第90話 混沌の爪跡
『邪神』と化したカイトの目の前に現れたのは、穢れ無き一人の少女『ユイ』だった。
人間のなりを捨てた怪物を前に、人間とは程遠い存在となった化物を前に。
何を見て、何を感じ、何を思う。
その答え、聞かなくとも分かりきっている
黒い血肉の巨体、無数の手足と触手を伸ばし、顔面には無数の種類の目が付いている。
その全ての眼球がユイに向けられると、邪神は口を閉じたままじっとユイを睨みつける。
恐れろ───。
震えろ───。
泣き叫べ───。
『俺』は───。
ユイは一歩、踏み出した。
それは邪神から逃げる為の一歩ではない。
自らの意思で一歩足を前に出すと、自分の目の前に降臨している邪神に近づいてみせたのだ。
は───?
な、ぜ───?
その足は止まらない。
ゆっくりと邪神の元へと近づいていくと、あろうことか手を差し伸べ邪神の肉体に触れてみせたのだ。
感情が歪んでいく。
恐れ、震え、困惑し、混乱し、思考が交差する。
何故? 何? どうして? この少女は自分を恐れない……?
訳が分からない……。
人を殺した、沢山殺した、沢山甚振り、沢山嬲り、沢山弄んだ。
救いようの無い穢れ、醜い化身、重なる罪、圧し掛かる重圧、逃げられない罰。
自分は邪神。全てに嫉妬し全てを憎み全てを恨む禍々しい悪───。
今、力を振るえば簡単に殺せるであろう。
邪神はユイを見下ろし、目と目が合った。
その瞬間、ユイの目から涙の雫が零れ落ちる。
「カイト君……辛かったね……」
あっ───。
そう、か───。
その瞳を見て、その言葉を聞いて、ようやく理解できた。
ユイは『邪神』を見ているのではない。
ユイは『カイト』を見ているのだ。
それは夢でも幻でもない、誰もが慄き畏怖した存在『邪神』の姿がユイには見えていないのだ。
だからこそ見える、だからこそ分かる。
今、ユイの目の前に居るのは、救いを求めて涙を流す孤独な一人の少年『カイト』───。
ふと、自分の足元に擦り寄ってくる感触にカイトは見下ろすと、あの時の猫が寄り添ってきていた。
「カイト君だよね、猫を助けてくれたの」
ユイは知っている。
あの時何が起きたのかを、鮮明に。
カイトが一人、公園に入ったのを同じクラスの生徒が見ていた。
その見ていた生徒は何時もカイトを苛める生徒達であり、からかう為に後をつけたのだ。
そこでカイトが猫を撫でているのを見て、彼等はカイトをからかい、苛めはじめる。
また何時もの事か───カイトはそう思っていたが、今日はいつもと違った。
苛められるカイトを見ていた猫が、まるでカイトを助けるように生徒達に襲い掛かったのだ。
爪を立て、制服を引っかき、カイトを苛めようとする生徒に牙を向く。
どうして?
そんな小さな体で、相手は複数、ましてや人相手に……。
助けなんて求めてない。
逃げればいいのに、どうして自分なんかを助けようとしてくれるんだ……?
そんな疑問がカイトの胸で渦巻く中、カイトを苛めていた生徒達の矛先が猫に向けられた。
傷付けられた生徒は激怒、向かってくる猫にまで暴力を振るい始めたのだ。
躊躇いも無く蹴り上げられた猫はぐったりと横たわり、動かない。
カイトは、それが許せなかった。
自分が何かをされるのは構わない、けれど自分にとって大切な存在を傷つける存在だけは許せない。
初めてカイトは手を振り上げ、抵抗してみせた。
結果は……惨敗だった、相手は複数、思うように動けず殴られる一方。
だが、それでもいい。注意を自分に引きつける事が出来たのだから。
カイトは生徒達を挑発して公園を出る、当然皆がカイトを追って来るが、それも全ては猫の為。
猫は必ず生きている、そう信じてカイトは走った。
それから人目のつかないコンクリート橋の下に身を隠したカイトは、日が暮れるまでじっとその場から動かなかった。
全身が痛い。
口の中も切っており、血特有の鉄の味がする。
先程から足の震えも止まらず、カイトは壁に凭れかかりながら座り込んだ。
今頃生徒達は自分を血眼で捜しているのだろう。
それよりもあの猫はどうなったのだろうか。
明日、学校に行けば今日の件で更に苛められるだろう。
どうして自分がこんな目に合わなければならない。
怖い、不安だ、心配だ、辛い、苦しい。
でも、これでいい───。
無意識にほくそ笑む。
目蓋を閉じれば何も見なくてすむ、暗闇の中で何も考えなくて済む。
暫くカイトは目を瞑り、日が暮れるのをひたすら待ち続けた。
そして日が暮れて辺りが暗くなった頃、カイトは徐に目を開けると、その場に立ち上がり家へと帰るのであった。
ユイはカイトの身に起きた事を知っている、何故ならあの時公園で起きた光景の一部始終をグレイゼフの魔法により見る事が出来たからだ。
更に今カイトの身に起きている全ての事情も聞いた。
セレナの死、カイトの暴走、そしてその暴走を止められる唯一の存在が『ユイ』であると。
血も死体も瓦礫もない、白い無の空間。
邪神から目を放さずとも世界が一変していくのが分かり、世界は純白へと変わり空までもが真っ白に塗り換わっていく。
それは先程のような混沌と化した世界とは程遠い景色が広がる場で、一人の老人の声が聞こえてきた。
「邪魔が入ったせいで……ちと遅くなってしまったのう……」
杖を突きながら歩いてくる音が聞こえてくると、アルトニアエデン総隊長である男が後ろに振り向いた。
「グレイゼフ、貴様がこの世界を作り出したのか。あの少女は何者だ?」
グレイゼフは男の横に並ぶように立ち止ると、邪神と少女を見つめながら静かに語り始める。
「あの少女は、唯一『邪神』を『人間』に戻せる存在じゃよ……っ……」
声が弱々しくなっていったかと思えば、グレイゼフは眉間にシワを寄せその場に跪いてしまう。
「グレイゼフ……?」
「ぬかったわいっ……『黒牙』の裏切り者に深手を負わされるとはのう。回復には少々時間がかかりそうじゃ」
額には薄らと汗をかいており、肩で呼吸をするグレイゼフは俯いていた顔を上げ言葉を続ける。
「じゃが、邪神の件はこれでもう大丈夫じゃ。相応の被害を被ったが王宮は無事そうじゃしな」
魔神、そして邪神との戦いに終止符は打たれた。
理性を取り戻したカイトには既に邪神の面影などもなくなっており、グレイゼフや総隊長の目から見てもただの少年の姿に戻っていた。
それ故に邪神とは、その姿を見る者の恐怖や怒り、欲望や悲しみといった負の感情により変化するのかもしれない。
故に───。
『彼』から見たカイトは、未だ『邪神』にしか見えなかった。
「おぉおぉぉ゛ォ゛ォ゛オオオオオオオ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ゛!!!」
男の叫び声と共に、一本のトライデントが投げ下ろされる。
咄嗟に動いたのは体。
手で突き飛ばし、トライデントが空気を貫き地面に突き刺さった。
その衝撃で世界に広がっていた白い空間に亀裂が走ると、次第にボロボロと砕け散っていく。
再び地獄の光景がその全貌を露になり始めるが、その光景よりも『ユイ』の目には一人の姿しか映っていなかった。
「カイト……君……っ!?」
突き飛ばされ、その場に尻餅をついてしまったユイ。
目の前に立っているのはカイト。しかし、先程までの姿ではなくなっていた。
「ぐっ……ううぅ゛! ぁあああああ゛!!?」
カイトの右肩の根元から伸びているはずの右腕が消滅しており、その足元には無残にも切り落とされた腕が根元から血を滴らせながら落ちていた。
歯を食い縛り激痛に耐えるカイト、その腕が再生されることはなく、朦朧とする意識の中その場に跪いてしまう。
カイトの右腕を切り落としたトライデント。
その姿形に見覚えのあったグレイゼフは目を見開くと、即座に後ろに振り返って見せた。
そこには無傷の王宮が存在しており、その王宮の前にはアルトニアエデンの王が魔装着に身を包み君臨していた。
無傷の王宮……しかし、王宮が無事だったとして、その中にいる人間達が安全だという保障などない。
何故ならグレイゼフがこの場に来る前、邪神の眼球から放たれた紅い光は既に王宮を飲み込んでいたのだから。
「王よ、なぜじゃ!? ま、まさか───ッ゛!!」
グレイゼフは体の痛みに耐えながらもその場に立ち上がると、右手の杖を振るい魔法を発動するとその場から姿を消し、王宮の中へと瞬間移動してみせる。
「なっ……なんてことじゃ……」
長い通路にはバラバラに切り裂かれた男女の裸体が転がっており、既に血や体液の生々しい匂いが充満していた。
グレイゼフは一心不乱に走り始めると、王宮の一番奥にある王妃とその娘がいた部屋へと向かった。
床に壁、天井にまで人間の血飛沫が飛んでおり、周りの死体は皆服を脱がされ、破られているものばかり。
この場で何が起きていたのかなど容易に想像がつく。
部屋の扉の前には警護していたはずの兵士達の無残な死体が転がっており、グレイゼフは杖の持っていない左手で慎重に扉を開けていく。
どうか無事でいてくれ───そんなグレイゼフの思いを踏み躙るように、室内は既に地獄と化していた。
バラバラに切り裂かれた男共の無数の死体。血塗れのベットには服を脱がされ腹を裂かれた王妃が目を見開きながら死んでいた。
「っ……ぁ……」
その絶望にグレイゼフの口は渇き言葉が発せない、ヨロヨロと覚束ない足取りで王妃の死体に近づいていく。
惨く残酷な王妃の死体。グレイゼフがその王妃の死体の前に立ち、震える右手を伸ばし王妃の目蓋をそっと閉じる。
その時、ふと人の気配を感じたグレイゼフが横に振り向くと、そこには血塗れの引き裂かれた洋服を身に纏った半裸の少女、ジャスティアが虚ろな眼差しで立っていた。
「おぉっ……! ジャスティア……!」
グレイゼフは徐にジャスティアへと歩み寄ると、ジャスティアの前に跪き怪我が無いかを確かめ始める。
幸いにもジャスティアには目立った外傷は見えなかったが、グレイゼフの視線が下がると同時に両手を大きく広げ、優しくジャスティアを抱きしめた。
「すまない、ジャスティアよ……。ワシがあの時、強引にでも他世界へと避難させておれば……すまない、すまないっ゛……」
グレイゼフは涙を流しながら謝り続ける。
そんなグレイゼフを見ても尚、ジャスティアの視線は真っ直ぐ前を向いたまま動く事はない。
「……いっ……ぃ……さッ……ま……っ゛……」
掠れた声がジャスティアの口から零れる。
不思議で仕方ない。何故聞かない。何故探さない。
何故グレイゼフは、母と自分の身しか心配していないのかを。
「……っ……ぃ゛……さま────?」
幾ら考えても。
幾ら悩んでも。
幾ら苦しんでも。
名前が出てこない。
ふと壁に飾られた家族写真を横目で見る、そこには父と母、そして姉と自分の姿しか映っていない。
その瞬間、ジャスティアの脳裏に先程まで体験した全ての光景がフラッシュバックした。
オ前『僕が分』抹消『ジ』全『逃』憎、一『守』昇華『テ』マサか『殺す』何レ時『最高に』ガ『』快楽ニ゛『穢シ』許さ『待ッテ』い『イ』。『『俺ノ『名『前『ハ「『カイト』カイ『ト」「カ『イト』『カイ」ト』。
『許すナ。忘レるナ。オ前の大切な人間を弄び、全てを穢した存在の名───『カイト・スタルフ』ヲ』
「あああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁァァァァ゛!!?」
先程まで無表情だったジャスティアの顔が恐怖で引き攣り絶望に変わると、両腕で頭を抱え絶叫した。
ジャスティアの心が黒く塗り潰される。
大切な全てが抹消されていく。
この世で最も大切な存在。
大好きで大好きで、片時も忘れる事などなかった存在。
愛故に痛みを超えた、好きだから恐怖を潰せた、何をされても、何もかも許せる事が出来た。
なのに、だからこそ、なんで───その名が自分から離れる事を拒み続け、ジャスティアはその名を胸に刻み付けるように力を振り絞って名前を呟いてみせる。
「テト……おにぃさま……」
しかし、その名を言葉にした瞬間。ジャスティアの記憶、そして心から、実の兄『テト・リシュテルト』の存在は完全に抹消されてしまうのであった。




