213『明智光秀VS. 羽柴秀吉』天下を分けた、信長の生死(2)
羽柴秀吉の『信長生存説』を流布する謀略ですが――
ちょうど『Wikipedia』の『中国大返し』の項が分かりやすいので引用すると――
6月5日、秀吉は摂津茨木城(大阪府茨木市)の城主で明智光秀に近い中川清秀に対して返書を送っている。それによれば、野殿で貴下の書状を読んだが、成り行き任せで5日のうちには沼城まで行く予定であると記しており、同時に、ただ今京都より下った者の確かな話によれば
上様ならびに殿様いづれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候。
と述べている。
つまり、上様(信長)も殿様(信忠)も無事に難を切り抜け、近江膳所(滋賀県大津市)まで逃れているということであり、続けて福富平左衛門が比類ない働きをした、めでたい、自分も早く帰城すると記している。
これは、明らかな虚偽の情報であった。
この手紙が高松の陣で書かれたのか、野殿で書かれたのかは不明であるが、本能寺の変に伴う清秀の動揺や疑心暗鬼を、偽情報を流してでも鎮めようとしたものと考えられる。秀吉は既にこの時点で、情報操作によって少なくとも清秀が光秀に加担しないように気を配り、事を自らの有利に運ぼうと画策したことが覗われる。(引用終わり)
このように秀吉は、上記でも解るように謀略戦を繰り広げていた。
――それにしても何故、まだ秀吉軍から遠かった近畿周辺の武将たちが、京都周辺を平定した明智光秀につかなかったのであろうか?
特に明智光秀の寄騎であった細川藤孝と筒井順慶は、当初光秀にくみするのではと目されていた。
しかし史実では、光秀が親戚でもある細川藤孝に、初めて協力の申し出をした時に――
藤孝は、亡き主君信長の為に頭を丸め幽斉と号し隠居し、“中立的立場”となった。
しかしである、結局のところ信長忠義の為に光秀に敵対的意思示したわけではないのである。実際、山崎の合戦においても、どちら方としても参戦していない。
細川家は戦国の華麗な“渡り鳥”と言われるほどに主家を代えていることからして、中立的立場になったのは、忠義よりも情勢を見極める為であったといえる。
そして筒井順慶についても同様であったといえる。変後、小勢を出して光秀に協力した場面もあったようだが、結局山崎の合戦に参加しなかった。
――結局つまり、正に織田信長の遺骸、つまり“信長の首”という御印、信長の死を確実とするものが出てこなかった為に――
特に変数日は、『信長生存』の可能性は多いに考慮すべきことであったから、緒将は直ぐには立場を鮮明にできないでいるうちに、秀吉がどんどん近畿に迫ってきたという情況なのであった。
つまり、信長の遺骸が無かったことで光秀は、直ぐに協力者を得ることができず、
逆に秀吉は、信長の遺骸が結果的に出てこなかったことにより、数日の『信長生存説』に信憑性を持たせる結果となり、協力者を得やすい情況となっていった。
――そう、『信長遺骸がみつからなかった』ことで、明智光秀は羽柴秀吉に破れたと言えるのである。
次回、しかし通説ではなく――
本作の『信長による福音書』計画においては、《信長の遺骸が無かった》ことは、大いなる奇跡を意味する!




