第80話 終わり
張り詰めた空気、捩れる世界、蠢く空間。
現実とはこれ程にも不安定なものなのか、空は目の前に立つ存在を見ているだけで背筋が凍り、全身に鳥肌が立つと微かな震えが止まらない。
覚悟していたというのに、目の前に立つ『甲斐斗だった存在』は何よりも強大かつ凶悪なオーラを放ち、自分達を見つめている。
これが嘗て、『血の楽園』を作り上げた存在。
全身の皮膚は黒く変色し、異型の顔から見える紅い目から逃れられる気がしない。
「はあァァァァ……あと少しだったのにな……残念だ。が……まぁいい」
するとその存在は残念そうに溜め息を吐くと、気を取り直した様子でジャスティアの方を向いた。
「おい女、さっさとしろ」
何かを促すようにそう言葉を吐くが、ジャスティアは地面に剣先を突き刺したまま身動きを見せない。
そのジャスティアの視線は美癒でも空でもない存在に向けられており、それを見た存在は首を傾げた。
「何惚けてんだ、美癒を殺すんだろ?」
美癒を殺す───。
それが誰から、誰の声で発せられたのか───。
考えられない現実を前に美癒は何も喋る事が出来ず、空は依然美癒の手を強く握り締めながら存在を睨み続けると、意を決して口を開いた。
「貴方が……『魔神』ですね」
そこに立つ者は甲斐斗ではない、そう言うかのような発言に美癒は空へと視線を向ける。
「オレが『魔神』ンンンッ? あんな無愛想な奴と同じにしてほしくねえなァ」
魔神かと尋ねられた存在は不機嫌そうな物言いでそう答えると、空はその言葉に不審を抱いた。
「魔神ではないというのですか……?」
そう、何故なら空は『甲斐斗』と『魔神』、その二つの存在しか知らなかったからだ。
甲斐斗とは別の人格を持ち、力を持つ存在。それが嘗てアルトニアエデンを滅ぼす寸前まで追いやり強大な力を発揮した存在『魔神』。
この騒動も、計画も、全てはその『魔神』の仕業だと空は確信していた───が、ここにきてその空の考えが砕け散っていく。
目の前の立つ存在が最早何者なのか分からない。
『甲斐斗』ではない、『魔神』でもない、だとすれば、この存在は───。
「ンーそうだなァ、しいて言えば、そう……『邪神』、かナァッ」
全身から止め処なく闇を溢れ出す存在は自らを『邪神』と名乗ると、退屈そうな表情を浮かべニタニタと笑い始める。
「まァ、ンなこたどうでもいいだろ。俺は俺なんだ、俺は俺、俺ハ俺、オレはオレ。オレは俺は俺ハオレはおれハ俺俺は俺は俺オレおれ俺オレ俺俺俺俺───」
狂ったように同じ言葉を繰り返しはじめたかと思えば、手と手を繋いでいたはずの空が美癒の隣から姿を消すと、握り締めていた手に強い衝撃と痛みを感じた美癒は表情を歪めた。
「邪魔ァ」
その美癒の目の前には既に邪神が立っており、右手を振り上げ空を払いのけていたのだ。
「っ───」
何も喋り出す事が出来ない美癒。
人間とは思えない姿をした邪神を見上げると、邪神は楽しそうに笑みを浮かべながら話し始める。
「俺とお前は会うのは初めてだがァ、オレはお前の事を誰よりも見ていたんだぞゥ、美癒ゥ……」
まるで可愛がるようにその歪な黒い右手で美癒の頬に手を翳す邪神。
すると邪神を囲うように竜巻が発生すると、払い飛ばされた空が双剣を両手に邪神へと襲い掛かっていた。
が、邪神は右足を振り上げた瞬間振り下ろすと、そこには背中を踏み躙られ地べたえと踏み下ろされる空が地面に叩きつけられていた。
「ン゛ンンゥ……」
それでも邪神は相変わらず空など眼中には無く、空を踏み躙りながらも美癒だけを見つめ続けている。
空といえば自分の姿を見てすらいない邪神に、最速を誇る自分の動きを見切られ踏み躙られるという行為を受け動揺が隠せなかった。
(なんだこの存在はッ!!? 僕の速さが通用しないッ───!?)
『無傷無敗』を誇ってきた空にとって相手の攻撃をまともに受けるなど今までになかった。
いや、それも攻撃なんてものではない。相手はただ上げていた足を振り下ろしただけ、それも空の方を見ることなく平然とやってのけたのだ、背中を踏まれる力により体を全く起き上げる事が出来ない空は無様にも地べたに這い蹲ったまま硬直していた。
だが、それで終われば所詮は『風霧』であり、『風斬』ではない。
突如空と邪神を飲み込むように一つの巨大な竜巻が召喚されはじめると、邪神は顔を歪ませ呟いた。
「うぜェ」
振り下ろしていた右足を軽く上げた後、再び叩きつけるように下ろすと、竜巻は押し潰されるように小さくなり掻き消されるが、その邪神の足元には先程まで這い蹲っていた空の姿がない。
空は邪神が右足を僅かに上げた瞬間に脱出、邪神の目の前にいた美癒を抱かかえるとその場から距離を取り美癒から邪神を離したのだ。
「空君! 大丈夫!?」
抱かかえられていた美癒を下ろした途端、美癒は心配そうに空に声をかけるが、空は自分の頬についた煤を拭きながら平然と答えてみせる。
「はい、僕は平気です」
強い。
自らを邪神と名乗り自分達の前に姿を曝してみせた存在の力は未だに謎に包まれており、その未知数の力を前に空は考えていた。
すると地面に剣を突き刺していたジャスティアがその剣を引き抜くと、それを見た邪神は笑みを浮かべる。
「にしても上出来だったぞ女ァ、さっさと美癒をォッ───」
迫り来る刃、空間を切り裂き音速を超えた刃は───難なく邪神に指によって挟まれ、阻まれる。
「ンゥゥゥゥゥん?」
一瞬で間合いを積め邪神の目の前に立つジャスティア、その振るわれた剣を指先だけで止めてみせた邪神は唸りながら首を傾げる。
「オレより先ず、コイツだろゥ?」
黒い眼球、紅い瞳で美癒を見つめながらそう問うが、ジャスティアは口元だけ僅かに笑みを浮かべてみせる。
「ふっ……まさかこうも容易く現れるとはな───心より会いたかったぞ!! 『邪神』ッ!!!」
ジャスティアを中心に旋風が起こり魔力の解放を始めると、それを見た邪神には嬉しそうにニヤリと笑みを浮かべた。
「ああァ、そうか。オ前、オレを『待っていた』んだもんなァ。クク、ギヒヒッ! アヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ───」
耳障りな笑い声を掻き消すようにジャスティアは剣を振るうと、斬撃は邪神を飲み込み地平線の彼方まで吹き飛ばしてしまう。
「消滅した……?」
空は口を開けたまま大地諸共吹き飛ばし抉れた地面を見つめていたが、ジャスティアは剣を構え直し呟く。
「愚考だな、この程度で奴が消える訳がない」
ジャスティアの力を見て呆気にとられる空に対しそう言葉を吐き捨てた直後、周囲に漂う闇が集い腕を組んだままの邪神を形成していくと、無傷の姿を露にした邪神が問いかけた。
「ンじゃァ、どの程度なら俺は消えると思う?」
その問いに答えるかのようにジャスティアが剣を振るい斬撃を飛ばすと、余裕の態度を示す邪神の右半身の肉体を軽々と消し飛ばしてしまう。
「マジでやべェなオ前の剣。うへヒヒャヒャヒャ!!!」
消し炭すら残らない自分の右半身だった箇所を左目で見つめながら邪神は笑みを浮かべている。
対してジャスティアは剣を地面に突き刺し足元に魔法陣を広げると、同様の魔法陣がこの世界を覆うように次々に現れ始めた。
「この結界は特殊でな。中に入る事は容易いが、一度でも中に入れば私が解除するまで決して外には出られない。どういう意味か分かるか?」
不敵な笑みを浮かべていた邪神はそのジャスティアの目を見ていたが、再生速度が遅い自身の肉体に疑問を抱いた。
「今日、お前は死ぬという事だ」
邪神を前にしたジャスティアの闘志はより一層昂り、決して周囲の闇に飲まれる事はない。
「死ヌ……? 俺が……?」
自分の死を理解出来ないかのように邪神は何食わぬ表情で首を傾げていた直後、ジャスティアが地面に突き刺していた剣が再び輝き始める。
その途端に邪神の足元と頭上に魔法陣が浮かび上がると、光りの筒のような形をした結界が邪神を囲み始める。
「ンンン……?」
邪神は手を伸ばし光りの筒の中から結界に触れると、結界は火花を散らし邪神の手を弾く。
そこで漸く自分が閉じ込められている事に気付いた邪神だったが、特に動じる事もなく佇んでいた。
するとジャスティアは地面に突き刺していた剣を引き抜き高らかに掲げ剣に魔力を籠め始めると、邪神を睨みながらも空の名を呼び声をかけた。
「……『風斬』、お前はこの計画を裏で操っていたのは全て甲斐斗だと言ったな。確かに、奴の計画通りに私達は動かされていたのかもしれない。全ては天百合美癒を殺す為の過程……しかし、それは私の望む過程でもある」
自分の大切なものを穢し奪った張本人に、全く同じことを行う。
ジャスティアの目的は美癒を虐殺する事と邪神を抹殺する事、その二つのみであった。
「天百合美癒が死ねば邪神が姿を現すと確信していたからだ、言わば邪神をここに呼び寄せ姿を現させる道具に過ぎない」
ジャスティアが剣を掲げ魔力を籠めていると、その背後にはジャスティアのレジスタルである十三本の剣が姿を現し両手で握り締める一本の剣に力が集中していく。
「邪神を殺した後はお前達の番だ……。その目でよく見ていろ、最悪最強と呼ばれた存在が私の手によって消滅する瞬間をッ!!」
絶大な一撃が放たれる───ジャスティアならこの『邪神』をも凌駕し本当に消滅させてしまう程の気迫があった。
このままでは邪神……いや、甲斐斗が殺され、消されてしまう。
空は咄嗟に判断し動こうとした、だが邪神の不敵な笑いが聞こえてきた途端、その足を止めてしまう。
「……クククッ、クククククククク」
今にも攻撃を放たれそうだというのに邪神は平然とした様子で笑っており、その目は真っ直ぐジャスティアを見つめ、そして一言呟いた。
「オ前はオレだ」
「消えろォォァァァアアアアアアアアアアッ!!!」
目を見開き笑みを浮かべる邪神、対してジャスティアは憎悪と憤怒の表情を露にし絶叫しながら剣を振り下ろした。
その一本の剣からは十三色の異なる光りを発する斬撃が飛び、光りの筒に閉じ込められている邪神へと放たれた。
「つまり、残念だが……俺は絶対に消えン」
剣を振り下ろしたジャスティアの真横で声が聞こえる。
ジャスティアの肩に手を置き、今まさに斬撃が放たれているのを同じ場所で見つめる者。
「そう気を落とすな、同じもの同士仲良くしようぜ」
ジャスティアの息を呑む様子を真横でほくそ笑む。
何故、どうして、あの結界からは決して出られなどしない。
いや、それよりもどうやって自分に気付かれず接近した。
確かに見ていた、捉えていた、倒すべき敵、抹殺すべき存在を───。
「まぁ、『今は』邪魔だから消えてろ」
直後、ジャスティアの肉体は音速を超えて地平線の彼方へと吹き飛ばされる。
その飛ばされた軌道上はまるで世界が抉られたかのように黒く歪み、ジャスティアが身に着けていた鎧の一部が砕け散りながら飛散していた。
邪神はただただ立っていた。
ジャスティアの攻撃を容易く避け、吹き飛ばし、のうのうと、平然と。
「やれやれ、美癒を殺してくれるかと思えば俺を狙ってくるこの有様。……まぁいい」
理解出来ない、どんな技を、術を、魔法、能力を使ったのかを。
正直、一瞬でも空は思ってしまった、あの最強の戦乙女、ジャスティア・リシュテルトなら嘗て『血の楽園』を作り上げた存在をも倒せるのかと。
しかしその考えは呆気なく消えてしまう。
邪神は吹き飛ばしたジャスティアになど気にも留めず、此方を見つめ続ける美癒達の方へと振り返った。
「んじゃ……終わらせる為にも、まずは───」
終わらせる───そう邪神が告げた直後だった。
「『伝説の抹消者』にして『最強の魔神』……貴方に出合えて本当に光栄だわ」
一人の女性の声が聞こえてくる。
その聞き憶えのある声に空が逸早く反応し声のした方へと顔を向けた。
「あ、貴方はっ……!」
「お久しぶりね、『風斬』」
藍色の長髪を風に靡かせながら挨拶してみせた女性。
風霧空にとって友の仇であり、己の人生の全てを弄ばれた者。
「エルフェル・ファフニール……ッ!!」
空にとっての全ての元凶、エルフェルがこの場に降り立って見せたのだ。
邪神や空を目の当たりにしても余裕の表情を浮かべており、怒りの眼差しで睨みつけてくる空を見つめながら首を傾げはじめる。
「それにしても、どうして貴方がこの世界にいるのかしら……? まぁいいわ、今は貴方の事なんてどうでもいいもの」
それだけ言い捨て視線を邪神へと戻したが、空は口を開き声を荒げた。
「僕はどうでもよくないッ! 貴方には聞きたい事が沢山有るんです!」
「聞きたい事? 何かしら? 貴方はただ私に利用され続けていた。それだけの事でしょ?」
「なっ……」
「ふふっ、あのお方達が貴方の存在価値について評価を改めるべきと言っていたけど、もうその必要もないの」
嬉しそうに笑みを浮かべながらそう言った直後、エルフェルは天を指差しながら口を開いた。
「だって完成したんだもの、私の最高傑作……『オルケイス』が」
降臨。
それは音も無くエルフェルの背後に降り立ち、姿を現した
幾千幾万の命の代償、故の犠牲、故の権化、故の化身、故の存在。
全身に藍色の装甲を付けたフルアーマー姿、その装甲には無数のレジスタルが鏤められており、顔の中心には一つの蒼い目のようレンズだけが光っていた。
(なんて禍々しい魔力なんだ……あれは生命体と呼べる存在なのか……?)
全く精気を感じられない機械のような存在に空が困惑していると、邪神と一定の距離を保ちながらも囲うように次々にある者達が降り立ち始める。
「ったく、エルフェルの話しを聞いてついてきてみれば、まさか本当にあの『邪神』とご対面する日が来るとはなぁ、オーラ半端ねーなーおい」
焦げ茶色の短髪にジャケットを身に纏うミラーグラスを掛けた男、『アディン』所属、ボルクス・ゼブロウス。
「違いない! あたいはこの日をずっと待ち侘びていたんだ! 嘗て歴代最強とまで謳われていた十八年前のアディンを壊滅させた男と出会うのをなぁっ!!」
赤橙色の長髪に肌の露出が多いプロテクターを身につける女、『アディン』所属、ベラス・ヴィクトワール。
「わ~! すっごくつよそーっ! せっかくなんだからニャロちゃんも来ればよかったのに~」
エメラルド色の髪に可愛らしいフリルのついた緑色のワンピースを着こなす少女、『アディン』所属、幼女咏憐。
そして遥か彼方から再び戦場へとジャスティアが戻ってくると、その光景を見て口を開いた。
「お前達、どうしてここにいる───ッ!?」
エルフェルを含め『アディン』が同じ戦場に四人も集る事は異常であり、本来であれば決してありえる事はない。
いや、それよりもジャスティアは何故部外者であり情報を流していない者達がこの世界に来ているのかが分からなかった。
「ティアちゃんお洋服ぼろぼろ!? 大丈夫!?」
咏憐がジャスティアの傷付いた鎧を見て心配そうな表情を浮かべるが、ベラスはそんなジャスティアの姿を見て嬉しそうにしている。
「派手にやられてんなー! あんたに傷を付けるなんてやっぱこの邪神は本物だな、腕が鳴るぜ」
腕を組み闘志を剥き出しにするベラスだが、ボルクスは頭を掻きながら軽い溜め息を吐いている。
「ついてねーなー俺、こんな厄介事なら参加するんじゃなかったよったくぅ……まぁ、美女達に囲まれてるから少しカッコイイとこ見せとかねーとな」
ジャスティアにエルフェル、ベラスに咏憐を見渡しながらボルクスは軽く首を傾け骨を鳴らしはじめる。
突如集結したアディン達、ジャスティアは眉を顰めその視線を余裕の表情を見せるエルフェルに向ける。
この三人が独自に情報を入手して来た訳では無い事ぐらいジャスティアには一目で分かっていたのだ。
「説明しろエルフェル、これはどう言う事だ」
「邪神は貴方だけの獲物ではないと言う事よ、貴方が密かに邪神を呼び起こす計画を企てていたのは知っていたの」
「……私を利用したのか」
「利用? とんでもない、この計画は貴方が進めてきたものよ? 私は何一つ貴方の行為に今まで干渉してはいなかった、そうでしょう?」
確かにこの計画の一旦を担っていたのはジャスティアとシルトであるが、エルフェルは空やバラン、セラを利用して美癒や甲斐斗に少なからず影響を与えており、直接関わっていないものの間接的には関わっていた。
「戯言をほざくな、今直ぐ全員を連れてアルトニアエデンに帰れ。これは命令だ」
「あら、残念だけどこの世界は既に貴方の結界の中よ。出たくても出られないわ、それに結界は邪神を倒すまで決して解かないのでしょう?」
ジャスティアの前でも決して怖気ずく事無く引けを取らないエルフェル。
互いが睨み合うように見つめ合う中、この状況下で誰よりも楽しそうに笑みを浮かべる『邪神』が歩き始める。
「世界とは思い通りにならないもの、何が起こるか分からない、だからこそ愉快で痛快で楽しい苦しい世界世界世界……」
独り言を呟きながら足を止めた場所、そこは二人で横に並ぶよう立っていた美癒と空の前だった。
「美癒、お前に良いものを見せてやろう」
それが一体何を意味するのか美癒と空には検討もつかないが、邪神は少しだけ両手を上げるように掲げ始めると、両手の間にある空間に魔力が凝縮されある物が召喚され始める。
見る者全てを魅了するような黒色の光りを放つ大剣、それは何時も甲斐斗が愛用して使っていた剣に他ならなかった。
剣からは闇が溢れており、邪神がその剣を美癒の眼前の地面に突き刺し固定すると、その剣の柄を指差しながら呟いた。
「この剣を握れば全てが分かる。俺が一体何者なのか、俺と唯の関係、俺の過去の記憶……見たいよなァ?」
甲斐斗の過去───この剣を握ればそれを見る事が出来る。
邪神は美癒が怖気ずくかと思っていたが、美癒は目の前に立つ邪神の醜い瞳をじっと見つめた後、ゆっくりと右手を上げていくとその剣の柄に手を伸ばしていく。
その様子を美癒の隣で見ていた空は、邪神のある言葉が引っ掛かり険しい表情を浮かべていた。
(甲斐斗さんの過去……まさか、あの『血の楽園』の惨劇までも全てを美癒さんに見せる気では───ッ!?)
アルトニアエデン史上、最低で最狂で最悪の事件『血の楽園』。
平和や希望、優しさや温かさといった美癒の望む世界とは相対する世界と言っても過言ではない程の世界。
『血の楽園』に関して一部の資料を見たことがある空だからこそ顔から血の気が引き剣の柄を握ろうとする美癒の腕を止めようと手を伸ばした。
「待ってください美癒さんッ! それは罠です!! その全てを見れば貴方は甲斐斗さんの事を───」
刹那の瞬間……空が見た美癒の横顔はとても澄んでいた。
これから何が待ち受けるのか、何を見せられるのか、美癒は決して立ち止まる事なく進み続ける。
それならば今、空自身美癒にしてやれる事は危険な道を止める事ではなく、危険な道から守る為、共に進む事だけだった。
美癒と空は自然に手を繋ぎ、美癒は左手で、空は右手を伸ばし共に目の前に突き刺さる黒剣の柄を握り締める。
握り締められた剣は黒い閃光を放ち美癒と空を覆い始めると、閃光はやがて黒い闇の球体に変わり二人を完全に飲み込んでしまう。
その様子を見ていた邪神は突如よろめきその場に跪くと、苦しそうに胸を抑えながらも笑みを浮かべていた。
「グッ、ガ!? ……ンクヒヒヒッ! 堪らんだろう? 見られる、全て、お前を、ああ、アアア、美癒に、一番、遠ざけ、だが、無駄、何時か、何時か、こうなると、お前も、俺も、分かって、アア、あああッ、終わった、全て、これで、ギヒヒヒッ!!」
邪神の周りに無数の四角い映像が映し出されていく。
「『最強には代償が必要』……だもんなァ」
それは無限に広がる世界の映像、様々な世界が次々に映し出されていく中、跪いていた邪神は血の涙を流しながら嬉しそうに両手を掲げた。
「アア、だからこそ俺は俺でいられる゛ぅ゛ッ! そうだろう甲斐斗ッ! カイト・スタルフ!! もういない、もう誰も見ていなイ゛、唯も、美癒も、い゛ぃ゛ぃ゛ナ゛ァ゛イ゛ィ゛ィ゛ィ゛ィ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛ッ゛!!!」
映し出される世界の数が増し続け、邪神の背後には既に万を超える世界の映像が映し出されていた。
目の前の世界、美しき、凛とした、綺麗で、可愛くて、優しくて、温かくて、求める、世界。
だが世界に触れる事は出来ない世界に干渉する事は出来ない世界に求められていない世界の住人になれない世界に望むものは世界にないもの世界とは羨ましく血肉色快楽性女金心人───。
「世界世界世界世界世界世界世界世界世界世界世界世界世界世界世界世界」
邪神の背中を突き破り無数の黒い腕や触手が現れる、邪神は姿形を変え本性を見せ始めた。
別次元別世界創造仮初癒求羨嫉妬純粋醜本心───。
見える、無限に広がる世界の数々が。
見てきた、自分の世界とは全く異なる世界の数々を。
「世界世界世界世界世界世界世界世界世界世カい゛世カイ世かイセ界セかイ゛せカイ゛せ界セかイセカイ゛ィ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛゛!!!」
だからこそ醜く、邪悪で、救いようのない存在と化した───。
『相反する存在』へと変貌を遂げた邪神。
闇を纏うように黒く変色した肉体には赤い血肉とも思わせる一部も露になっており、そのおぞましい姿にその場の様子を見ていた人間達は息を呑み───。
「あ?」
腕を組み邪神を見つめていたベラス・ヴィクトワールは一瞬にして邪神の肉壁に呑み込まれる。
その場から一瞬で姿を消して移動した邪神、肉体を膨張させ包むようにベラスに覆いかぶさり呑み込んでしまったのだ。
しかし、その様子を見ていたボルクスや咏憐は特に動揺したり慌てた様子もなかった。
「急に姿を変えたかと思えばベラスの姉さんを呑み込むなんて……アホだな」
『戦神』ベラス・ヴィクトワールの戦闘力の高さはジャスティアにも引けを取らない程、更にベラスの武器であるグレイブによる攻撃力はアディンの中で最も高いとされている。
つまり導き出される答えは一つ───。
「中から掻っ捌かれて終わりだ」
そうボルクスが告げた直後、ベラスを飲み込んだ邪神の蠢く肉体が震え始めると、肉壁に空く無数の穴という穴から捻り出すように血肉の塊を排泄しはじめる。
汚い排泄音が辺りに響き血肉や骨が出てくるのを見ていたボルクスはその様子で鼻で笑うと、次の瞬間ベラスが邪神の肉体を突き破り姿を現す、そう思っていた。
顔半分が抉れたベラスの生首が、その肉壁の穴から出てくるまでは───。
今まで感じた事のない恐怖に戦慄したボルクス。
何故ならベラスはそう簡単に殺られる人間ではないのだ。
その実力は十分に把握していた、だからこそ───。
「俺が怖イか?」
膨張した肉壁の姿から一体の人間のような形へと戻った邪神。
目を見開き立ち尽くすボルクスの眼前でそう呟いた直後、ボルクスは目に闘志を燃やし両手の甲に赤い魔法陣が浮かび上がり魔力を籠めると、その両手を邪神へと突き出した。
「爆ぜろぁあああああッ!!!」
それは人一人から発せられる魔法の爆発とは思えない程の威力。
『爆魔』の異名を持つボルクスだからこそたった一撃で大地を消し飛ばす程の火力を邪神に放つ事に成功した。
その爆発の影響で周辺の砂や埃は一瞬で払い飛ばされていく。
だが、ボルクスの目の前に立っていた邪神は肉体が抉れ上半身の原型を保てていないものの、その足だけは無傷で残っており平然と立ち尽くしていた
「アグ! グラグディガグルマグゲギガジ? じジ邪ジ邪邪邪ギ愚ギ疑疑疑疑疑! ギァヒャヒャヒャヒャヒャ!!」
抉れた上半身には無数の口が存在し夫々別の事を喋り始めていたが、一瞬で元の邪神の姿へと戻った後、邪神は下ろしていた右手をゆっくりと上げ始める。
「な……なんなんだよ、お前はっ……」
それを見ていたボルクスは動く事が出来ずその手の動きを目で追っていると、その右手から人差し指を伸ばしボルクスの胸に当てた。
胸から込み上げて来る熱にボルクスは全身から汗が吹き出はじめるが、指先から注ぎ込まれる侵食してくるような魔力に体が言う事を聞かず苦しさで声をあげはじめた。
「ぐッ、がァ!? ぁあああああああああ゛ッ!!?」
注ぎこまれる魔力に限界は無い、全身が痙攣し毛穴から血が吹き出し始めたかと思えば、邪神は右手の人差し指を曲げ、ボルクスの胸を指先で弾き軽く叩いてみせた。
すると、まるで水風船のようにボルクスの肉体は破裂し弾け飛んでしまう。
内臓や筋肉、骨をも粉砕し赤い霧のような状態で辺りを漂っており、その血肉の霧の中で邪神はほくそ笑むが───その眼球は無造作に咏憐へと向けられた。
一瞬にして二人の命が奪われた。
それもただの命ではない、アルトニアエデン『アディン』所属の人間の命。
単体で世界や国家と戦う為の部隊、その兵士が何の抵抗も出来ず殺されてしまった。
……今なら分かる。此処に来る前、咏憐はニャロメナにある忠告を受けていた。
それは今から数時間前、エルフェルの特例指示の元現在アルトニアエデンの世界にいる全てのアディンへの出撃命令。
アルトニアエデンに残っていた『アディン』はエルフェル、ベラス、ボルクス、咏憐、そしてニャロメナの五名のみだったが、ニャロメナはエルフェルの出撃命令を拒否したのだ。
その理由を知るべく、咏憐は一人ニャロメナのいる軍事基地の屋上に来ていた。
「ニャーロちゃんっ!」
何時ものように明るい笑顔で咏憐はニャロメナの名前を呼ぶが、ニャロメナは思い詰めた様子のまま屋上から見える町の景色を見ながらゆっくりと振り向いた。
「……咏憐」
「聞いたよ~? ニャロちゃん行かないんだよね、ベラスちゃんもボルくんもエルちゃんも皆行くのにどうしてニャロちゃんは行かないの?」
「もし本当に『邪神』と戦う事になれば誰も勝てないにゃ、行っても無駄死にするだけ……今からでも遅くないにゃ、咏憐も行くのを止めるにゃ」
「だめだよ~っ! だって行かないと『アディン』にいられなくなるもん、それにお給料も今までよりい~っぱいもらえるんだよ?」
暗い表情を浮かべたニャロメナに対し元気一杯の咏憐、そんな咏憐を見てニャロメナは確認してみた。
「確か、咏憐は自然豊かな世界を沢山作りたいんだったかにゃ?」
「うん、そうだよ! 大丈夫だよニャロちゃん、その『じゃしん』って人も何時ものようにわたしの力で封じ込めてやるもん。それにわたしだけじゃなくてみ~んないるんだよ? きっと大丈夫だよ!」
咏憐は笑顔でそう告げるが、ニャロメナの表情は曇ったまま咏憐を見つめていると、そっと手を伸ばし咏憐の頬に触れた。
「咏憐、約束してほしいにゃ、もし邪神にあったら……絶対に『世界樹』を呼ぶにゃ」
「世界樹……? でも、それって───」
咏憐は不思議そうに言葉を続けようとしたが、ニャロメナは右手の小指を立てて咏憐の唇に当てると、優しい表情を浮かべながら囁いた。
「約束にゃ」
「……うん! ニャロちゃんがそう言うなら約束するっ!」
指きり交わしニャロメナと別れを告げた後、この世界へと降り立ち邪神を対面した咏憐。
ベラスとボルクスの死を見て今、ニャロメナとの約束を果たす。
「力を貸して……っ! 『ユグドラシル』!!」
睨みつけられた咏憐は既に邪神を打倒すべく術を完成させていた。
咏憐は両手を重ねるように握り締めその名を呼んだ直後、天空を覆う闇を払い巨大な緑色の魔法陣を映し出してみせる。
更に大地にも同様に魔法陣を映し出すと、その間の空間からは美しい光りを放ちながら一本の大樹が姿を現した。
咏憐が召喚したものは世界樹の神である存在『ユグドラシル』。
その世界樹たる絶大な力は瞬く間に大地を緑化していくが、邪神の周囲の地面だけは草木が一本も生えることはない。
「お願い、あの人を止めて!」
召喚された世界樹は大地に根を張り輝き始めると、天にも昇るその枝から次々に煌びやかに輝く緑色の粒子を舞い散らせ始めた。
その様子をオルケイスの横で見つめるエルフェルは手を広げその粒子の一つを掌に乗せてみせる。
「世界樹にして神、『ユグドラシル』。本物の神を相手に邪神はどうするのかしら」
大地に張り巡られた世界樹の根は次々に地表に現れ邪悪な気配を漂わせる邪神目掛け絡みつき始めると、その一本一本の根が強力な魔力を帯びており邪神の身動きを封じていく。
だが、邪神は背部の触手を広げ一瞬にして木の根を引き千切ると、その場から跳躍し天まで聳える世界樹『ユグドラシル』の根元へと降り立つ。
世界樹の葉から降り注ぐ莫大な魔力の光りにより邪神を照らし闇を払いのけようとしているのが見て分かり、邪神はその光りを全身に浴び体から闇が蒸発するように煙が立つものの対したダメージにはなっていないように見えた。
邪神は右腕の魔力を籠め闇を集わせると、その右腕を世界樹に突き刺し自分の持つ魔力を注ぎ始める。
途端に腕が突き刺さった箇所から侵食が始まり変色しはじめると、それを見ていた咏憐は手元に自分のレジスタルである杖を召喚すると、その杖を掲げ詠唱しはじめる。
「世界の母なる存在よ、穢れを浄化しあるべき姿に戻したまえ。契約者『咏憐』が命じる───」
咏憐の足元に輝く魔法陣が広がり杖の先端にも魔法陣が浮かび上がると、その杖の先を邪神に侵食されつつある世界樹へとむけた。
「『ユグドラシル・ノヴァ』」
咏憐がその名を告げた直後、世界樹は輝きを増すとより一層巨大化し枝の本数が増え葉をつけていく。
邪神の侵食も止まり世界樹の力がより一層増していくと、右腕を突き刺していた邪神を何千もの蔓が包み込むように巻きつき身動きを完全に封じる。
すると世界樹は自ら幹に穴を空けると、邪神を取り込むように蔓で引き寄せ内部に吸収してしまう。
邪神の侵食に対し今度は世界樹による浄化が始まる、咏憐は杖を掲げたまま力を放出し世界樹の力を最大限まで発揮させ続けた。
その結果、邪神の気配は消え辺りに漂っていた闇も消えていくと、天を覆っていた闇も薄らと晴れ始める。
「はぁ……はぁっ……」
力を使い果たし肩で息をしながらその場に跪く咏憐、顔を上げれば黒い雲の隙間から微かに光りが注しており、その日光が顔に触れ温かさを感じると、自然に笑みを浮かべながら呟いてしまう。
「ありがとう、ニャロちゃん……」
ニャロメナの助言通り開幕直後に咏憐の持つ最上級魔法『ユグドラシル』を発動させた。
もし別の選択をしていたら確実に、間違いなく邪神の手によって瞬殺されていただろう。
徐々に雲が晴れ晴天が広がる中、太陽の光りを浴び煌びやかに輝く葉をつける世界樹『ユグドラシル』を見つめながら立ち上がってみせた。
「ニャロちゃんのお陰でわたし、勝てたよ!」
勝てた嬉しさと喜びに笑顔になった咏憐、目の前で左右に張り裂けた世界樹を見ても尚、その笑みを浮かべ続けていた。
真っ二つに裂けた世界樹からは力が抜けていくように赤い液体を噴出し、大地に赤い雨が降り注ぐ。
その匂いにこの液体が血である事は容易に分かる。光りを失い枝が腐り、葉は色を失い枯れていく。
朽ち果てていく世界樹、その崩壊は咏憐の目の前で起こっており、凛々しく美しかった世界樹も今では血肉の塊で作られた醜い物体にしか見えなかった。
そして咏憐は見てしまう、血の雨を浴び全身血だらけの状態の中、真っ二つに裂かれた世界樹の中心に立っている存在を───。
「『雑草』如きが……俺に歯向かうな」
言葉の直後、姿が消えた。
最早探す手間などいらない、咏憐は背後から感じる冷たい気配に怯えながらゆっくりと振り返ってみせると、そこには醜い笑みを浮かべる邪神が立っていた。
「えっ……え……?」
世界樹を雑草と言い放つこの存在に咏憐は戸惑い、動揺し、一歩ずつ後ずさりしていく。
倒せていなかった?
浄化出来ていなかった?
ユグドラシルは世界樹の神、今までユグドラシルに勝てた者などいない。
いや、そもそもユグドラシルを使わせる程の存在が今までいなかった。
そしてこれからも無いだろうと、此処に来る前までは確かに思っていた。
邪神は遠ざかっていく咏憐に対し軽く手を上げてみせると、大地からは血肉で作られた木の根や蔓が現れ瞬時に咏憐の体を縛り上げ身動きを封じてしまう。
「いぅっ!? やぁっ……!」
蔓の力は咏憐の肉を締め付け、更に指一本一本にまで全身に巻き付いていくと、邪神は咏憐の前に立ちその頬に右手を翳した。
「可愛イ女の子は皆大好きだ、嫌いな人間なんていなイ」
目を見開き眼球から見える醜い瞳に見つめられ咏憐は萎縮してしまう。
「皆大好キ、ギヒヒッ……ソれは欲求を満たス為の道具そノ方法手順過程千差万別オ前だケじゃナい人間は皆己に対し夢希光見触感干渉満足癒欲果無」
狂ったような声と言葉に咏憐には邪神が何を言おうとしているのかが分からない。
「かくシて俺も、その中の一人ダ」
咏憐の全身を締め付ける蔓の力が増していくと、咏憐は苦しそうに悲鳴を上げる。
「ぁあああ゛い゛ッ! 痛い゛っ……! ぐる゛、じぃ……!!」
心臓の鼓動が早くなるのを感じる、全身が熱い痛みに包まれ目に涙を浮かべる咏憐───ふと、その視線の先に此方を見つめるエルフェルが見えた。
「エル、ちゃん゛……だず、けてっ……!」
自力での脱出は不可能、最早誰かに助けてもらわなければ自分が殺される事を実感し必死の思いで声を振り絞り助けを求めた。
そんな咏憐を見ていたエルフェルは、目に涙を浮かべる咏憐の目を真っ直ぐ見つめながら答えた。
「いーや」
笑みを浮かべて咏憐の救いを拒否したエルフェル。
その言葉に咏憐の頭の中は真っ白になり自然と涙が零れ落ちると、エルフェルは平然とその訳を話し始める。
「だって貴方達『アディン』を呼んだのは邪神に殺されてもらう為ですもの。『アディン』ですら叶わない邪神を私の『オルケイス』が倒してこそ評価されるのだから」
情の欠片もないエルフェルの言葉に咏憐の涙が止め処なく溢れ出ると、咏憐の体を締め付ける蔓の力が徐々に増し続け苦痛の表情を浮かべていく。
そして追い討ちを掛けるかのように邪神は咏憐に顔を近づけ言ってみせた。
「俺、一度聞イテみたかったんだ……全テの関節を逆に捻らレたら、人間はどんな声を上ゲるのか……っテ」
泣き叫ぶ咏憐の心地良い悲鳴を聞きながら邪神は右手の指を軽く鳴らす。
「やめ゛てっ……! おね、がいッ……うぅ゛っ、ぁぁあ゛! やあぁぁあア゛ッ!!」
軽快に響く指の音が合図となり、蔓の力は一気に強まり腕、足、指といった全ての間接が逆方向に捻られる。
咏憐の肉体からは腱が断つような鈍く重い音が鳴り響き、肉が裂け折れた骨が皮膚を突き破る。
絶叫の後、全身から血を吹き出し肉塊となった咏憐の首を邪神が鷲掴みにすると、眼球が飛び出る程目を見開いた咏憐など見向きもせずその場に投げ捨てると、再び右手で指を鳴らし宙を舞う咏憐の死体を一瞬にして消滅させてしまう。
その一部始終を見ていたエルフェルは満足そうな笑みを浮かべると、隣に立つオルケイスに触れながら話し始めた。
「ふふっ、『アディン』達が噛ませ役のように死んでいくわね。それでこそ私のオルケイスの強さの証明のし甲斐があるわ」
邪神の圧倒的力の前に誰も歯が立たず、敵わない。
だからこそ価値があるのだ、この邪神を倒す価値、それはこの世の全てを賭けても良い程の価値に値する。
少なくともエルフェルはそう思っている、だからこそ全てを注ぎ込み完成させた。
アルトニアエデンに存在する全兵士の戦闘データを取り込み、強化細胞に禁断魔法、万を越える実験、何十年にも及ぶ研究、習得魔法は十万を越え、その中には『アディン』の魔法や戦闘データも入っており、尚且つ瞬間移動、時間停止、瞬時再生などの特殊な魔法まで扱える。
あらゆる禁忌を犯してまで作り上げた邪神に対抗するべく最強の化身『オルケイス』。
「邪神、貴方はアルトニアエデン最高傑作の『オルケイス』相手に何秒持つのかしら?」
最強の化身対最凶の邪神、オルケイスと邪神が互いに睨み合うように目を合わせる。
今から戦う相手がどれ程の力の持ち主なのかを見極めるかのように互いに動く事はないものの───突如、戦いの火蓋は切って下ろされた。
エルフェルは澄んだ表情で腕を組むと、これから始まる化身と邪神の戦いを見守り始めるのであった。
だが、その必要はなくなった。
何故なら既に、オルケイスはこの世から抹消されていたのだから。
「……うそ」
『戦闘』は開始すらされていない。
故に何時オルケイスが邪神の手によって消されたのかなど計測不能。
ただはっきりと分かる事と言えば、オルケイスは邪神相手に一秒も持つ事ができなかったことだけ。
「ありえ、ない……」
何故ならこれは戦闘ではなく一方的な暴力により引き起こされた結果なのだから。
その光景を間近で見ていたエルフェルなら理解出来るだろう、この世の現実の結果を。
オルケイスの初動よりも速く、邪神がオルケイスの眼前に姿を見せたかと思えば、両手をオルケイスに向け魔法陣を展開。
オルケイスの動作、魔法、判断、全ての行動よりも早く魔法は放たれ、抹消魔法に飲み込まれたオルケイスは成す術もなければ何の力も発揮出来ず、何の抵抗もさせてもらえず消滅した。
そのオルケイスの呆気無い最後に誰よりもエルフェルが困惑し思考が完全に停止していると、エルフェルの横でオルケイスを消し終えた邪神が目を見開き呟いた。
「……それで、お前は俺相手に何秒持つんだ。一秒か? 二秒かぁァッ?」
引き戻される意識、感覚、感情。
エルフェルは腰が抜けその場に座り込んでしまうと、目の前に立つ邪悪なオーラを纏った邪神を見上げた。
全ての努力は無駄だった。
全ての時間は無駄だった。
費やしてきた全て、全て、時間も人生も何かも全てを捧げこの日の為に生きていたエルフェル。
「あ───」
咄嗟に何かの言葉を発しようとしたが、邪神によって両腕と両足を引き千切られたエルフェルの口から出てきた言葉はただの断末魔だけだった。
「ぎぃや゛ぁ゛あああああああああああああああああ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ァ゛ッ!!」
達磨状態になったエルフェルの肩と足の付け根から溢れ出る自らの血飛沫を浴びながら悶え苦しんでいく。
ジタバタとまるで狂った昆虫のように蠢くエルフェルを見て邪神は大笑いして喜ぶと、エルフェルの髪を掴み軽々と右手で持ち上げた。
「そうソう、こんな清々しく気持ちの良い世界を提供してくレたオ前には特別サービスをしてやルよ」
そう言って邪神は左手の人差し指をエルフェルの胸元に当てると、夥しい程出血していた傷口から血が止まり、激痛で表情を歪めるエルフェルの耳元で囁いた。
「俺はオ前を『殺さない』」
それが最後の言葉、邪神の背後の空間が歪み渦を作り始めると、その空間には人一人が通り抜けられる程の穴が空いた。
邪神はエルフェルの髪を掴んだまま振り向きその中の光景をエルフェルに見せると、エルフェルの顔が青ざめ歯をガタガタと震わせながら絶叫しはじめる。
「ひぃ゛っ゛!? い゛ィ゛やァッ゛! ぜっ、絶対にィッ゛、絶対に゛ぃィィッ!!」
手足を失ったエルフェルは必死に抵抗しようと体を揺らすが無駄な抵抗であり、邪神は心地良いエルフェルの悲鳴にも聞き飽きまるでその場にゴミを投げ捨てるかのように簡単に放り投げてしまう。
「待って゛ぇ゛! や゛ァ゛め゛てぇ゛ェ゛え゛エ゛え゛え゛え゛ぇ゛ッ゛!!!」
その穴の中へとエルフェルが入った直後、穴は無くなり元の形の空間えと戻る。
辺りは静寂に包まれ、その静かな時間の中邪神は次の標的である存在を見つめた。
「……流石だなァ、ジャスティア・リシュテルト」
今までの一部始終を見ていても尚、自分に対して一切の『恐怖』を感じないジャスティアを見て邪神はそう言うと、ジャスティアは剣先を地面に突き刺したまま無表情で邪神を見つめていた。
「何故仲間達を助ケてやラなかったンだ?」
「邪魔だからだ」
邪神の問いかけに即答してみせたジャスティアの視線は決して揺らぐ事はない。
闘志も殺気も今まで以上に昂っており、邪神は見惚れるようにジャスティアを見つめる。
「お前を殺すのは……いや、殺せるのは私だけだ。その他の者は皆私にとって邪魔者だ」
「……良イ、オ前すごく良い。やっぱりオ前は俺だ」
仲間だった者達を平然と邪魔者扱いするジャスティアの声、言葉、姿に邪神は胸が高鳴り笑みを浮かべる。
「それに、この程度の事など『血の楽園』に比べれば対した光景でもない」
地面から剣を引き抜き構えてみせると、ふと美癒と空が飲み込まれた黒色の球体が視界に入る。
今頃二人は邪神である甲斐斗の過去を見ているのだろう、十八年前『アルトニアエデン』で何が起きたのかを。
ジャスティアの脳裏に過ぎるあの日の記憶。
燃え盛る宮殿の中、部屋の彼方此方に死体が転がる状況下で幼い少女は見てしまう。
父が───。
母が───。
そして───。
最も───大切な────っ───が───。
「レジスタル・オーバー・リリース」
ジャスティアが言い切った直後、超越した魔力の柱が上る。
その中心にはジャスティアが立ち、身に着けていた鎧は形を変えていくと、渦巻く魔力の中でジャスティアは変身を遂げていた。
今までのジャスティアとは全く違う力の気配に思わず邪神は身震いすると、己もまた魔力を高め全身から淀み出る黒い魔力を体内から拡散していく。
これから行われる戦いは『光対闇』でもなけれが『正義対悪』でもない。
誰かの為でも何かの為でもなく、全ては己の為、自分自身の私利私欲の為の戦い。
だからこそジャスティアは笑う、だからこそ邪神は笑う。
何故なら楽しいから、何故なら愉快だから、何故なら満ち足りているから───。
「私がお前を抹消してやる」
そう言い放ったジャスティアの姿はとても気高く美しいものに見えるに違いない。
だが邪神の見方は違う。そこに立つ者はどす黒い闇を纏い何より醜く汚く邪悪で極悪で───そう、まさに───。
「お前は俺だ」
『邪心対邪心』の戦いに他ならなかった。




