第五話 森を走る
夢中で噛みつき、引き千切り、咀嚼して、飲み込む。塩や胡椒もない、肉本来の味というやつだ。深夜バイトしてた時に給料日に奮発して肉買って朝から焼き出したけど塩も胡椒も忘れた時の味に似てる。あの時は『味しねぇ!』ってがっかりしたけれど、今はこんなにも美味しい。空腹がスパイスとして機能しているのか、単にこの狼肉が美味いのか。理由は分からないけれど、ひたすら美味い。気付けば足は骨だけになっていた。
はぁ……僕、満足……。ゆらゆらと揺れる火を眺めているとじわじわと睡魔がやってくるが、今は寝る訳にはいかない。色々とやることがある。満腹になって冴えてきた頭で考える。まずしなければいけないこと。それはこの焚火を消すことだ。シャツを小川に浸し、焚き火の上で絞る。びちゃびちゃを水が流れ落ちて火が消える。その燃え滓に砂を掛けて完全に鎮火させる。次は小川に沈めていた肉を取り出して濡れたシャツで包んで背中に背負う。早くここから離れないと。
僕が慌てていたのは単純な理由だ。同じ轍を踏まないようにしていただけだ。前回、はぐれたゴブリンを狩った所為で浴びた血の匂い。あれの所為で酷い目にあった。お陰で僕は今も土臭い。
今回僕が狩った狼。あれも多分はぐれだろう。狼みたいな生き物が単独で動いてるのは普通におかしい。一匹狼とかなら分かるがそう都合の良い展開なんてないだろう。主人公補正なんてない。絶対に群れがいるはずだ。そうじゃなくてもいるという前提で動けば失敗はない。あれだけいい匂いがしたんだ。それが狼の胃袋を刺激するかは分からないが、不審に思うのは間違いないだろう。確認しにくるだろうな。
だから僕はここを急いで離れる。食後の休憩は出来ないが仕方ない。狼の群れなんか死ぬ未来しか見えない。
準備を終えた僕は腰を低くしながら辺りを窺い、耳をすませる。ガサガサとした音はしない。今がチャンス!
小川を後にして轍に出る。間違えないように東を向いてそこからしばらく小走りで移動だ。うぅ、腹に積もった肉が暴れる……。
□ □ □ □
そこから少し時間は流れる。幸いにも魔物に遭うことは無く、僕は狼の肉を喰いながら東にあるであろう町を目指した。途中、小川がカーブに差し掛かり僕から離れていった。さらさらと耳に優しい音がしなくなると何となく耳が寂しい。一人だった僕はいつの間にか二人旅をしていたつもりだったらしい。一人旅は一人旅でしかない。僕はひたすら一人の道を行く。
2日間歩いたが森は途切れない。なかなかに広大なようだ。常に木々の隙間から見られているような錯覚がしたが、結局夜は木の上に行くのだから現金な奴だ。何だかんだ言ってこの生活にも慣れてきたのかもしれない。夜なんかぐっすりだ。朝の空気が美味い。
5日目になった今現在、見慣れた景色は変化する。左側で主張していた森が僕の正面へと侵食してきたのだ。今まで避けるように敷かれていた轍は真っ直ぐに森を目指している。
「ふむ、どうしたものか……」
わざわざ避けていた理由。それは恐らく森のゴブリンだろう。ゴブリン以外にも何某かの魔物もいるかもしれない。それならば何故ここで森を避けずに突っ込むのか。これもう単純に、町はこの先なのだろう。南へ轍が逸れない理由。それが東の町の存在なら僕はこの森を突っ切るしかない。今もあのゴブリンの群れが脳裏に浮かぶ。あんなのに出くわしたら……くそ、冗談じゃない。
でもここで油を売ってても仕方ない。行くしか無い。決めたら素早くが生き抜くコツだ。槍と鉈を降ろす。狼肉は食べきったから今は身軽だ。言い換えれば後がない。ベルトを締め直して気合を入れて僕は森へ歩を進めた。
森へ近付いてみて分かったことがある。轍はただ無謀に森へ突っ込んでいた訳ではなかった。轍を中心に木々が刈られていた。遠くまで見ても木が塞いでいる様子はない。どうやらある程度人間の手が入っているらしい。これはいよいよ町が近いぞ。
辺りを警戒しながら森の入口に立つ。ぺろりと舌で唇を湿らせながら森と森の間へ踏み込む。あとは何事も起きず、ここを抜ければ町は近い。はず。
……なんてことはあるはずがない。主人公補正など存在しないのだ。今、僕は視線を感じている。左右から複数のだ。歩く足は止められない。止まったところを襲う気がぷんぷんする。
くそ、何なんだ……誰なんだ一体……。久しぶりに怖い……。段々と息が荒くなる。心臓の鼓動を制御出来ない。速度を上げる体のリズムに足が釣られる。段々とそれは早歩きになり、そして小走りになった。視線が途切れることはない。森の出口はまだか……!?
そしてそれはついに僕の視野に映る。森と森の隙間。そこに見えたのは狼だ。それが数匹。何で、と思った。痕跡はすぐに消したつもりだ。でも、おかしい。今見えた狼。体毛が薄い緑だった。食った奴とは別の個体か……?
頭を振って考えることをやめる。何がどうなっているか分からないが、今は逃げることが大事だ。顔を上げて小走りから速度を上げる。相当焦っているのだろう。体力の消耗を押さえて走っているつもりだが速度が調整出来ない。速度が出過ぎだ。しかし不思議と疲れない。此奴はあれだ、アドレナリンパワーだな。今のうちに距離を稼ぐしか無い。狼との距離じゃない。出口への距離だ。
ハァハァと息を吐く僕の耳に遠吠えが聞こえた。狼共が痺れを切らしたのだろう。走りながら振り向くと5匹程僕の後ろを走っていた。
「うわぁぁああ!!!」
こ、怖すぎる…!! 昔おばあちゃんが飼ってた犬に追い掛けられたのとは訳が違う。あいつら完全に僕のこと殺す気だ!
前を見て全速力で走る。遠すぎて交じっていた左右の木が離れて出口が見えていた。よっし! 駆け抜ければ僕の勝ちだ! 町があれば、だけど。
更に必死で走る。えぇい、槍が邪魔だ! 其奴を当たれば良いや程度の気持ちで後ろに投げる。
「ギャンッ!」
おっほ、マジか? 振り向けば狼が1匹転がってる。ラッキー! でもない。転がって減ったはずなのによく見たらさっきより増えてやがる……! 15匹くらいがガウガウ吠えながら走ってきてる。やばい、ちびりそう。だが耐える。出口はすぐそこだ。あと10メートル……5メートル……抜けた!!
瞬間、長いトンネルを抜けたような眩しさが視界を襲う。しかし足は止めない。真っ白な世界を走りながら視界が戻るのを待つ。数秒もしなかっただろう。目の前に広がっていたのは待ち望んだ光景。
町の門だった。