209『【真実の】信長の棺part3』
――もちろん、この『信長公阿弥陀寺由緒之記録』という文献に記されてあることが、全て正しいかどうか?
部分的に正しいかどうか?
……現在では解りません。
……しかも、この文献には、しっかりした《反論》まであります。
それは――
まず第一に、
変当時の本能寺と変当時の阿弥陀寺の間は約3㎞もあり、光秀の本能寺襲撃を知ってから、清玉上人が駆けつけて完全包囲の本能寺に潜入することが可能かどうか?
という距離的・時間的問題。
第二に、
信長の遺体は明智軍が一番、手にいれたい成果です!
当然遺体が無ければ取り逃がした可能性もてで来るので、
本能寺の変の開始とともに信長の居場所または遺体を必死になって探索していますし、それは争乱のあと数日も探索しています。
つまり、清玉上人が運良く仮に本能寺にたどり着いたとしても、また運良く明智軍の完全包囲の中、寺内に潜入したとしても、
それだけで信長の生体または死体に出会える訳ではないのです。
なんといっても、寺内は明智軍兵だらけなんですから。
第三に、
あまりの幸運の連続の中、清玉上人は信長の遺体にたどり着いたとしましょう。
当然、遺体を背負って逃げるのは目立ち過ぎますが……
だからといってまだ明智軍が攻撃している最中に信長の遺体を焼くことはとても無理でしょう。
第四に、
《本能寺の変》が、1582年・十六世紀のことですが、この文献は十八世紀に書かれたものといわれています。
つまり、要約すると――
清玉上人が変襲撃直後に本能寺に移動することは、ほぼ不可能。
清玉上人が、完全包囲の本能寺に潜入することが、ほぼ不可能。
清玉上人が、信長の遺体を明智軍より早く見つけることは、ほぼ不可能。
清玉上人が、争乱の中で遺体を焼いて阿弥陀寺まで運びだすことは、ほぼ不可能。
……なぜあえて“ほぼ”と記しているかというと、文献に書かれてあることが全て本当だった場合は、当然、達成可能だったことになるからですが……
この文献は十八世紀のものなので、史料的信憑性が低い。
つまり、客観的に見て、清玉上人が本能寺の変の時に、寺内に潜入して、信長の遺体を見つけ、しかも争乱の中で遺体を焼いて、しかもその遺骨をまた3㎞先の阿弥陀寺まで無事に持って帰ることなど不可能なことなのである。
――この反論を見て、
「なんだ、この文献、真偽不詳じゃん」
「結局、信長の遺骸消失の根拠にはならないのでは?」
拙者「当然、そう感じますよね?
拙者も実は今日までこの文献、重要視していませんでした」
読者「そうですよね……えっ、今日まで?」
「はい、今日この文献の重要性に気付いて、
次回分【速報】としてリアルタイム執筆しております!」
(もちろん、実際にアイディアを、文章に置き換えるのにどうしてもタイムラグが出てしまいますが……。)
――次回、
信憑性が無く不可能だらけのこの阿弥陀寺文書、
実はなんと――
『信長による福音書』計画説だと、
驚くことに不可能が可能になってしまうのである!
次回《本能寺ミステリー》『【真実の】信長の棺part4』
【速報】信長の遺体消失理由、完全解明!
乞う、ご期待!




