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安楽椅子から立ち上がれ!!  作者: May Packman
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第一章 良く知らない人にはついて行ってはいけない

 思い返してみれば、去年も同じことをした。

 冬の間に忘れてしまった暑さを身に浴びながら、町中を歩き回り、ゴミを拾った。一体これは何の苦行なのかと強く疑問に思った覚えがある。しかし、高校に入学したばかりの身だ。不平を口にすることよりも、目の前にあるゴミを拾うことに熱心だった。殊勝な行いだったと今更ながらに思う。

 そして今年である。ゴールデンウィークも明けて、長期休みの余韻も霧散した五月三十日。高校二年生となって丸二カ月経った。本年度も例の学校行事が行われるらしい。

 ゴミゼロ運動。担任教諭が何度も口にしていたため、やっとこのゴミ拾い活動の正式名称を知ることができた。全校生徒が学区内に散らばり、ゴミを求めて彷徨うのだ。健全なのかそうでないのか良く分からない。

 想像するところ、五月三十日、五三〇、ゴミゼロ、ということなのだろう。しょうもないダジャレである。

 自治体が推奨している正式な活動なのか、当校の誰かの思い付きなのか、知る由もないが、とにもかくにもゴミを拾わなくてはいけないらしい。逃れる術は無い。

 なんのためにゴミを拾うのかは明確ではないが、訊いたところでお得意の『地域に根付いたボランティア活動』などとのたまわれるに違いない。こういうのは深く考えたらダメなのだ。世の中にはどうしようもないことはいくらでもある。

 希望は雨が降ることであった。雨天であればこの活動も中止。ゴミを拾う機会も消え失せる。心から雨を祈っていたが無駄だった。それどころか昨年よりも上天気に恵まれている。恵まれたため、恵まれなかった。ややこしい。

 衣替え間近の学生服を羽織って、家を出た。途端、頬を撫でた風は熱気を帯びており、もう春風と呼べないそれになっている。季節の移り変わりに少し寂しさを覚えた。

 通学路の途中の横断歩道で信号待ちをしている間、チラリと左手の腕時計を見やる。入学祝いに父親にもらったものである。茶色の革バンドに青の文字盤。少し良いものだと父は胸を張っていた。しきりに《クロノグラフ》という言葉を口にしていたが、当時何のことか分からなかった。美しく光を反射して、今日も灰色の針は動いている。

「んー」

 口の中で小さく唸ってみる。時刻は八時四十二分を指していた。完全に遅刻である。

 本日は半日の登校日。授業はなく、午前中で終了の予定である。すべてをゴミ拾い活動に充てられることになっている。八時半までに学校指定のジャージに着替えて、各自グラウンドに集合するようにと昨日ホームルームで通達された。

 しかし、しょうがない。寝坊したのだ。

 信号が青に変わり、少しだけ早足で渡りきる。もう間に合わないのは確実だが、のろのろと歩くのも気が引ける。そのまま早足で学校まで急ぐことにする。風に四季を感じている場合ではなかったのだ。

 校門に到着した。人の気配はしない。広々としたグラウンドにも誰もいなかった。腕時計を見ると八時五十三分。この二十分と少しの間に、みなゴミ拾いに旅立ってしまったのか。置いてけぼりを食らってどうしていいか分からない。ゴミは拾いたくないがひとりぼっちも嫌なのだ。

 なんともなしに、誰もいないグラウンドに足を踏み入れたとき、急に背後から声を掛けられた。

「おい。何をしているんだ」

 突然の胴間声に驚いて振り返ると、趣味の悪い紫のジャージに身を包んだ男性がいた。短髪で小柄。色黒で五十代くらいの男。見覚えはないがおそらく教師だろう。上から下まで俺を睨めつける。強面なことも手伝って、こちらは少し怯えてしまう。俺のことを不審者とでも思っているのだろうか。良く見なくても学ランを着ているのだ。怪しむことはないだろうに。

 ややあって、眉を寄せて凄むように訊いてくる。

「ゴミゼロはどうした」

 この学校の生徒と認められたことにとりあえず胸を撫で下ろす。

「遅刻しました。すいません」

 素直に言った。しかし、その男性は呆れたように溜息を吐き、

「遅刻か。お前何年何組だ。あと名前」

 不機嫌な口調でそう言いながら、ポケットから携帯電話を取り出した。折りたたみ式のそれを開いて、早くもボタンを連打している。効果音が大きい。

「二年七組です。山田島辰吉です」

 男の連打の指が止まる。

「やまだ、……なんだって?」

「やまだじま、です」

 なぜか怪訝な顔でまた俺を睨みつける。少しの沈黙が二人を包んだ。男は再び携帯画面に向き直る。

「やまだじま、たつのりだな」

「たつよしです」

 もうどうでも良くなったのか、俺の方を見もしなかった。顔を上げず、ボタンを叩き続けながら小さく呟いたのが聞こえた。

「ちっ、変な名前だな」

 失礼な。名前を悪く言われる覚えはない。立派な名前なはずだ。

 紫ジャージ男はやっとボタン殴打を止め、携帯を耳にあてた。大きな声で喋りはじめる。

「ああ、もしもし。私ですけどね。あのう、二年生の七組の、そうそう。遅刻のやつがね、グラウンドに一人いるんですわ。どうします? ああ名前はね、やまだ……たつひこっていう男子生徒でね」

 おいおい。もうわざとやっているのではないのか。通話先の相手が誰か知らないが、偽情報に惑わされないでほしい。

 男はそれからも大きな声で喋り続けると電話を切った。目だけをこちらに向ける。

「お前とりあえず着替えて来い。ゴミゼロできないだろ」

 冷たい口調にムッとするが遅刻しているのだから仕方あるまい。俺は小さく返事をした。

 そして今更ながら『ゴミゼロ』という響きにも苛立ちを覚えた。問答無用に猛威を振るえるほどお前に市民権はない。これはどこに怒りをぶつけていいのか分からないため我慢する。

 校舎内の雰囲気は異様だった。いつもは生徒で賑わっている朝の廊下にも誰もいない。外は日差しが強く暑かった。しかし、中は空気がひんやりとしている。これは人が発する熱気の分が差し引かれたからであろうか。

 教師陣も各地点で監督しているのだろう。校舎には人の気配がまるでなかった。

 階段を上り、どん詰まりにある教室に入る。机の上に学生服が置かれているのが目に入った。乱雑に脱ぎ捨てられたそれを見ると妙に物悲しくなる。さきほどまでここにクラスメイトたちがいたのだ。しかしもういない。ゴミゼロが何もかも奪ったのだ。忌まわしい。

 ジャージに着替える。袖に二本の白いラインが入ったブルーのジャージ。右胸に小さく学校名が書かれている。入学当初はまあ地味なものだと思ったが、学校指定ならこんなものだろう。

 携帯電話だけポケットに入れて教室を出る。再度グラウンドに出ると、さきほどの男性教諭の他にも人影が見えた。小走りで近寄る。

 増えた人影の一人が担任教諭であることが分かった。謝罪を含め報告する。

「着替えました。すいません」

「おお、やっぱり山田島か。やりやがったな、遅刻かよ。まあでも気にすんな」

 櫻井という担任教諭は明るく笑って答えた。まだ三十代前半くらいであろう背の高い男の教師。まだ夏も始まっていないというのに顔は黒く焼けている。担任になってからまだ日が浅いのであまり話したことは無いが、明朗快活で気の良さそうな人に思える。どうやら怒られることはなさそうだ。予想はできていた。

 とりあえず苦笑いでもう一度頭を下げておく。

「ヤマダタツヒコって誰かと本気で思ったぞ。七組にそんなやついないし、でも七組の生徒だって言うしな。どこかで伝言ゲームが失敗しとったんですかね」

 紫ジャージ男の方に顔を向けて笑っている。残念ながらその男以外は誰も伝達を間違っていないことを俺は知っている。先生、犯人はそいつです。

「さてと、じゃあどうしますかね」

 気まずさを払うためか否か、パープルマンが手を叩いて話題を変える。

「もう全員出発してしまったんですわ。この子たちにも早く行ってもらわないとイカンでしょ」

「うーん。そうですね。ちなみに山田島、お前は誰のグループだったか」

「井口くんと黒木くんと、あと米澤くんです」

 昨日ホームルームで決めたグループのメンバーを答える。席が近かったため自然にできたチームだ。

「あいつらか。そのうちの一人でも携帯の番号を知っているのか?」

 かぶりを振る。担任教諭は腕を組んで考える。

「悪いがあいつらがどこにいるのか、こちらも厳密に分からんのだ。北横長あたりを周っているとは思うんだが。合流させてやりたいが正直難しいと思う」

「そうですか」

 残念そうに答えてみるが、特に問題ない。即席チームはドライな関係を築いている。

「適当な生徒と組ませますか。周回の先生方に連絡を取って」

 青と赤の間色ジャージ男の提案に櫻井教諭は低く唸る。

「いいんですけどね。生徒をあまり待たせるわけにもいかないでしょう。それだと学校近辺を周っている三年生と組ませることになってしまうんですよね。それだとこいつらも可哀想だし」

 確かに顔も知らない上級生とゴミ拾いするのは嫌だ。気疲れしそうである。

「それならいっそ。二人いることだし――」

 気のせいだろうか。櫻井教諭が妙に意地の悪い笑顔をしたような気がした。

「二人で行ってきたらどうだ」

 言うと、ずっと黙って横にいた女子生徒の方を向く。

 嫌な予感はしていた。だから俺も彼女のことには触れないでいた。当の女生徒も俺たちの会話が聞こえていないかのように、冷えきった大きな瞳であさっての方向を見続けていた。その時点である程度意思疎通ができていたのかもしれない。

 照りつける太陽の影響下にないのかと思うぐらい白い肌。対照的に長い黒い髪。大きな瞳には光が宿っておらず、心なしか瞼も重そうに見える。いかにも物静かそうで、真面目そうな顔立ちだ。彼女が遅刻したとは思えない。何か理由があってここにいるのだろう。

 櫻井教諭の問いに、二人とも答えなかった。

 不意を衝かれたわけではなかった。ただ、俺が積極的な決定を下す場面ではないと思ったのだ。櫻井教諭は女生徒の顔を覗きこむように尋ねる。

「どうだ。小沢」

 必然的に決定権は女生徒に、小沢さんという名の女子にある。

 彼女は初めて俺たちの存在に気付いたようにこちらを向く。ややあって、

「はい」

 無感情な声が聴こえた。それが肯定の意味なのか、単なる返事であるのか解りかねる。なに

せ表情がまったく変わらないのだ。これはアンニュイ、と言って良いのだろうか。

その《アンニュイ》な表情が変わらない。こちらの話が通じているのかすら怪しい。

「担当地区はどちらですか」

 続いたのは淡々とした声だった。なるほどあれは肯定だったか。それにしてもあっさりと決断するものだ。彼女にとって誰とゴミを拾おうが、どうでもいいことなのかもしれない。

「よし。じゃあ末永町あたりをお願いしよう。山田島。頼んだぞ」

 頼まれてしまった。

 一件が丸く収まり櫻井教諭は満足そうである。俺にとっては思いがけないことになってしまった。決して良い結果ではない。だが遅刻者の分際で不平を言う訳にもいかない。彼女にも失礼に当たる。

「分かりました」

 できるだけ元気よく返事をする。そして小沢さんの方に向き、会釈しながら言う。

「よろしく」

 彼女は少し間を置いて、

「よろしく」

 冷たい瞳を向けながら言い返す。抑揚のない声だ。感情が介在する余地がないほどに平坦で歪みのない真っ白な四文字。不安になった。

「気をつけて行って来い。二人とも携帯は持ってるか?」

 ほぼ同時に俺たちは頷く。

「なら安心だ。なにかあったらすぐに電話しろ。昨日渡したプリントに先生方の携帯番号が載っているから。イタズラ電話すんなよ」

 そこで俺はハッとした。

「あっ、プリント……忘れてきてしまいました」

「ん、教室にか?」

「いえ、家に……」

 俺と櫻井教諭が顔を見合わせたのも一瞬。小沢さんが口を開いた。

「問題ないです」

 みな一斉に小沢さんを見る。口以外はやはり動いておらず、

「私が持っています」

 大きな目は俺の方に向く。

「だから大丈夫」

「みたい……です。先生」

 櫻井教諭は大きく頷いた。

「よし、じゃあ行って来い。十二時半には戻ってくるんだぞ」

 首肯する。チラリと女生徒の方を見ると、小さく「はい」と返事をしたようだ。

 すると櫻井教諭は俺の方を一度見ると視線を戻す。

「二人でどっかに遊びに行かないようにな」

 言い終わると声を出して笑い出した。紫ジョージの教諭もつられて大きな声で笑っている。正直その冗談はキツイ。この後俺たちは本当に二人きりになるのだ。気まずい空気は御免である。

 なぜ笑っているのか、理解できていない感じで小沢さんは表情を変えず黙っていた。

まあ、変にかしこまれるよりはいいか。気まずい空気というものも、お互いが意識しなければ成立しない。どうやら俺が気にしなければ問題なさそうである。

 笑いの渦を断ち切るように少し大きな声で言う。

「じゃあ、行ってきます」

 これ以上からかわれるのも面倒だ。それなら大人しくゴミ拾いをしていた方が楽である。歩き出した俺の背中に、ちょっと待て、と紫の男が声を掛ける。振り返るとジャージのポケットを漁っていた。

「これ持って行け。あと虫には気をつけろ。今の季節、蜂とかいるからな」

 軍手とゴミ袋を俺と小沢さんにそれぞれ手渡してくれた。確かにこれがないとゴミ拾いなどできない。

「ありがとうございます。じゃあ」

 言いながら小沢さんを目で促す。それは伝わったようで、彼女の真っ白なスニーカーが前に動いた。

 俺たちは並んでゆっくりと歩き出した。なんとなく不安なゴミゼロ運動が始まる。そう思うだけで足取りはもう重くなった。

 背後で櫻井教諭と紫ジャージの教諭の話声が聞こえた。

「なんとか今年も無事に終わりそうですな、櫻井先生」

「ええ。良かったですよ。これも柿沼さんのおかげです。毎年すいません」

「いやいや、気にせんでください。私も好きでやってるだけですから」

「本当に大助かりですよ。来年もお願いできますかね」

「もちろん。構わんですよ。ただの近所のおっさんで良ければいくらでもお力添えします。がはははは」

 訂正。櫻井教諭と近所の世話好きのおっさんの話であった。

 



※※※




 末永町は決して遠くはない。栗山市のちょうど中央に位置しているこの高校から歩いても十五分ほどだ。遅刻をしたことへの考慮もあっての赴任なのだろう。遠くに行くには時間が少ない。

 小学生のころ、末永町の駅前の学習塾に通っていたことがある。市の北北東にあるこの町は駅前こそ賑わっているが、中心部を離れれば住宅街や自然豊かな落ち着いた景観が広がっていたように思う。

 俺たちの担当はこの末永町ということだが、ゴミゼロ運動において活動範囲はとても曖昧だ。どこまでゴミ拾いの足を延ばすかはまだ分からない。なんにせよ、そこまで不慣れな土地ではない。それだけでも十分な安心材料ではある。

 末永町の中心部に近づくにつれて、臙脂色のジャージを多く目にするようになってきた。同じく袖に白のライン。うちの高校の一年生である。どうやらこの辺りは一年生の担当地区らしい。去年の俺と同じように、熱心にゴミ拾いをしている生徒たちばかりであった。

 と思ったらそうでもないようだ。ファーストフードの店を横切ったとき、店内に臙脂色のジャージが見えた。女子四人組が楽しそうに笑いあっている。彼女たちにとって今日は遠足と同じようなものなのだろう。ゴミゼロも人によって色々なのだ。

 ルールを破ってまで娯楽に走るほど彼女たちは自由に飢えているのだろうか。いや、江戸町民でない限りそんなはずはない。おそらく俺には理解できない思考回路をしているのだろう。別にどうでも良いが。

 それに比べて俺たちは真面目であった。

 私語も一切せずゴミを拾い続けた。と言っても最初に一度だけ会話はしたのだ。

「今日は遅刻したの?」

「そう」

 自分で聞いておいて、遅刻かよと思ってしまった。真面目そうに見えて結局は同じ穴のむじなだったのだ。

 それきり会話は無い。彼女が前を歩き、少し離れて俺がついていく。自然とそうなっていた。ただこの位置関係を続けている限り、行く手にあるゴミはすべて、前を陣取る彼女に拾われてしまう。俺はそれを確認するだけの役立たずといって間違いない。やりがいは皆無である。軍手は役目を与えられず、ポケットの中に収められている。

 ただひとつ。彼女の綺麗な黒い髪が揺れるのを後ろから見ながら、少し思い出したことがある。

 去年の秋頃だった。学校行事として開催された合唱コンクール。どうやらこの学校は行事に力を入れることが習わしになっているらしく、呆れるほどに練習をさせられた。次第に生徒たち自身も熱を持ち始め、優勝を目指し一致団結するようになった。恥ずかしながら俺もその雰囲気に当てられ、必死にテノールパートの練習に励んだ。どのクラスもそうだったように思う。その時期、合唱祭は生徒たちのすべてになっていた。

 結果俺たちのクラスは二位に入賞した。みんな素直に喜んだ。逆に入賞を逃したクラスの生徒は落胆を隠さなかった。悔しさに顔を歪める者もいたし、泣いている者もいた。そんな中で、隣のクラスに顔色一つ変えず前を向いている長い黒髪の女生徒がいた。

 彼女のクラスは入賞を逃していた。すぐ隣の生徒は俯いて涙を拭っているにもかかわらず、どこ吹く風だった。

 そのとき思った。彼女にとって合唱コンクールなど、どうでも良かったのだろう。喜怒哀楽が入り混じる異様な雰囲気の中で彼女だけが普通だった。しかし、それが逆に彼女の特別さを際立たせた。彼女を見た覚えがあるのはそれきりだった。だから今日初めて知った。

 あの特別な女生徒の名前は、小沢というのだと。

 あの日のことは妙に印象的で強く心に刻まれており、今日長い黒髪を再び目にしたときは少しばかり驚いたものだ。そして二人でゴミ拾いをしている。人生何があるか分からない。

 駅前を通り過ぎて、住宅街に入る。見回してみるがうちの生徒はこの辺りにまで来ていないようだった。丁字路を曲がり、路地に入る。小沢さんは電柱の傍に落ちていたペットボトルを拾った。俺はそれを見ていた。

 この辺りに来るのは初めてだ。土地勘が効かない場所である。来たのはいいが帰れるのか心配だ。

 しかし小沢さんの足は止まらない。見通しの良い狭い路地をぐんぐん進んでいく。再びペットボトルを拾い袋に収める。俺はそれを眺めている。そしてまた歩き出す。淀むことのない一連の流れにふと思う。

 彼女はこの辺りに詳しいのではないか。もしかしたら自宅がこの町にあるのかもしれない。迷いがなさすぎる。こんな入り組んだ住宅街で足を止めることなく進めるとしたら、それは予め地理を把握している者だけだ。

「この辺、よく来るの?」

 後ろから声を掛けた。彼女はゆっくりと振り返る。

「いいえ」

 久々に交わした会話はとても味気なかった。こちらとしても意を決して話かけたのだ。このまま引き下がるとなんとなく損をした気になる。

「そうなの。どんどん進んで行くから詳しいのかと思ったよ」

 小沢さんは少し黙って俺を見つめていた。そしてまた感情のない声で言う。

「埋め込んであるから。カーナビシステムを。体内に」

 なにそれ。怖い。

 口には出さなかったが顔には出ていたのかもしれない。二人の間に沈黙が降りる。

 俺が何も言わないと分かると小沢さんは前に向き直り、また歩き出した。しかし二、三歩進むと立ち止まり。また振り返る。

「最新のやつだから」

 なんの話をしているんだ。今度はつい口に出してしまっていた。小沢さんはやはり表情ひとつ変えず俺を見ている。見られても困る。少しすると、

「行きましょう」

 前を向いて歩きだしてしまった。いったいなんなのだ。

変わっている人だとは予想していたがここまでとは思わなかった。想像の遥か上をいく摩訶不思議さだ。正直、あまり関わらない方が良いのかもしれない。きっと彼女も俺には理解できない思考回路の持ち主なのだ。

 不可侵を心に決めて後ろを静かについて行く。見知らぬ密集市街地に置き去りにされても困るので、行動を共にすることは必須である。しかしできるだけ距離を取る。相手の許可を得た尾行である。

 小沢さんの足は止まらなかった。まるでインプットされているかのように進み、ゴミを拾う。いつの間にか住宅街を抜けていた。古い民家がちらほらと点在し、田畑が多く目につくようになってくる。いよいよ自分がどこにいるのか分からない。末永町をある程度知っているつもりではあったが、さすがにこんな僻地に用があったことはない。学校の生徒どころか住民の姿さえ見えない。小沢さんはいったいどこに行くつもりなのか。

 車通りが全くない道路を進む。そのとき俺は見つけた。バス停である。薄汚れて錆が浮いている丸い看板に『末永湖』と書いてある。ホッと胸撫で下ろす。良かったバスは走っている。最悪の場合、バスに乗れば帰れるはずだ。

 安心は、しかし、一瞬で絶望に変わる。

 俺は財布を持っていない。

 なんて馬鹿なんだ。いや違う、まさかこんな展開になるなんて露ほども思っていなかったのだ。ゴミを拾い、学校に戻る。これがゴミゼロ運動の全てだと高を括っていた。しかし、誰がゴミゼロ運動の最後をバスにて脱出、で締めくくる予想ができるだろうか。

 小沢さんの後を追いながら項垂れる。完全に俺は小沢さんの檻の中にいる。

 小学生のころに習ったことだが、忘れていた。良く知らない人にはついて行ってはいけないのだ。

 ビニールハウスが並ぶ畑に突き当たり、左に曲がる。曲がってすぐ、道路の脇に汚れた雑誌が落ちていた。雨風にさらされてボロボロになった古雑誌。小沢さんは一瞬顔を向けたが拾わなかった。俺はそれを見ていた。

 真っ直ぐ伸びた道路を進んで行く。と思いきや、小沢さんは急にふらふらと脇道に逸れていく。駐車場だろうか、砂利が敷き詰められた広々とした敷地に入っていくではないか。

「ちょっと!」

 さすがに声を掛けた。民家の駐車場かどうかは分からないが、私有地の可能性がある。

「どこ行くの」

 黙って尾行を続けてきたが、口を挟むときは挟むのだ。良い監視役と言える。

 小沢さんは砂利に一歩足を踏み入れると立ち止まり、振り返らずに右手を上げた。どうやら何かを指差しているようだ。でも何をかは分からない。

 俺が何も言わないでいると、やっと顔だけをこちらに向けた。指を差したまま言う。

「湖」

 ミズウミ? 一瞬何のことか分からなかった。しかし、さきほどのバス停の看板を思い出す。

「末永湖?」

 小沢さんは頷いた。説明義務を終えたつもりであろうか、前に向き直り歩き出す。

「小沢さん。こらこら、ちょっと」

 俺は慌てた。湖がどうした。湖がそこにあるとして、なんなのだ。そこが君の家だと言うのなら迷わず向かうのも納得できる。河童じゃないのだからそれはないだろう。あ、河童は川の生き物だったか。

 急いで後を追う。すると確かに、景色を覆い隠すように茂っている木々の間から湖らしきものが見えた。これが末永湖なのだろうか。小沢さんは林の中を分け入って行くため、俺も続いていく。水際まで辿り着くとやっと立ち止まった。彼女の横に並び、壮観な湖を望む。

 穏やかな湖面は青々としているよりは少し黒色が濃かった。それでも周りの森林とのコントラストで美しく見えた。

 底が深いのかと思った。しかしよく見ると、割に透明度は高く、それほど水位がないことが分かった。色が濃く見えたのは、雲が空を厚く覆っているからである。さきほどまであれほど晴れていたのに。灰色が混じり出した空を仰いで不安になる。

 天気の行方を憂いでいると、小沢さんが口を開いた。

「水力発電のために造った人造湖。歴史はそんなに古くない。末永湖は黒沢ダムのダム湖で、下流にある浦部ダムの幕井湖との間で水をやりとりして発電する揚水発電を公営電気事業としては唯一実施している、らしい」

 急になんだ。なにペディアだ。いきなり説明を始められても頭に入ってこない。

 小沢さんが目だけこちらに向けた気がした。俺が顔を向けると目を逸らした。俺の反応が薄い、と不満なのだろうか。表情からは読み取れない。朝から固定されているので。

「むう」

 急に小沢さんが唸った。

 俺に背を向けて歩き出す。もう勘弁してくれ。大人しくしていなさい。

「ど、どこ行くの!?」

 彼女は水際に沿って右手に進んで行く。歩きながら振り返る。

「ゴミがある」

 肩越しにそう言って歩き続ける。確かに彼女が進んでいる少し先にペットボトルの容器が落ちているのが見えた。

「危ないよ。もういいだろ」

 不安全なことに湖の周りに柵はない。俺たちが立っている土手は盛り上がっており、水面からは距離がある。しかし、土は割と湿っており、滑ったりしたら危険だ。そこまでしてゴミを拾う必要はない。

「大丈夫」

 彼女は立ち止まった。なぜか低い声を響かせる。

「言ったでしょう。私はゴミを拾う。それがどこにあったとしても、ね」

 いや言ってない。むしろさっき古雑誌を無視した奴が何を言うか。

 ゴミに辿り着き、小沢さんは腰をかがめた。軍手をはめた手でゴミを掴み、無事に袋にそれを収めると こちらを見た。得意気な顔に見えないこともない、気がしないでもない、……ような気がする。要は良く分からない。

「うわー」

 途端、急に小沢さんが声を上げた。今度は何だ。

「うはー」

 頭を下げて手をバタバタさせている。相変わらず声は抑揚のない平坦なものだ。本当に何をしているか分からなかった。しかし、一匹の黄色い物体が小沢さんの頭上を徘徊しているのが見えた。

「蜂だ!!」

 思わず叫んでしまった。彼女は蜂に襲われている。

 小沢さんは追い払おうとまだ手をブンブン振り続けている。どこかに巣があるのだろうか、すでに蜂は興奮しているように見えた。

「刺激しちゃだめだ!」

「ぐわー」

「小沢さん! 静かにそこを離れて」

「な、なんとか思い留まるわけにはいかないのでしょうか」

 蜂相手に何言ってんの。とうとう頭を抱えてその場にしゃがみこんでしまった。棒読みの命乞いに気を悪くしたのか、蜂はさらに勢いを得て飛び回る。いよいよ危ない。

 前に聞いたことがある。蜂から逃れるためには刺激せずに姿勢を低くし、角度をつけてその場を離れる。決して直線的に逃げてはいけない。

「小沢さん、そのまま! 屈んだまま角度をつけて逃げて! 大声出したりしたら駄目! 刺激すると刺される!」

「角度……」

 呟いたのが聞こえた。少し嫌な予感がしたが信じるしかない。ややあって、彼女は決心がついたようだ。渾身の掛け声が俺の耳に届いた。

「えーい」

 小沢さんは言う通りに、屈んだままその場から勢いをつけて飛び出した。

真横に。

「あぷ、あぷあぶぶぅ」

 小沢さんは湖にダイブした。

 折り曲げていた体をめいっぱい伸ばし、うつ伏せの状態で入水していった。

 大きく水しぶきが上がり、その一粒一粒がキラキラと宝石のように輝いていた。厚い雲間から照りつける太陽の下にいて、その瞬間だけは涼を感じることができた。夏はもうすぐそこまで来ている。夏と言えば夏休みだ。さて、今年の夏は何をしようか。

 なんて言っている場合ではない。

「はあ!? バカ! 何やってんの!?」

「溺死するー」

 必死さがまったく伝わってこないが小沢さんはピンチである。

 この湖、さほど深くはない。ただ服が水を吸ってしまってうまく身動きができないようだ。あと、無駄に勢いよく飛び込んだせいで少しずつこちらから離れていく。

「離岸流だー」

 しかし、間違いなく足はつくだろうに。なぜか彼女は水中でバタバタしているだけだった。水面から覗いている顔は無表情。ちょっとしたホラーである。

「ちょっと待って」

 さすがに見ているだけというわけにもいくまい。近くに落ちていた木の棒を掴む。

「サメがくるー」

「んなもんいるか! 早く掴まれ!」

棒を小沢さんに向かって伸ばす。少し手古摺ったが、彼女は掴むことができた。しかしここからが厳しい。予想以上に引き寄せるのに力がいるのだ。地面がぬかるんでいるせいで踏ん張りが効かない。本当は俺が引き寄せるのではなく、木の棒を頼りによじ登ってきてほしいところなのだが、

「ジョーズがくるー」

「そんなもん来ねぇって言ってんだろ!」

 この人に期待してはいけない。力いっぱい手繰り寄せる。

 途中で棒が折れてしまうのが怖かったが、最後までもってくれた。小沢さんの腕を摑み、力任せに陸まで引っ張り上げる。

「はあはあ……」

 死にそうなのは俺の方だ。女の子とは言え、人ひとりを水中から持ち上げるのは思ったより大変だった。四つん這いになって、息も絶え絶えになる。

 全身ずぶ濡れになった小沢さんは、地面に手をついたまま顔だけ上げた。ぐっしょり濡れた軍手を外して、

「……ありがとう」

 こんなシチュエーションになっても彼女の声には感情が宿らない。

「なぜ、湖に、……飛び込んだ」

 なんとか声を絞り出す。納得いく説明をしてもらえるだろうか。

 少し考えて彼女は口を開いた。

「だって、辰吉くんが言うから」

「俺のせいか!?」

「違う。蜂のせい」

 確かに元を辿れば蜂のせいだ。しかし、湖に飛び込んだのは俺のせいとなっている。

「ありがとう。辰吉くん。死ぬかと思って焦ったけれど、あなたのおかげで私は無事」

 嫌味で言っているのだろうか。この際それは良い。動かぬ表情を俺は覗き込む。

「本当に焦っていたのか?」

 彼女は心底不思議そうに首を傾げる。

「溺れたのだから、焦るでしょう?」

 その通りである。しかし、

「ちっともそんな風に見えなかった」

 朝グラウンドで出会ったときも、ペットボトルを袋に収めたときも、蜂に襲われたときも、溺れていたときも、である。合唱コンクールの日に見たときと、俺が小沢さんを知った日と、同じ表情をしていた。

 そして今も、変わらぬ表情で俺を黙って見ている。長い髪からは絶え間なく水滴が落ち、水を吸ったジャージはピッタリ体に密着して下半身は泥で汚れている。彼女はボロボロだった。

 なのに、なぜそんな顔をしていられるのか。なぜそんな眼で俺を見られるのか。

 小沢さんは目を逸らして小さく呟いた。

「そう」

 まずいな。気を悪くさせてしまっただろうか。だが、それすら分からない。

「とりあえず。服をどうにかしよう。近くの民家の人にお願いしてタオルを――」

 妙な空気になりかけたのを壊そうと、わざと大きな声を出して立ち上がろうとした。しかし、その腕を掴まれた。目を伏せた彼女は口を開く。今日一番大きな声だった。

「私、緊張していたの」

「え」

 俺は驚いて固まってしまう。さきほどからひとつひとつが急である。

「今日の朝から、いいえ、昨日の夜から。ゴミゼロ活動でクラスの皆とゴミを拾えるって、今日こそは色々話ができるって。……ずっと緊張していた」

 彼女の声は下手な俳優が台本を読んでいるかのように一本調子だったが、

「全然寝付けなくて。だから寝坊して……遅刻して、学校に来たら皆いなくって。……知らない男の子と急に組まされて、どうしようって」

 それは確かに彼女の声だった。彼女の本当の声だった。不思議だがそう思った。

「気まずい雰囲気だったから、とにかくどんどんゴミ拾って時間を潰そうと思って。そしたら全然知らないところ来ちゃって」

 自然と、今日の俺たちの行動が脳内で再生される。

「それに……、それに冗談言ったのに全然ウケなかった。湖があったから、和むと思ったの。辰吉くんはきっと退屈していると思ったから」

 上書きされていく印象に当に頭はついていっていない。きっと俺はポカンと口を開けていたに違いない。

「せっかくおニューの靴を用意したのに湖に落ちるし。死ぬかと思ったし、もうね、本当に色々ショックだった」

 一気に捲くし立てて彼女は顔を上げた。瞳が濡れていたのは湖に落ちたからであろうか。

 迫力に押されてなんて言っていいか分からず、

「おニューって、……久々に聞いたな」

 どうでもいいことを言ってしまう。

 彼女の眼差しはとても強く、熱を帯びていた。心根を見透かされている気さえした。今度は俺が目を逸らしてしまう。彼女は再び目を伏せてしまった。

「いきなり変なこと言ってごめんなさい」

 しかし、腕を掴んだ手は緩まなかった。この力はいまに生まれたものではないのだろう。きっと彼女の中にずっと鬱積していたものに違いない。俺は今日の彼女しか知らないのだけれど。

 そう、俺は、今日の小沢さんしか知らない。

 事情を訊き返す前に、俺は今日の自分を思い返してみた。

「いや、こちらこそ、……ごめん」

 謝罪の言葉は自然に出た。

 なぜ急にそんなことを言い出すのかと、そんな無粋なやりとりをする気にはなれなかった。俺には心当たりがある。きっと彼女はそれを見抜いている。意思疎通はもう、できている。

 忘れていた。今日ずっと後ろをついて行っていたのは、知らない人だった。

「ひとつだけ聞かせてほしいの」

 大きな瞳は俺を逃さなかった。無意識に頷いていた。

「あなたは前から私のことを知っていたの?」

 首を振った。俺は小沢さんのことを知らない。何も知らないのだ。

 彼女の頬が少し緩んだように見えた。

「そう、じゃあお願いがあるの」

 掴まれた腕を引っぱられる。

「誤解しないで。私は特別なんかじゃない」

 一瞬、誰の言葉か分からなかった。目の前にある彼女の顔と、痺れるほどに強く握られた腕の感覚で分かった。

 彼女は今日、いやきっと、もっとずっと前から。そう思っていて、そう言いたかったんだ。

 頭に鋭く当たる冷たいものを感じた。それは次第に数を増し、全身を打ち始めた。それが雨だと気付いたときには、俺も小沢さんと同じほどにずぶ濡れになっていた。

 しかし、彼女は腕を離しはしなかった。俺も彼女の瞳から目を逸らすことができなかった。

 雨が降るよう祈ったことを後悔することも忘れ、二人で見詰め合ってしまっていた。

 大きく膨らんだ彼女のゴミ袋が、カサカサと音を立てながら少しずつ小さくなっていく。


短編も載せております。拙作では御座いますが、宜しければご清覧下さいませ。

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