219『とある、光秀軍一兵卒の【本能寺体験記】』
○『本城惣右衛門覚書』
本城惣右衛門という明智光秀軍の一兵卒が、『本能寺の変』に従軍して参加した当時のことを思い出して書いた――
“体験記”のようなもの。
――つまり、もしこの者の書いてある事が真実なら、
『本能寺の変』ミステリーは、解決となる!とも言われている。
そう、信長による『徳川家康暗殺』計画失敗説――
略して本能寺の変『家康暗殺説』が、本能寺の変の謎の《真相》ということになる。
もちろん、真相が確定した訳ではないが、一読すると本能寺襲撃実行者の証言というものの持つ迫真の臨場感を感じることができる。
同書は現在、天理大学附属天理図書館所蔵されている。
惣右衛門の晩年である江戸時代の寛永一七年(1640年)に、親族らしき三人の者に宛てた手紙であり、約五千字の文章である。
つまり、親族宛の“武勇伝”的内容の私書を、しかも変から60年以上たってから述べているので、資料の信憑性には疑問があるが……
かなり興味深い内容なので以下に現代語訳を掲載します。
《現代語訳》
明智が謀反をして、信長様に切腹させたとき、本能寺に我らより一番乗りに侵入したというものがいたらそれはみな嘘です。 その理由は、信長様に腹を切らせるとは夢にも知らなかったからです。
その時は、太閤様が、備中に毛利輝元殿を討ちに侵攻していました。
その援軍に明智光秀が行こうとしていました。
ところが山崎の方に行くと思いましたのに、そうではなくて京都へ命じられました。
我らはその時は家康様が御上洛しておられるので、家康様を討つとばかりに思っていました。 (目的地の)本能寺という所も知りませんでした。
軍列の中から乗馬した二人がおいでになった。誰かと思えば、斎藤内蔵助殿の御子息と小姓でした。
本能寺の方に行く間、我らはその後に付き、片原町へ入っていきました。
そして二人は北の方に行かれた。我らはみな堀際へ東向きに行きました。
本道へ出ました。その橋の際に人一人がいたので、そのまま我らはその首を取りました。
そこより(本能寺の)内へ入りましたが、門は開いていて鼠ほどのものもいませんでした。
先ほどの首を持って内へ入りました。
おそらく北の方から入った弥平次殿と母衣衆の二人が、「首はうち捨てろ」とおっしゃるので従い、堂の下へ投げ入れ、(堂の)正面から入りましたが、広間にも一人も人がいないでした。
蚊帳が吊ってあるばかりで人がいません。
庫裏の方より、下げ髪の、白い着物を着た女一人を我らは捕らえましたが侍は一人もおりません。
(女は)「上様は白い着物をお召しになっています」と申しましたが、それが信長様を指すものだとは存じませんでした。
その女は、斎藤内蔵助殿に渡しました。
(信長様の家臣である)御奉公衆は袴に片衣で、股立を取り、二三人が堂の中へ入ってきました。
そこで首を又一つ取りました。 その者は、一人奥の間より出てきて、帯もしていませんでした。 刀を抜いて浅黄色の帷子を着て出てきました。 その時に、かなりの人数の(我らの)味方が入ってきました。 それを見て敵は崩れました。 我らは吊ってある蚊帳の陰に入り、この者が出てきて通り過ぎようとしたときに後ろから切りました。
その時の首と(先に寺の門前で取った首)で二つ取りました。褒美として槍をいただきました。
野々口西太郎坊の配下にいたときのことです。
(引用おわり)
……なんとこの『本城惣右衛門覚書』が全て真実であっても、実は本作の提唱する――
『信長による福音書』計画説は否定されないのである!
次回、『【反論】信長による《家康暗殺計画失敗》説』
乞う、ご期待!