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262『信長とザビエル【運命の邂逅】』(4)~大うつけ信長、ついに京都に行く~

織田信長の少年~青年時代は、

尾張半国の主となった織田信秀の嫡子、いわば御曹司でありながら……

《尾張の大うつけ》と呼ばれるほどに、大馬鹿者・やんちゃ者でした。


『信長公記』には、

『鷹狩を好んだ。行儀は悪く、町では人目も憚らず柿や瓜をかじり、餅を食い、人に寄りかかり、肩にぶらさがって歩いていた。』


とか、父信秀の葬儀の際――

『信長公の焼香の時間となった。その時の出で立ちと言えば、長刀と脇差を縄で巻き、髪は相変わらず茶筅にたて、袴もはかずにいた。

その格好で仏前へ出、抹香をわしづかみにして投げかけ、すたすたと帰ってしまった。』


ということで、『信長公記』によると信長は18才頃まで、こんな感じだったので、家臣は元より近隣諸国にも【尾張の大うつけ】との噂が拡がっていたぐらい問題児でした。


――ということで日々、信長は勝手に城外に出ては、

村の子供たちと石合戦や水合戦に明け暮れたそうです。

おかげで近習の子供たちが皆、元気で活発になるという良い現象も起きたということです。

またこういう民たちとのフランクな付き合いの中から、秀吉(後の豊臣秀吉)との出会いが生まれたり、当時織田家の人質になっていた松平竹千代(後の徳川家康)と友情を交わしたり、信長はかなりオープンな性格なのです。


そしてそして、『信長公記』を元にして記された『織田軍記』には――

なんと少年時代の信長についてとんてもない事が、記されてあるだ!


少年時代の信長は――

『また、或る日忽然と尾張から姿を消し、上方見物に出かけてしまったこともありました。』


そうなんと、《信長は上方へ登ったことがある》と、記されているではないか!


上方とは基本的に当時、京都周辺を指す言葉なので――


つまり、信長がザビエルと出会うための前提条件、

《信長が少年時代に上洛したことがある》ことを示す根拠になりうる文献に、ついに出逢ったのである!


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