53『何のために生きる?』
○イエスとパリサイ派
イエスの時代は、ローマ支配下であり、しかも代々ユダヤ人の支配勢力としてサドカイ派、そしてその追従者であるパリサイ派が実権を握っていた。
つまり、硬直した社会であり、流動性の無くなった社会はーー貧富の差を生みやすくする。
それでイエスは、人数としては多い追従者のパリサイ派を特に非難するのです。
本作をここまで読まれ、何故イエスはパリサイ派をそこまで非難するのか分かりづらい方も多いと思いますがーー
イエスが、『福音書』の中でパリサイ派をよく非難しているその理由がーー
『マルコによる福音書』第二章のシーンをみればよく分かる。
ある日、イエスとその一行が麦畑を通った時、弟子たちはあまりの空腹に、つい麦の穂を食べてしまった。
そうすると、もともとイエスを疎ましく思っていて隙を窺っていたパリサイ派の者たちが、
「あの人たちは何故、安息日にしてはならないことをするのですか」
とイエスに問い質した。
その時イエスは、こう答えた。
「安息日は人のために設けられたもので、人が安息日のためにあるのではない」と。
これは名言である。
パリサイ派は律法至上主義で現状の維持が最大の目的なので、自分たちの信じていることを絶対とすることで、他の者を抑圧し、そのプライドを満たしていた。
つまりパリサイ派にとって、律法・戒律は、その現状を維持しプライドを満たすためのーー
武器・手段になっていたのでした。
ーーイエスは、その矛盾を突いたのです。
安息日というのは、神が天地創造の七日目に休憩したことからーー
人間がそれにならって設けられた掟です。
安息日の間は、働くことも食べることもできない決まりになっていました。
ここで大事なことは、七日目に休むこと自体ではなくて、もともとはーー
神と同じことをするのは、人間にとって良いことだからしよう、ということにあります。
それなのにパリサイ派は、主客逆転して、安息日を守らない者はーー
全て悪い者だとした。
イエスは、その考えの間違いをただしたのである。
あくまでも安息日というのは、人間がよりよく生きるためにあるものであって、
安息日を守るために人が生きているわけではない、と。
ーーこれは現代社会でもよくあることですよね。
何のために設定されたルールなのか?
設定されたルールを守れない場合、全て破った人が悪いのか?
そもそも守れないようなルール設定自体が、そもそも間違っていないだろうか?




