「たちの悪い悪戯かもしれない。しかし悪戯にしては度が過ぎている。もちろん俺たちは早急に事態を収拾するつもりだ。こんな文章を書いた生徒にはそれなりの処罰も検討している。ショッキングな内容であったかもしれないが皆は何も心配しなくていい。ただ皆を疑っている訳ではないが、この件で何か知っている者がいれば何でもいい、後で知らせてくれ。ちょっとしたことでも、気になることでもなんでもいい。頼む」
音を失っていたクラスはざわめきを取り戻した。俺は何も耳に入らず、何も話すこともなくただ黙っていた。皆の声が遥か遠くに感じられる。
指を組んでそれを見つめるように俯く。背中に伝うもの。冷や汗というものを初めて掻いているかもしれない。
ちょっとしたこと、気になること、何か知っている者、だって?
知っているもなにも。
先生、犯人はあの女子生徒です。
短編も載せております。拙作では御座いますが、宜しければご清覧下さいませ。