21『すべては、人々のために』(イエス)
○イエスが目指したもの
イエスの生まれた頃のユダヤ人は、ローマ帝国に支配されていました。
支配といっても、武力で制圧したり、宗教を禁教するようなことはありませんでした。
しかし、当然ですが支配させている以上ーー
自治権は当然制限されていますし、ローマの命令は絶対ですし、税金をローマに払わなければなりませんでした。
当然、ユダヤ人は独立したいと思っていましたがーー
世界帝国ローマの前では独立戦争を起こし、そしてそれに勝つことは到底無理な話でした。
そこでユダヤ人たちが求めたのがーー
《救世主》でした。
救世主といっても、例えばダビデ大王とか、アレキサンダー大王のような軍事的成功をもたらす英雄ではなくーー
というよりも、軍事力ではそもそもローマに勝てないので、そんな無理な英雄を求めるのではなく、
預言者イザヤの預言書『イザヤの書』に、
“預言された者”の到来を待ち望んでいました。
『旧約聖書』のイザヤの書に記されたーー
『自ら懲らしめを受けて、我々に平安を与え、その打たれた傷によって、我々は癒される』
という言葉を体現する者が、ユダヤ人が求める救世主の姿でした。
つまり、自己犠牲によって人々の為に、刑罰である鞭打ちの計をあえて受けるような者の登場こそが、我々に救済を与える。
ーーと、ユダヤ人は考えたのです。
ユダヤ人であるイエスは、当然それを知っていた。
だからこそ、自らが人々のために鞭を打たれることを望み、また十字架の刑に処されることを選んだのでした。
というのは、イエスは“偽救世主”として捕まったのですがーー
鞭打ちの刑の時に自らが偽物の救世主と認めれば、なんと《十字架の刑》ーー
つまり死刑は避けられたのです。
が、イエスは自身が偽物の救世主とは決して認めなかったのです。
なぜなら……
なぜならそれがイザヤが預言する救世主の行動だと信じてーー
なぜならそれが人々を救う方法だと信じてーー
このように自己犠牲によって、人々を救おうとしたイエス。
……と、どこが戦争屋信長と類似しているんだ!
と、読書に怒られそうですが、
やっぱり信長とイエスは、似ているのです!
当然その理由はーー
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