第百七十九話 湯の中の出会い
タンジェリンさんに紹介してもらった宿は『夕暮れの雲』という名前だそうだ。女将のエメリンさんの案内で今夜だけ部屋を取ってもらった。風呂は男女に別れた浴室があるそうだ。ただし、浴槽は一つしか無いので時間毎に交代だそうだ。ちょうど時間帯が女性ということでダニエラが先に入り、ホカホカになって帰ってきたところで男性の順番となったので着替えを持って風呂場へ行く。
「はぁ……やっと入れる……」
正直、タンジェリンさんを助ける為に飛び出したのでずぶ濡れだった。馬車の中で体を拭いてはみたものの、装備は濡れていたので結局体は冷えてしまった。ダニエラが入っている最中も濡れた装備を干して乾かしながら着替えて布団に潜っていた。こうして風呂に入る為に服を脱ぐのですら寒くて仕方ない。
「お湯が僕を待ってる……!」
木の引き戸をガラッと開ければ濛々とした湯気が僕の視界をホワイトアウトさせるが、開けた木戸が出口となって天井を伝って湯気は排出されていく。やがてある程度の視野は確保出来たということで中へ入って戸を閉めた。
浴槽の傍にある木桶を手に取り、掛け湯をする。求めてやまなかった温かさが冷えた僕の体をビリビリと痺れさせる。持ってきた布でゴシゴシと体を隅々まで擦って洗い、湯で流す。落ち着いたところで進水式を開催する。
「はふぁ……」
じんわりと爪先から伝わってくる一種の快感に、情けない声が漏れ出てしまう。ずぶずぶと爪先から膝、太腿と続いて下半身を湯の中に沈めた辺りでふと人影に気付いた。湯気で見えなかったし音もしなかったので気付きもしなかった。どうやら先客が居たらしい。
「あぁ、すみません。気付きませんでした。いいお湯ですねぇ」
「……」
何となく気付かなかったバツの悪さを隠したくて話し掛けてしまったが、無言だった。あんまり話すのが好きではない人なのかもしれない。ならば無理に話し掛けることもないだろう。僕は肩まで浸かって温まるだけだ。
「はふぅ……」
まぁ……至福の吐息を漏らすくらい、許してくれるだろう。
□ □ □ □
それから30分くらい経った。肩まで浸かったり、湯船の淵に腰掛けたりを繰り返しながら湯を楽しみ、芯まで温まったのでそろそろ出ようかなとか、先客さんも長湯だなぁとか思っていた時だった。
「う……」
「う?」
先客さんが何か言っている。邪魔しないようにしていたが……。
「う……ぶくぶくぶく……」
「ぶくぶく? ……沈んでる!?」
謎の言葉の後に気泡が破裂する音が続いた。見なくても分かる。あれは顔が湯の中に沈んでる音だ。
「ちょ、大丈夫ですか!?」
サバサバと湯を掻き分けて先客さんの影が見えた方向へ進むと、湯船の端でプカーっと背中が浮かんでいた。正直ゾッとして一瞬動きが止まるくらいの光景だった。あれが演技だったら受賞出来るだろう。
大慌てで肩を掴んで顔を湯の中から引き上げて、そのまま端だったこともあって淵に腰を掛けて抱き上げて膝の上に仰向けにして寝転がす。
すると『ぷるん』と。そんな擬音が聞こえてきそうな物体が二つ揺れた。
「……うぅ」
「…………これアカンやつや……」
時間帯。順番。救助。不可抗力。
そんな単語が目まぐるしく僕の頭の中を駆け巡る。僕は悪くない。僕は悪くない。僕は悪くねぇ!
しかし、だからといって放置出来る訳でもなく。僕は仕方なく木桶の中に水を生んでついでに氷も生成して氷水を作り出す。そして逆上せてしまった彼女の頭に巻かれていた布を解いて氷水に浸す。僕の布は駄目だ。色んな所を擦ったから……。
「面白い髪だな……」
あんまり見ないレベルの茶色い癖っ毛を見ながらキンキンに冷えた布を畳んで彼女の首や脇を拭ったり冷やしたり色々頑張る。こういう時は太い血管のある場所を冷やしてやれって昔、誰かが言ってた気がする。熱中症だったかな。熱くなって倒れるんだから同じようなものと素人判断する。それから指先にビー玉ほどの水球を生んで、彼女の口元に近づけてやる。ぷるんとした唇に当たると彼女は無意識にそれを啜って飲んでくれる。きっと汗も掻いているだろうから、脱水症状も起こしてるはずだ。多分だけど。
何度か水球を飲ませてやると、彼女が身じろいだ。目を覚ますようだ。ここは落ち着いて対応するしかないだろう。どう言い訳しようとも、腰に布を巻いていて彼女が頭を乗せる膝にも別の布を敷いてるとはいえ僕は全裸だし、同じく彼女も全裸だ。多分、どうしたって僕はここで強烈なビンタを食らうだろう。
「う……あれ……」
「……」
こっそりと2回、深呼吸する。これから起きることへの心の準備だ。
「なんで、寝てるの……」
「あの……」
「っ!?」
意を決して声を掛ける。すると彼女はガバッと慌てて体を起こす。
「あっ、まだ動かない方が……」
「ひ、あ、わわわっ!」
起き上がった彼女は手をついて立ち上がろうとする。が、手をつこうとした場所はお湯だ。体を支えられず、見事に彼女は湯の中へ落ちた。
「……良いと思うんだ」
「うぅ……」
ザバーっと頭から湯を滝のように落としながら立ち上がる彼女はしっかりと両腕で胸を隠していた。
が、僕はそこでは無く別の部分に視線が固定されていた。癖っ毛の頭だ。
「それ……耳、か?」
「ッ!?」
慌てて頭のそれを隠すように彼女は両手で癖毛だと思っていた獣のような耳を隠す。例の擬音語が聞こえる。
「とりあえず、これ使いなよ」
「ぅ……ぁりがとう、ございます……」
氷水に浸して使っていた彼女の布を返しただけなので感謝される筋合いはまったくないのだが、ビンタされるよりはマシということでそこで終わらせておく。
見たところ、彼女の具合も良さそうなので僕は退散することにする。元々出るつもりだったし。
「僕は行くよ。あんまり長湯はしないようにね」
「すみません……あの、ありがとうございました」
「気にしないで。またね」
明日には出る宿だが、まぁ会うこともあるかもしれないのでまたねと言っておいた。またがあるかは分からないけどね。
引き戸を開けて脱衣所で体を拭いて着替えてその場を後にする。帰り際に浴場の入口に掛けてある札を見る。
『現在、男湯』
と、しっかりと書いてあった。やっぱり間違ってないよな……。
僕はゆっくりと周りを見て、誰の視線も集まってないのを確認してからこっそり札を裏返して『現在、女湯』にしてから部屋へと戻った。
□ □ □ □
「……てなことがあったんだよ」
「ふぅぅぅぅん……アサギは女の裸体を見てきたのか……」
「悪意のある解釈はやめろ!」
あんな状態の人を放置出来るかってんだ!
僕は部屋に帰って今あった出来事をありのままにダニエラに報告していた。べ、別に知らない子の全裸を見た罪悪感から報告した訳じゃないんだからね……。
一番気になったのはあの耳。どう見ても人間の耳じゃなかった。
「ふむ、獣人か。珍しいな」
「獣人? それってあれか、あの、動物と人間が混ざったような感じの」
「その解釈で問題ない。普段は深い森や高い山、とにかく人里から離れた場所に住む人種なんだがな。どうしてこんな人里に居るんだろう?」
「さぁ?」
何か理由があってなのか、まぁそれは本人にしか分からないことだし、事情があるなら詮索するのも良くないだろう。
「ま、事情があるにせよ無いにせよ、私達の旅には関係のない話だな」
「まぁそうだけど……言葉にすると何だか酷いな」
事実とは口にすると武器になることもあるのだ。
「さて……」
と、話は終わったから寝ようかと思っていたらダニエラが僕のベッドの方まで移動してくる。
「なに? お前のベッドはあっちだけど……交換するか?」
「は? なんだその口の利き方は」
あれぇ? 何だかダニエラ先輩が怒ってらっさるのだが? まったく心当たりが……ないとも言えないことが今しがたあったような気がする。
「恋人に隠れて女性の裸体を見て鼻の下を伸ばしていた不埒者にはお仕置きが必要だな?」
「待て、その理屈はおかしい。僕がしたのは人命救助だ。僕は悪くない!」
「黙れ、そんなことは関係ない。私がお前にお仕置きしたいんだ」
えぇ……むちゃくちゃやんけ……と、ダニエラの顔をまじまじと見る。微かに頬が朱に染まっていた。
ははぁ……此奴、さては嫉妬してるな? 可愛い奴め。
「ふふ」
「何笑ってんだ。アサギ、今夜は眠れると思うなよ?」
「いや、寝ないと拙い……あ、ちょっ!」
結局、僕はあの木の下の続きを行う羽目になった。湯で温まった体は更に熱を持ち、逆上せたような感覚で過ぎる時間は濃く、そして短かった。




