39『いらだち』(イエス)
○イエスのいらだち
イエスの優しさにはついては前述しました。
だだ“いらだち”の方は、信長と違いーー
イエスのいらだちと言われても、私たち日本人にはピンと来ませんよね。
だだ実は、意外と聖書にはイエスがいらだったりする場面が多くーー
声を張り上げて怒ったり、しまいには市場の机をひっくり返して、暴れたりといった場面まであります。
これは《神の子》といっても人間であるイエスの、ーー人間臭さがするところです。
そのイエスの意外なエピソードを一つ。
(『マルコによる福音書』第十一章)
彼らがベタニアを出たとき、イエスは腹が空いていた。
遠くにイチジクの木が見えたので、何か実があるだろうと来てみたが、葉の他には何も見えなかった。
まだイチジクの時期ではなかったからである。
するとイエスは木に向かって、
「今後いつまでも誰も、お前の実は食べぬ」と言われた。
……この部分だけみると、
お腹が空いているのにイチジクの実がなってないからーーイエスがいらだち逆切れしたみたい。
この引用箇所を読んで、驚かれた方も多いかとは思います。
が、聖書は前述した《海の上を歩いたイエス》のようにーー実に隠喩、例え話が多いのです。
それでこの「実のないイチジク」とは、
この場合、改心する心はあるのに、頑なに旧習に固執して拒む、パリサイ派への嘆きの言葉を表しています。
パリサイ派とは、当時のユダヤ教の宗派のうち、一番イエスに対して反感を持っていた律法・戒律絶対の人々のことです。
イエスは簡単に説明すると、ユダヤ教の改革を目指していた。
なので、律法遵守派であるパリサイ派によって、イエスは常に行動を監視されーー
少しでもユダヤ教の戒律に反する言動をすれば、“偽救世主”として、裁判にかけようと考えていました。
イエスは本当は、わかりやすい言葉て人々に伝えたかったであろう。自らの思いを自らの考えを自らの願いを。
しかしそれな叶わないもの。
はっきりとユダヤ教改革の声を上げれば、即捕まってしまう。
ーーまだその時ではない。
ーーそう、その時がくるまでは……
イエスの苦しみ、イエスの悲しみ、そしてイエスのいらだち……
「実のないイチジク」の話は、実はそういうイエスの人間としての苦悩、そしてこの世に対するーー
ーー嘆きの言葉なのでした。