第九十五話 初めて人を斬った日
青黒い剣閃が盗賊の上半身を切り飛ばし、尋常じゃない量の鮮血が飛び散った。魔物とはまた違う斬った感触と実感に胃の中のモノが込み上げてくるが、慌てて口元を押さえながら無理矢理飲み込み、現実から目を背けるように前へ進む。
「はぁっ、ぐ、クソ……クソ……っ!」
斬った僕が倒れそうだ。殺された僕が人を殺す。例えそれが誰かや自分の身を守る為であっても、拭えない嫌悪感と絶望が体の芯を掴んで離さない。離してくれない。
「てめぇ! よくもぉぉ!」
盗賊の仲間が、僕が斬った人を見て怒りを露わに僕へと襲い掛かる。それを《森狼の脚》の能力で空を踏んで避ける。そのまま頭上から落下速度を乗せて袈裟懸けに斬る。それを盗賊は剣で防ごうとするが、鍔迫り合うことなく剣ごと切り飛ばした。
「うぅぅぅぅ……!!」
声にならない声で呻く様はまるで幽鬼だ。どうしても人の為という意識が保てない。どう足掻いても、気持ちを切り替えても、思考を停止させても、人殺しは人殺しだった。
無心にもなれず、何の覚悟もなく、ただひたすら身を守る為に剣を振るう。ある意味では正しいことなのだろう。しかし僕にはどうしてもそれは間違ったこととして捉えてしまう。
「必要のない殺しは悪だ……だからこれは必要なことなんだ……必要なんだ……」
ダニエラの言葉を繰り返しながら意識を保つ。その言葉にしがみつきながら、剣を振り続け、やがて返り血に塗れた僕とダニエラ以外、その場に立つ者は居なくなった。
「う、ぅおぇぇぇぇえ……」
たまらず胃の中身をぶち撒けた。人を斬った事実。人を殺した事実。
「はぁっ……はぁっ……!」
その重圧から逃げ出すかのように這う。そして這った先にあったのは、僕が最初に殺した盗賊の上半身だった。
「あ、あぁ……あああああ!!」
「アサギ!」
ダニエラの声が聞こえて、それを最後に僕の意識はそこで途切れた。
□ □ □ □
「すまない、助けるのが遅くなって……」
「いえ……良いんです……こうして生きていただけでも、奇跡なんですから……」
目の前の少女は涙を流しながら胸を剣で貫かれた男を抱く。父親だろうか……。私達が駆けつける前に刺されたらしい。少女は濡れた目で見上げ、そして頭を下げた。
「助けてくださって、ありがとうございました……」
「良いんだ。怪我はないか?」
「はい、私は……その、お連れの方は大丈夫なのですか……?」
私が背負った奴の顔を見て不安そうに尋ねる。
「あぁ、此奴は今日初めて人を斬ったんだ……どうしようもない状況だったとはいえ、無理が祟ってな。きっと心が耐えられなかったんだと思う。だが此奴は強い男だ。きっと立ち直ってくれる」
そう、アサギなら、私の愛した男ならきっと元気になってくれる。
アサギは殺しを禁忌とする世界からやってきた。魔物を殺しただけで折れそうになった心を『必要のない殺しは悪だ』という私の言葉に縋りながら保っていた。そんな人間が誰かを、人を殺した時どうなるか? 答えは一目瞭然だった。
だから、私はいずれ盗賊討伐のクエスト受けるつもりでいた。アサギが十分にこの世界に慣れ、強い心を持った時。だがこうしていざ盗賊が現れるとアサギを理由に見過ごすことなど出来るはずがなかった。私は弓を引き、アサギを巻き込んでしまった。
アサギの心は今は弱い。命を断つという行為に漸く慣れ始めたばかりだ。それも魔物相手に。親を魔物に殺され、魔物を殺すことで生きてきた私には分からない感覚ではあるが、理解出来ない感覚ではない。何故なら私も竜が怖いからだ。いずれ、私も慣れなければならない時が来る。その時は強く成長したアサギに背中を任せながら、挑みたいものだ。
「そうだったんですね……すみません、私達……いえ、私の所為で……」
「気にしなくていい。命が助かったんだ。アサギもきっと喜んでくれる」
旅をしていると、人に騙されるということがまぁ、よくある。私も例に漏れず騙され、この身を汚されそうになったことがある。その時、人を殺した。
必死に手を伸ばし、掴んだ短剣を相手の胸に突き立てた感触。硬い骨に当たり、刺し直した記憶。それはどうあっても拭い去れない。拭い去れないなら、受け入れるしかない。
あれは身を守る為の行為だった。仕方のないことだった。騙した方が悪い。殺されそうになったから殺した。
そうやって目を逸らした時期もあったが、結局その負い目は私を強く掴んで離してくれはしなかった。
だから受け入れた。そういうことがあった。だが、あの時自らを守ったお陰で今がある、と。そのお陰で、アサギに会えたと。
この生き残った子が、アサギの心の薬になってくれればと、切に思う。アサギが愛した私ではなく、アサギが助けた彼女だけが、アサギを救える。
□ □ □ □
真っ暗だ。暗い。明かりのない闇が目の前にある。それがどこまでも広がっているのか、それとも鼻先で立ちはだかっているのか、分からない。
しかしそんな闇の中で動くものがあった。最初は分からなかった。だが闇に目が慣れた時、それが上半身だけで動く死体だと気付いた。
「うわぁぁぁ!!」
恐怖に叫び、逃げようと藻掻くが、体は動かない。
「くそがぁぁ……殺しやがったなぁぁぁ……」
地の底の底から聞こえてくるかのような低い、低い声が耳に届く。
「仕方なかったんだ……お前達が、襲っていたから……!」
「いてぇぇよぉぉ……いてぇぇよぉぉ……」
腕だけで這い、僕の足元へと進んでくる盗賊。
「やめろ、やめろ、来るな!」
「うぅぅぅうぅぅぅうぅうぅぅぅ……」
呻き声を上げるソレは、遂に僕の足を掴む。そして、ゆっくりと、這い上がってくる。
「ひ、ひぃぃ……っ!」
服を掴み、腕を掴んで這い上がるソレは、僕の首に腕を回して登りきる。僕の肩に顎を乗せ、不快な呼吸音と共にこう言った。
「お前も、最期はこうなる」
「うわぁぁぁああああ!!!」
自分が叫んでいると気付いた時、辺りは気絶する前と同じ血に塗れた草原だった。ハッとして辺りを見回し、やっとのことで状況を理解した。
「アサギ、おはよう」
「えっ……あ、ぁ、おは、よう……」
噛み噛みになりながらいつものように起きた時の挨拶をしてくれたダニエラに返事をする。そして漸く自分がダニエラに背負われていることに気が付いた。
「悪い……もう、歩けるから」
「無理しなくていいんだぞ? 少しは背負わせろ」
それが僕自身だけでなく、僕が抱えている気持ちも含んでのことだとすぐに理解した。何せ僕達は相思相愛の以心伝心だからな……なんて、調子の良いことを言ってみても、心が晴れることはない。
「あの、大丈夫ですか……?」
不意に、後ろから声を掛けられる。ダニエラに背負われながら振り返ると小さな女の子が僕を心配そうに見上げていた。
「君は……?」
「私は、マリーエルと言います。助けて頂いて、ありがとうございました」
生きて、くれてたのか……僕が、誰かを殺して、それで生き残ってくれた人が、居たんだ……。
ゆっくりとダニエラが僕を降ろしてくれる。震える足はやっぱり立つことが出来ず、その場に跪いてしまう。
生き残った女の子、マリーエルが僕の前へ進む。小さな女の子だ。返り血が付いた焦げ茶の髪。不安そうにギュッと胸の前で手を組む姿が更に幼く、小さな姿に見えてしまう。
僕は震える手を伸ばして、焦げ茶の髪に触れる。
温かかった。体温や、温もりが手を通して伝わる。血に濡れて冷えた心に流れ込み、混ざり、僕の心を温めてくれた時、自然と涙が溢れ出した。
「その子はな、アサギ。お前が救ったんだ」
「僕が……」
「そう。お前は人を、命を救うために戦ったんだ。戦い、勝ったことで生き残った。そのお陰でマリーエルは今、生きている」
『生きている』
その言葉を聞き、ジッと目の前の少女を見る。先程まで不安そうにしていたのは、きっと僕の心配をしてくれていたからだろう。今は柔らかく微笑み、僕の手に身を預けてくれている。
「アサギさんのお陰で、私は生きています。どうか、自分を責めないでください」
「う、うぅ……っ」
情けないことに、少女の言葉に込み上げた声が言葉に出来ないまま溢れ出した。溢れ出した言葉は気持ちをも引っ張りだし、ギュッと、マリーエルを胸に抱いた。
「ありがとう……生きていてくれて、ありがとう……」
ただひたすらに、生きていてくれたマリーエルへありがとうと繰り返した。
生きていてくれてありがとうという気持ちは僕の全身に行き渡り、あれ程までに震えていた手足はいつの間にか震えが治まっていた。それでも僕は立つことが出来ず、優しく撫でてくれるマリーエルの手に身を預け、泣いた。




