17『偉大なる先駆者からの承認』(信長)
織田信長は1534年、尾張の守護代の奉行の一人、織田信秀の子として生まれた。
しかし、彼の幼年期は守護代の御曹司といった大人しいものではなくーー
山や川、野を駆け回り、街に出ては不良仲間と食べ歩きしながら悪さをするという、いわゆる暴れん坊でした。
その上、父信秀の葬式の時もーー
全く場不相応な格好で遅刻してやってくるや、土足でどかどかと上がりこみ、墓前に抹香を投げつけるという始末。
それで家臣たちは信長のことをーー
「うつけ」殿、つまり馬鹿殿と、影で呼ぶようになっていた。
……しかし、その馬鹿殿うつけ殿を評価する者がいました!
それはーー
敵国であった美濃の大名、斉藤道三であった。
道三は、下剋上の代表的存在でありーー
一説によると、京都の油売りの商人から身を起こして大名まで上り詰めた、凄い器の人物です。
また信長の業績で有名な『楽市楽座』の制度はーー
もともと道三が美濃で、施行していた制度を、大規模に信長が発展させたものだといわれています。
ーーそう、斉藤道三は改革者のオピニオンリーダー的な存在でした。
ーーその彼がです、
『信長公記』によると、信長との初対面の後ーー
「わが家来たちは、信長の軍門にくだるであろう」
と、家臣たちに述べたのです。
簡単にいうと、
「お前ら全員、そのうち信長の家臣じゃ」みたいな。
……なんとまだ十六歳の信長に、美濃のマムシと呼ばれーーもう大名として実績十分な道三がですよ!
しかも、それだけでなくーー
道三は遺言にも、『美濃を譲る』と書いてあったくらい、もの凄く信長を評価していたのだ。
道三の娘帰蝶(儂姫)の婿として信頼していたこともあるが、道三にも後継ぎがいたのにーー
婿殿信長に国を譲ろうとしたのだ。
ーーそう、信長の最大の理解者は斉藤道三であり、彼が信長に多大なる影響を与えたのは言うまでもない。
このように、
道三とヨハネーー
斉藤道三とパプテスマのヨハネという、
偉大なる先駆者から認められたーー信長とイエス。
そう彼ら二人はーー
その先駆者に最高の評価と影響を受け、世に本格的に出ていくのです。
ーーそして信長とイエスは、先駆者を多くしのぐほどの飛躍を見せたのでした。
ーーそしてもちろん、まだまだ類似ポイントは終わりません!
《次回予告》
なんと、彼ら二人の仲間たちまで……
……そっくりだったとは?!
乞うご期待!
●只今の信長・イエスの“類似率”はーー
……30%。




