206『【真実の】信長の棺』
○《本能寺の変》最大のミステリーの一つ、
『何故、織田信長の遺骸が見つからなかったのか?』
明智光秀の81句の連歌解釈をする前に、
……そもそも何故、信長の遺骸が見つからなかったことがミステリーになるか?
というと、
当然通説では、明智光秀が信長を本能寺において完全包囲してから、突然襲撃をかけたからである。
つまりまず脱出不可能の中で、つまり生きて外に出ることが不可能な状況なので、何故か遺骸が見つからなかった。
もちろんこの結果については、いろんなアプローチがある。
一、<信長生存説>
織田信長は、実は本能寺では死んでないから、本能寺に遺骸が見つからなかったのは当然――という説。
この説は大別すると、信長は本能寺の変を完全に逃げ切って、その後も生きていたが、何らの理由で、その後歴史に顔を出さなかった。
その理由は、重症重病説・変後、秀吉や家康を影で操った黒幕説・海外旅行説など色々あるが、まぁ、全て根拠の無いフィクションの世界のものばかり。
二、<一般的解釈>
信長は確実に本能寺で亡くなったが、なんらかの理由で遺骸が消失または、分別不能となった。
その理由として、遺骸が無くなる又は分別不能なほどに、本能寺炎上の業火で焼かれた。
ただこの一般的解釈でも、異論があり――
現代の火事とかで遺体が出てくるので、信長の遺骸が無いのはおかしいという説もある。
その場合、本能寺の火薬庫に引火して爆発したから、遺骸が消失したという説などもある。
三、<小説『信長の棺』的解釈>
信長は本能寺の建造物内では死ななかった。
……が、別の所で結局亡くなった。
詳しくは、ネタバレになるので『信長の棺』を読んで欲しいのですが、結局反論としては――
じゃあ、別の場所で亡くなったとして、遺骸なりその一部なりが別の場所で見つからないことには証明できない、ということである。
四、<『信長による福音書計画説』的解釈>
詳細はまた以降で述べるが、
――結論として、織田信長は確実に本能寺で亡くなった。
ここまでは<一般的解釈>と同じである。
ただし、遺骸が見つからなかったのは、
そもそも『本能寺の変』自体が――
イエスのように、我が身を捧げて信長が神と契約するための儀式、つまり信長の自作自演の計画なので、
信長が命を絶ったあと、確実に遺骸が見つからない方法を事前に用意してから遂行した。
だから、“計画通り”見つからなかった。
この拙者の説は、
読者様が客観的にみても、
根拠の無い生存説や、別の場所で亡くなった説よりも、一般的解釈にかなり近く、また遺骸の無い理由も明確ですから――
つまりそれほど荒唐無稽な解釈では無いと感じて頂けると思います。
もちろん本作が提唱するら『信長による福音書』計画というのが真実だとしたら、ということですが。
ただ、今まで述べて来たように『愛宕百韻』の句の全てが、全てこの『信長による福音書』計画で自然に解釈できる事実がありまので、
本作の提唱する『信長による福音書』計画は、真実の可能性も結構高いのでは?と拙者は考えております。
もちろん、それを信じるか?信じないか?
は、読者次第ですが。
そしてその前に作者としては、読者様に『読み物』として楽しんで頂けていたら幸いです!
《次回予告》
――しかし、そもそも『信長の遺骸が無い』のは、何故そんなに重大なのか?
その《真実》の答えが、ついに解き明かされる時――
神は我々の前に姿を現す!
次回『イエス、復活の時』
久々にもう一人の主役、登場に――
乞う、ご期待!




