4『逃げない信長』
1582年天正十年六月二日早朝ーー
本能寺は完全に明智光秀の軍勢に包囲されていた。
しかし、実は最終的に本能寺炎上で幕を下ろすこの事件にはーー生存者がかなりいるのである。
というのは、光秀の目的は信長であって、信長一族縁者皆殺しではなかったからだ。
なので光秀軍は、本能寺を包囲したあと信長の身の回りの世話をする女房衆を逃がしているのだ。(『信長公記』)
つまり女性は逃がされたのである。
(その時、信長の正妻お儂の方も脱出したという話もある)
今までの信長の緊急事態の行動原理ーー
わずかな可能性でもあれば、信長は生きることを諦めない!を知っている者からすればーー
「何故、女装してでも女房衆に紛れて逃げないんだ!」
と凄く感じずにはおられない。
もちろん女装がばれて恥を晒しながら殺される可能性も多いにある。が、この完全包囲の中頑張って戦ったところで多勢に無勢、百倍の兵力差で信長が生き残る可能性はゼロなのである。
ーーもちろんその場面で潔く切腹する武将も多いだろう。
しかし、恥を外聞をプライドすら捨ててでも生き残る可能性が少しでもあればそれに賭けるはずの信長である。
それに妹のお市の方は戦国一の美女といわれ、信長自身も女性のような端正な顔立ちで、しかも信長の一代記である『信長公記』によるとーー
地元のお祭りの時には女装して皆と踊り、人々から「まるで天女のごとし」と呼ばれたあの信長である。
決して信長ならば、女装して女房衆に紛れて逃げることもありえない話ではないし、いつもの信長なら実行していてもおかしくないのである!
ーーならば何故、信長は逃げようとしなかった?
それに、そもそも本能寺にその日泊まることを決めたのも、その守りの人数を手薄にしたのも信長自身の判断なのである。
となれば、ここは逆転の発想をしてみた方がいいのではないか?
……そう、この日の信長がらしくないのではなく、
信長自身が、明智光秀を本能寺に呼び寄せたとーー!!
またまた「そんな馬鹿な!」な話の展開ですが……
ーー信長自身が光秀を呼び寄せた、証拠が実はあるのである!