236『【徹底比較】本能寺の変、七つの謎』(3)
《第六、家康の伊賀越えは、実は簡単だったのか?
そしてその後、織田領の甲斐・信濃に侵攻したのに、問題とならなかったか?》
○通説
本能寺の変後、本拠地三河に光秀軍を避けて戻るには伊賀越えをするしかない。
しかし伊賀は反織田の地なので、同じく伊賀越えにトライした穴山梅雪は、伊賀の土豪に殺された。
家康自身が“人生最大の危機”と述べた通り、命がけの決死の行軍であった。
家康の織田領侵攻については――
武田旧臣が信長の死を知って織田領の甲斐で反乱を起こしたり、また北条氏もこの期に乗じようとするのが予想されたため、家康や織田家の被害を押さえるための予防的占領。
なので、光秀討伐後の織田重臣による今後の織田領についての会議『清須会議』の際も、家康の行動は不問とされている。
○『四二七』説等
実は伊賀衆と家康は懇意の仲で、服部半蔵などの手助けもあり、余裕で本拠地に帰ることができた。
しかも、事前に光秀から事変を聞いていたので尚更である。
またその期に乗じて、家康領の隣接地の大名穴山梅雪を討った。
変後の織田領の方針を決定した『清須会議』を主宰した羽柴秀吉も、光秀本能寺計画を察知しており、それを放置したということで、家康の行動を殊更に非難できず。
・疑問点
やはり光秀から信長の『家康暗殺』計画を聞いていたのなら不自然。どちらにしても変の時に堺に小勢でいる訳で、反信長の者が信長の同盟者家康の命を狙うことも十分ありえるのに余裕すぎる。
○『福音書』計画
信長は使徒たちに“自らの死”という試練を与え、それをいかに早く克服するのかを後継者選びの基準とした。
つまり信長の死は、家康には全くの予想外のことで、家康の伊賀越えは全く通説と同じで決死の行軍となる。
織田領侵攻についても、通説と同じである。
次回、では信長のあとに天下人となった秀吉は、本能寺の変を事前に知っていたのか否か?




