夕空の約束
病室の窓を開けると、雨上がりのアスファルトの匂いを含んだ風がカーテンをふわりと巻き上げた。
「もう七月……だな」
少年の独り言のような問いかけに返事はなかった。
ベッドに光が差し込み、少年の頬とベッドカバーが白く照らされて同化する。あれだけ日に焼けて小麦色だった肌も二年間の病室暮らしで見る影もない。
輝は枕元に置かれた野球のボールを手に取った。寄せ書きだらけサインボールは、赤い縫い目が陽に焼けて少し色褪せていた。
「賢太郎……早く練習に来いよ。もう十分休めただろう? 」
返事がないことはわかっていた。けれど輝はいつもここで同じ言葉を投げかける。
しばらくの沈黙の後、ため息をついて輝はボールを枕元に戻した。
「これ……覚えてるよな」
スポーツバックから取り出したのは、赤土で汚れた古いボールだった。それは輝と賢太郎が中学三年生の夏、バッテリーを組んで優勝した時のウィニングボールだ。ボールには試合の日付とともに、賢太郎がマジックで書いた文字が記されていた。
『俺たち最高のバッテリー』
輝はその文字を正面にしてサインボールの横にそっと並べた。
「あら、輝君。今日は部活はお休み? 」
病室に入ってきたのは賢太郎の母親だった。
「こんにちは。県大会も近いんで今日は久々の休みです」
「そっか、もうそんな季節なのね。ここに通ってるとカレンダーをめくるのも億劫になっちゃって」
賢太郎の母親は着替えの入った大きな布バックをパイプ椅子に置くと、賢太郎を見つめた。そして賢太郎の額を優しく撫でながら輝に訊ねた。
「今年もレギュラーになれそう?」
「はい、多分。最近バッティングが好調なんで、クリンナップを打たせてもらってます」
「凄いじゃない。きっとこの子も喜ぶわ。ポジションは?」
「センターです」
「そっか、ピッチャーじゃないのね。あんなに凄い球投げてたのに」
しかし輝は首を振って否定した。
「やっぱ高校は層が厚いですから。僕の球なんか通用しないです」
「そうなの? でも賢太郎はずっと輝君の投げる球を褒めてたわよ。あいつの本気の球は誰も打てないって」
「それは……単に賢太郎のリードが良かったんですよ。俺の平凡なボールを活かしてくれた。最高のキャッチャーですから」
「お世辞でも嬉しいわ」
その言葉に輝は間髪を入れず否定した。
「お世辞なんかじゃないです。間違いなく最高のキャッチャーです。今も、ずっとそうです」
輝の言葉を聞いて、賢太郎の母は笑みを浮かべた。けれどその瞳はとても寂しげに見えた。
「県大会頑張ってね。応援にも行くから」
「はい、ありがとうございます。では失礼します」
輝は深々と頭を下げると病室を後にした。
輝にはお見舞いに行った後必ず足を運ぶ場所がある。それは河川敷にある少年野球のグラウンドで、小学生の頃から賢太郎と共に汗を流した思い出の場所だ。
土手の道端に腰を降ろすと眼下には草むらを切り拓いて作られたグラウンドが広がる。少年野球の練習もちょうど終わったようで、子供達が慌ただしくトンボがけをしたり、ネットやベースを片付けたりしている。
そんな中グラウンド外の草むらで、小学校高学年と思しき子供が、同じ年頃のキャッチャーを座らせて投げ込みをしていた。
「ショウタ!最後はど真ん中だ!思い切り来い!」
そうキャッチャーの少年が呼びかけると、ピッチャーは小さく頷いて振りかぶった。そして躍動感のある綺麗なフォームで力一杯のストレートをキャッチャーミットめがけて放った。
「よっしゃ!ナイスピッチ!」
キャッチャーの少年はマスクを脱ぎ捨てると、ピッチャーに駆け寄って肩を叩いた。
輝は膝を抱えてしばらくその様子を眺めていたが、二人の姿が昔の自分と賢太郎に重なって、たまらず顔を伏せた。
(お前がいない野球なんて楽しくないよ……どうして目を覚まさないんだよ)
夕陽に照らされながら輝は肩を震わせて泣いた。
◇
どれくらい経ったのだろうか、輝が顔を上げるとすでにあたりには人気がなく、夕陽も鮮やかな茜色から深紫へと諧調している。
輝は立ち上がると制服のズボンについた砂埃を払った。その時、輝は一瞬目を疑った。橋桁の下に信じられない人影を見つけたのだ。転そうになりながら土手を駆け下りると、橋桁をめがけて無我夢中に走った。
「まさか、そんなことって……」
輝は走りながら思わず声をあげた。やがて橋桁に近づくにつれ、その疑問は確信に変わっていった。深呼吸してあがった呼吸を整えると、背中越しにその名を呼んだ。
「賢太郎!」
その声に振り返ったのはまさしく賢太郎だった。
「二年ぶりのユニフォームだからな。やっぱりきついわ」
賢太郎は野球部の練習用ユニフォームを着ていた。よほど窮屈なのか具合悪そうにしきりに袖を引っ張ったりしている。
「お前、意識が戻ったのか?いつ退院したんだよ!」
そう言って詰め寄る輝を賢太郎は手で制した。
「悪りぃ、悪りぃ。驚かすつもりはなかったんだよ。とりあえずお前に挨拶しとかないと、と思ってさ」
「にしても、何でだよ。さっき見舞いに行った時もいつもと変わらなかったのに……」
輝は混乱して短い髪を掻きむしった。
「俺も急なことで驚いてるんだわ。まぁこの世にはやっぱり奇跡ってあるんだろうな」
「ああ……確かに奇跡だ。でもまさか、これって夢じゃないよな」
未だに信じられない様子の輝を賢太郎は鼻で笑った。
「おいおい、夢ならもっとマシな物見るだろ。それなら俺だってお前なんかより可愛い女の子と会いたいぜ」
「お前、事故に遭ってさらに性格がねじ曲がったんじゃないか」
輝はすぐに少し言い過ぎたと悔いたが、賢太郎はそれを軽く受け流した。
「病室で寝てる間、お前の愚痴を散々聞かされたからな。そりゃ性格もねじ曲がるさ」
「やっぱり夢じゃないな。その憎まれ口は本物だ」
輝は安堵して初めて笑みを浮かべた。それを見た賢太郎がすかさず拳を向けてきたので、輝も拳を突き合わせた。
「ところで何でこんな所にいるんだよ。それにユニフォームなんか着て」
「実はお前にお願いがあってさ」
そう言うと賢太郎は輝の胸元にボールを放り投げた。それは今日枕元に置いたはずの土で汚れたボールだった。
「久しぶりで体が鈍ってるからさ、ちょっとだけキャッチボールしないか」
「バカ!退院したばかりで無理するな。焦らなくていいからとりあえず今日は帰れよ」
目をつり上がらせて怒る輝に、賢太郎は両手を合わせ頭を下げた。
「頼むよ。せっかくここまで来たんだ。ほんの少しだけでいいから、な、一生のお願いだ」
「一生のお願いって……」
初めて見る賢太郎が懇願する姿を前にして、輝は頷くしか無かった。
「相変わらず大袈裟な奴だな。分かったよ、ちょっとだけな」
「やった!」
まるで子供のようにはしゃぐ賢太郎を見て、輝は思わず笑った。
「それじゃ、スポーツバッグ取ってくる」
「もうすぐ陽も沈む。急いでくれよ」
輝は頷くとスポーツバックを取りに土手へと駆けて行った。土手を登り切って振り返ると、すでに夕焼け空は紺色に染まりはじめていた。輝はグローブを取り出すと急いで土手を駆け下りた。途中、轍に足を取られてつまづきながらも、全力で賢太郎の元へと駆けていった。
「早かったな。じゃあ始めようか」
そう言うと二人はキャッチボールを始めた。輝はまたこうして賢太郎と投げ合えることが嬉しくて、ずっと笑みを浮かべていた。十球程度投げあっただろうか、賢太郎は急にその場に座り込むとキャッチャーミットを構えた。
「おい、キャッチボールじゃないのかよ」
「久しぶりにお前の球を受けたいんだ。もう時間がない。早く投げてくれ」
賢太郎の眼差しはいつになく真剣だった。輝は気迫に押されて頷くと、大きく振りかぶった。
「さあ本気で来い! 」
輝は大きく左足を踏み出すと、鞭のように右腕をしならせ振り抜いた。だが指先を離れたボールは賢太郎が構えた位置から大きく逸れて、ミットが届くギリギリの高さまですっぽ抜けた。何度投げても結果は一緒だった。
賢太郎は納得がいかないという風に頭を振ると立ち上がった。
「おい!なんだ今のは? こんな棒球じゃ確実に放り込まれるぞ」
輝は賢太郎から視線を逸らした。
「実は俺……もうピッチャーじゃないんだ。お前が知ってる頃の俺じゃないんだよ」
「知ってる。毎日隠れて投げ込みの練習をしているのも知ってる。だからお前の本気はこんなもんじゃないはずだ」
賢太郎は矢のような返球をすると続けて言った。
「お前が羨ましいよ。こうやって野球が出来る上にあんなに良い仲間に囲まれて」
「でもグラウンドにお前はいない! 俺だけが野球を楽しんでいいのか? 時々わからなくなるんだ」
「お前は何のために野球をやっているんだ。まさかお遊びのつもりなのか? だから本気を出さないとでも言いたいのか?」
「違う!」
「じゃあ何でそんな腑抜けた球を投げるんだ?それもこれも全部俺のせいなのか?」
「そんな訳ないだろ!」
「だったら今、それを証明して見せて見ろよ!」
賢太郎は再び座ると、ミットを正面に突き出して構えた。
「お前の本気の球を受けたいんだ!」
輝は強く頷くと再び大きく振りかぶった。そして左足を跳ね上げると、力をためて一気に踏み込んだ。流れるように速く力強くしなった右腕は、風切り音を上げて振り切られた。
気持ちが良いほどの乾いた音が響く。賢太郎はキャッチャーミットを構えたまま身じろぎもしなかった。キャッチャーミットの中にはボールが収まっていた。
「いい球だ。そう、この感触が好きだったんだ」
賢太郎は満足気に立ち上がると、ゆっくり山なりに返球した。
「やっぱりお前は凄いピッチャーだ。俺が保証する。だからもっと自信を持て」
「これからも……俺の球を受けてくれるよな?」
輝の問いかけに、賢太郎は微笑み返した。
「ああ、約束だ。だからお前も約束してくれ。また頑張ってピッチャーになるって」
「わかった。お前も早く復帰しろよ。一緒に甲子園に連れて行ってやるからな」
「約束だぞ」
そう言うと賢太郎は輝に背を向けて歩きだした。
「賢太郎、どこに行くんだ」
「もう陽が暮れた。そろそろ行かないと」
見上げるといつの間にか夕焼け空は紺色に変化し、はっきりと浮かび上がった三日月は夜の訪れを告げていた。
「なぁ、賢太郎。俺たち最高のバッテリーだよな」
輝の問いかけに賢太郎は振り返ると親指を立てた。
「当たり前だ。だから自分を信じろ。俺はいつだってホームベースの向こうにいるからな」
その瞬間、輝は嫌な予感がして賢太郎の後を追いかけた。しかしいくら走ってもその背中は遠ざかっていくばかりだった。
「賢太郎!」
輝は叫びながら顔を上げた。気がつくとそこは土手の上で、輝は膝を組んで座っていた。泣きそうになりながら土手を駆け下りた。しかし橋桁に賢太郎の姿を確認することはできなかった。輝は自宅に向かって走った。
帰ると母親が泣きながら輝に告げてきた。賢太郎がさっき亡くなったと。
聞けば賢太郎は夕方急に容態が悪化して、そのまま息を引き取ったらしい。ただ賢太郎の母親が言うには、入院中表情を変えることすら無かった賢太郎が、最期は微笑みを浮かべだのだと。その顔はどこか満足げで嬉しそうだったと。
輝は布団に包まって一晩中泣き明かした。
◇
全国高校野球選手権地方大会 決勝。
自信を取り戻した輝の球はすぐに監督の目に留まり大会直前に控えのピッチャーとなった。そして決勝まで勝ち進む頃には新たなエースとしての信頼を勝ち取っていた。
マウンドには輝が立っていた。9回裏2アウト。あとバッターを一人抑えれば甲子園行きが決まる。
サインに頷いて大きく振りかぶる。もう迷いは無い。何故ならホームベースの向こうには賢太郎がいるからだ。
指先から放たれた渾身のストレートにバットが空を切る。
ゲームセット。
その瞬間、ついに二人は約束を果たしたのだった。