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224『【本能寺の変】“旧説”が、全て消え去る日』〈3〉

○明智光秀、信長への『怨恨説(私憤説)』


これは、『怨恨説』のほとんどの根拠が、講談話や二次資料・三次資料の場合が多く――

逆に一次資料と呼ばれる信憑性の高い文献ぼど、信長の光秀への信頼、そして光秀の信長への信頼を感じさせる内容のものが多い。


結局、光秀が謀叛を起こした事実があるので、そしてその原因・動機が全く不明なので、

事件から逆算して理由を探して、創作して講談話へとなって行った。


事実、天正九年(1581)六月二日――

つまり、『本能寺の変』のちょうど一年前に!

明智光秀が家臣たちに宛てた書簡が残っている。


『自分は石ころのような落ちぶれた身分であったのが、信長様にお引き立て頂き、莫大な兵を預けられる地位になった。その上は法度をただし、無駄を省き、一族家臣は子孫に至るまで主君(信長)のため粉骨を促すため、この軍法を定めるのである。』

(『明智光秀家中軍法』)


またなんと、本能寺の変の半年前!の天正九年十二月四日、そう変直前といってもいい時期に定めた明智家『家中法度』(山口県民俗資料館所蔵)にも、“信長の家臣たちとは揉め事を起こさぬように、そんなことが起きれば信長様に申し訳ないから”というような内容がかかれてあり、信長への気配りを感じさせる。


――もちろん、年明けた天正十年に、本能寺の変の要因となった出来事?が起きて、忠臣光秀の気持ちが心変わりして謀叛人光秀になった。

という反論も成り立つが、逆にいうとこんなに信長への忠義を感じている光秀を謀叛に走らせるほどの、よっぽどなことなど起きうるのであろうか?

そんなことが、本当におこるのか?

そんなことが、本当に存在したのか?

ということである。


そう、一次資料には光秀謀叛の意志が全く見受けられないのに、羽柴秀吉が光秀を倒したあとに書かれた二次資料・三次資料には光秀の謀叛への動機がたくさん出てくるのは……

結局、証拠となる信憑性の高い文献(一次資料)が全く存在しないから、信憑性のかなり低い二次資料・三次資料を“誰かが”創作して、光秀が謀叛をしたように“こじつけ”たようにも考えられる。


ということで、以下の諸説――


○人間性不一致説

○不安説(・焦慮説・窮鼠説)

○武田氏等との内通露顕説

○人間性不一致説

○秀吉ライバル視説


等も含め――

本能寺の変半年前の『家中法度』か残っている以上、そしてそれを覆すような一次資料が現在のところ存在しない以上、《本能寺ミステリー》の【真相】として、『光秀の個人的動機』説は、『信長による福音書計画』説を持ち出さなくとも――

全て否定され、消え去るのであった。


――最後に光秀が何かの病気で正常な判断が下せなかったという、光秀『ノイローゼ等の疾病説』にたいしても――


これも、『突発説』と同じ反論で説明できる。

光秀がノイローゼで、信長を倒そうとしたとしても、まず家老・重臣を納得させなければ、総勢二万の軍勢の出陣は不可能だからである。

つまり、本人がノイローゼだったとしても本能寺への軍隊行軍としての本能寺襲撃は、不可能なのだ!


……しかし、光秀本人の個人的動機が全否定されても、《光秀実行犯》説は、否定されない!


何故なら、光秀を操った『黒幕』説が数多く存在するからである。


次回、今度は全ての『黒幕』さんたちに消え去ってもらいますか!


次回『黒幕のいない本能寺』


乞う、ご期待!

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