第88話 哀れな決断
アルトニアエデンの西部に位置する場所、そこはカイトやユイが暮らす住宅地の在る場所だった。
殆どの家が潰れ、倒壊している状況の中、ユイのいた家だけは倒壊を免れていた。
自室の床で倒れたまま意識を失っているユイ、そこに猫が近寄り心配そうにユイの頬を舌で舐めると、ユイは漸く気が付き始める。
「んっ……うぅ……」
意識が朦朧とする中、目蓋を開けたユイは心配そうに舐めてくれる猫の頭を優しく撫でると、ゆっくりと起き上がり窓の外から見える景色に息を呑んだ。
「……えっ? ……なに、これ……」
つい先程まで、そこには何時もの変わらぬ町並みが広がっていたはず。
なのに今はほぼ全ての建物が崩壊し、人々の悲鳴や呻き声が辺りから聞こえる地獄絵図と化していた。
「リ、リーナ……リーナぁっ!」
ユイは一階にいるリーナの名前を呼びながら駆け足で部屋を出て階段を下りていく。
動揺で足元が覚束ず倒れそうになるものの必死にユイは一階へと下りリビングの扉を開けると、そこには両手で頭を抑えながら苦しむリーナの姿があった。
「うぅ゛っ! くゥ゛……ッ!」
激しい頭痛にリーナはその場で跪き必死に両手を頭に当て痛みに耐えており、ふと髪を縛っている紐が解かれるとリーナは目を大きく開き呟いた。
「私はっ……知って……いる……っ? う゛ぅぁ!」
苦しみもだくリーナにユイは直ぐ側に駆け寄り体に手を当てると、その感触に気付いたリーナがユイを見つめはじめた。
「ユイ、様……っ……」
今、この時こそ守らなければならない───。
分かってはいてもリーナの意識は薄らいでいき、不安な表情を浮かべるユイを見つめながら意識を失ってしまう。
「リーナっ……!?」
倒れそうになるリーナの体を支えながらユイはその場に座ると、リーナの体を揺らしながら声を掛け続ける。
しかしリーナは意識を失ったまま気が付くことはなく、不安で胸が張り裂けそうな状況の中ふと自室にいたはずの猫が一緒にリビングに下りてきているのを見ると、猫もまた心配してかユイに寄り添うように離れる事は無かった。
「どうしよう……」
ユイが途方に暮れている頃、大都市の東部には今まさに本部へと向かう一つの存在、『魔神』がいた。
赤く輝く目、全身は漆黒の鎧を身に纏っているかのように分厚いものの、その足取りは巨体とは裏腹に静かで大人しいものだった。
血で汚れ、建物は崩壊し、地面は抉れ、人々が血を流し叫び逃げ惑う中。
一歩ずつ、ゆっくりと、魔神は大都市中央に聳える建物を目指し堂々と歩き進んでいく。
当然、魔神を本部に近づけてはならない。本部の軍事基地から送られた装甲兵員輸送車が次々に魔神の前に止まると、扉が開き銃を持った兵士や杖を持った兵士等が次々に現れ、横一列に並び機関銃や杖を構えはじめる。
それを見た魔神は足を止めると、立ち塞がる兵士達をゆっくりと見渡し始めた。
何を見ているのか、何を伺っているのか───誰にも分からない、何故ならその場にいる兵士達は皆、魔神に対して何の感情も抱けなかったからだ。
恐怖も感じなければ力も感じられない、威圧もなく気配すらないその存在は目に見えているにも関わらず本当にその場にいるのかすら分からなくなってきてしまう。
だからこそ自分の意思で引き金を引く事が出来なかった……が、上官が声を荒げ命令を下した直後、機関銃を持った兵士達が一斉に引き金を引き、杖を持った兵士達も詠唱が終わり魔法陣の先端から魔法を放ち始める。
圧倒的物量による集中砲火がたった一つの存在である魔神に向けられ、辺りは瞬く間に土煙に包まれ始める。
暫くして、上官の指示の元攻撃は一斉に止められる。
相変わらず辺りは土煙が漂い魔神の姿が確認出来ない、すると杖を持った兵士達は杖の先端を空に翳すと周囲を漂っていた土煙を一掃するように吹き飛ばし視界は瞬く間に晴れていき───そこには傷一つない魔神が平然と立っていた。
皆が己の目を疑いながら愕然とし、言葉が出ない。
無数の銃弾や魔法を浴びようとも全く動じず、僅かなダメージでも与えられたのかすら不明。
そもそも攻撃は直撃したのか? 魔法を使ってシールドを張った? それとも高速で攻撃を回避……?
兵士達は次の指示が来るまでの間、食い入るように魔神を見つめていると、その魔神を囲むように白い軍服を身に纏った兵士達が上空から次々に降りてくる。
魔神討伐の為に本部の最高戦力である『白騎隊』の降臨───その『白騎隊』隊長の男は確かに感じた。
黒いフルフェイスのようなヘルムから見える赤い瞳から伝わる、人の意思を。
アルトニアエデン北部、軍事基地などはなく王族達が住む王宮が建てられており、その一番奥には王宮に引けを取らない豪華な城が聳え立っていた。
その城の最上階にある王室、その王座に座る男の前に跪く三人の男と二人の女、合計五人の各親衛隊の隊長達。
王がその親衛隊に言葉を掛けようとした直後、王室の扉が開き一人の年老いた老人が入ってくる。
全身蒼いローブに身を包み、白銀の髭を長く伸ばしたその老人の手には木で作られた大きな杖が握られていた。
「遂に……起きてしまったのぅ……」
老人は残念そうに呟くと、杖を突きながらゆっくりと王へと近づいていく。
すると跪いていた親衛隊が立ち上がり、その一人の男が老人の前に立ち塞がった。
「グレイゼフ、『アディン』である貴方がこの部屋に入る資格はないはずだが?」
「そうじゃったかのう? 忘れてしもうたわい……まぁ、なんじゃ……そう固いことを言わんでくれ、ほんの少し王と話をするだけじゃ」
グレイゼフは自分の髭を撫でながらそう言うものの親衛隊の男は退く気配がない。
すると、その様子を見ていた王が静かに口を開く。
「よせ、このお方は私が呼んだのだ」
「なっ……!? 陛下がお呼びになったのですか?」
「……そうだ」
「何故です? アディンの力を借りずとも我々親衛隊がお側にいるではありませんか」
今、ここに集結している五人の親衛隊こそアルトニアエデンの最高戦力であり、『アディン』や『白騎隊』をも凌ぐ最強の兵士達に他ならない。
「この世で最も『魔神』に詳しいのがこのお方だ。……グレイゼフ、話しを聞いてもらうぞ」
「説明は不要じゃ。『魔神』のレジスタルの結晶化に失敗したのじゃろう? 御主、ワシは口が酸っぱくなるほど言ったはずじゃぞ。あのレジスタルに関わってはならぬ、と」
「分かっている。だが既に起きた事だ、今は如何にして『魔神』を無力化し、捕獲すればいいのか……力を貸してほしい」
「……どうやら、御主はまだ理解していないようじゃなぁ」
グレイゼフが溜め息交じりに吐き出した言葉の直後、手に持っていた杖で床を軽く叩く。
その瞬間、王室の壁に巨大な映像が浮かび上がる……が。
「何も映っていないが?」
それは先程までグレイゼフの前に立ち塞がっていた親衛隊の言葉だった。
映し出される映像は一点の光りもない暗闇……しかし、王はその映像を見て目を見開き思わず王座から立ち上がり、グレイゼフは言葉を続けた。
「いいや、映っておる」
徐々に映像がズームアウトして初めて分かる、そこが嘗て───アルトニアエデン本部のあった場所だという事に。
大都市の中心部に空いた全長十数キロにも及ぶ巨大な穴。
底が見えない程深く、その映像が何を意味しているのかを徐々に理解し始める。
「『白騎隊』も、『アディン』も、皆綺麗サッパリ消されてしもうたわい」
信じられない。
そう思い、親衛隊の一人が一瞬でその場から姿を消す。
信じられるはずがない。
この目でみるまでは───。
アルトニアエデン北部の城、その上空に先程姿を消したはずの一人が空中に静止したままある一点だけを見つめていた。
完璧に抹消されたアルトニアエデン本部の光景……それは紛れもない現実であり、親衛隊の男はその場から再び姿を消し王室へと戻ると、片手で頭を抱え困惑してしまった
「これで分かったじゃろう? 『魔神』という存在がどのようなものかがのぅ。……逃げるなら今の内じゃぞ」
その言葉に親衛隊の五人の視線が老人に向けられるが、グレイゼフは動じる事なく言葉を続けていく。
「『魔神』を止められる人間など存在せん。戦えば瞬く間に抹消されるじゃろう……御主はどうする、王よ」
答えは決まっている、それでもグレイゼフは王に問う。
王は王座から再び立ち上がってみせると、堂々とした態度で口を開いた。
「アルトニアエデンは我々リシュテルト家が遥か昔から民と共に繁栄してきた世界……その世界の王が国や民を見捨てて逃げる訳がなかろう」
引く気などない、王の確固たる意思は揺らぐ事はなく、その意思は親衛隊の五人の隊長達に響いた。
「お任せください陛下、『アディン』や他の部隊などいなくとも我々全親衛隊が必ずや役目を果たしてみせます」
その言葉を後に親衛隊は王室から出て行くと、王室に一人残されたグレイゼフは王を見つめながら呟く。
「これは禁忌に触れた御主が犯した『罪』、ならば『罰』を受けなければならぬ。それだけのことじゃ、同情などせん」
そう言ってグレイゼフもまた王室を後にしようとした時、後ろから王に名を呼ばれ足を止めた。
「グレイゼフ、本当に……我々人間では『魔神』に勝つ事は不可能なのか……?」
王の言葉にグレイゼフは再び白銀の髭を根元から深く撫ではじめると、背を向けていた王へと振り返り、語り出した。
「……嘗て、『世界』というものが創造される前。『全知全能』の存在がおった。あらゆる存在を作り、生み出す事の出来る存在……その存在が『最強』と『無』を融合させて作り出してしまった化身……それが『魔神』じゃ。『魔神』はあらゆる存在を無に還す。例えそれが、自分を生み出した『全知全能』の存在でものぅ……」
「それでは何故、『魔神』のレジスタルは封印されていたのだ? その全知全能の存在が封印を施したとでもいうのか?」
「それは定かではない。……御主、この世界だけでなく無数の世界で『魔神』の伝説が語り継がれているのを知っておるか? それは全世界の存在達が嘗て『魔神』と戦ったからじゃ。その『戦った存在』の中で唯一、『魔神』と相打った存在がおる」
グレイゼフは手に持っていた杖で再び床を叩くと、壁に映し出されていた映像が切り替わり一人の存在を写し出した。
「人間が『魔神』に勝つ事は不可能。じゃが……」
そこに映っているのは『魔神』ではなく、赤黒く濁った瞳を光らせ人々を虐殺していた時のあの存在の姿だった。
「相手が『魔神』ではなく『邪神』であれば……勝機はある」




