205『福音書計画説的解釈』
『愛宕百韻』の《名残・表》に載る八十句目――
《本能寺の変》で、織田信長の遺骸が見つからなかった理由を『暗示』している心前の問題句――
『むら蘆の 葉隠れ寒き 入日影』
この句を受けて、次に詠たわれた句は――
81 たちさわぎては 鴫の羽がき 光秀
そう、本能寺の変の実行者である明智光秀なのである。
・通常解釈
※「鴫」とは、嘴の長いシギ科の鳥。
「羽がき(羽搔き)」とは、嘴で羽を掻き繕うこと。
鴫たちが、大きな鳴き声で騒ぎなから、クチバシで羽をかきつくろっている。
これも、このままでは鳥がじゃれているだけのイメージの歌になるが、『西行法師』というキーワードで解釈すると、歌に込められた《真意》が解る。
ということで、今回は「鴫」の句を西行法師の歌から探すと――
なんとまぁ、驚くべきことにというか、予想通りというか、
本作の提唱する『信長による福音書』計画説にぴったりの名歌があるではないか!
それは、『新古今和歌集』にのる西行法師のこの歌です。
心なき 身にもあはれは しられけり
鴫立つ沢の 秋の夕暮
拙者が、解説解釈する前に、
「あっ本当だ!この西行の歌、《本能寺の変》を歌っているみたい」
と感じた読者様、解ってきましたね!、流石です!
ここまで、連歌解釈を続けてきた甲斐があるというもの。
――そうこの『愛宕百韻』の連歌は全ての句が、本作で解釈してない句も含めて、『信長による福音書』計画説で自然に内容が最初から最後まで全く矛盾なく繋がっていくのです。
そう《織田信長の公認》の百韻連歌興行という――
この《絶対条件》に気付くことが出来たら、
そして古典からの引用句を正しく見抜けることができたのなら――
自然にこの『エヴァンゲリオン計画』説で、なんの問題も無く解釈できるのです。できてしまうのです。
――では、この西行法師の歌を解釈してみましょう。
心なき身にもあはれはしられけり
鴫立つ沢の秋の夕暮
・通常解釈
出家して人の感情を捨てたにもかかわらず、
秋の夕暮れに鴫が飛び立つ沢をみていたら、
なんとも言えない感動が心にわいてきたよ。
・『福音書計画説』的解釈
もう信長様を、信長様の指示で討つ覚悟を決め――
自らの感情を抑えてきた。
しかし本能寺の空が赤く染まり、信長様は空へと帰られることを想うと……
押さえていた感情が込み上げてきた。
――と、ここままで読んで、
「ちょっと待って、西行の歌自体は『愛宕百韻』の歌じゃないのに……」
「本能寺の変と時代が全く違う平安時代の西行法師の歌を、『信長による福音書』計画説で解釈するのは、さすがに時代錯誤のもうめちゃくちゃ。」
と感じるかも知れませんが、めちゃくちゃでは決してないのです!
――何故なら、この西行法師の<通常解釈>を理解している光秀が、しかも西行法師のように『自らの望む死に方をしたい』という憧れの感情を持っている明智光秀が、
これから行う信長の計画である『本能寺の変』の前の心境を西行法師の歌に乗せて詠んだのが、『愛宕百韻』での光秀が詠んだ81句なのであるからです。
つまりもっとシンプルな言い方をすれば、
光秀は憧れの西行法師の、その名歌に自らの感情を投影して解釈し、その解釈をもとに自ら句を練り上げたのです。
そう、先にあげた<福音書計画説的解釈>は、拙者がそう解釈したことではなくて――
明智光秀が『信長による福音書』的思考で、そう解釈して西行法師の歌を引用したという意味なのです!
何故そう言い切れるかというと、
そもそも明智光秀が――
『エヴァンゲリオン計画』の実行者なのだから!
――ということで、また連歌解釈になってしまいましたが、
次回こそ、『【真実の】信長の棺』です!
乞う、ご期待!




