第78話 序章の猶予
汐咲を背負ったまま唯は自宅へと戻ると、一階にある和室へと移動しリーナに頼んで布団を敷いてもらった後、その布団に汐咲を寝かせた。
先程僅かに意識を取り戻したものの、汐咲は再び意識を失い昏睡状態に陥っている。
唯は汐咲をベッドで寝かせた後、リーナと共にリビングへと移動すると、そこには神妙な面持ちの空が立っていた。
桜と鈴もまた椅子には座らず睨むように空を見つめており、誰も何も口を開かず気まずい沈黙が続いている。
「……申し訳ありません、全て僕の責任です」
空はその場に膝を突き、唯に向かって土下座を始めようとした。
だがその行為を見て唯はすかさず空の元へと駆け寄りその肩に手を当て優しく声をかける。
「大丈夫、誰も貴方を責めたりしないわ。だから顔を上げて」
「唯さん……しかし、僕はっ……」
弱々しい眼差しで空は唯を見上げると、唯は力強い眼差しで空を見つめてくれていた。
唯が心配しているのは美癒だけではない。空も、汐咲も、甲斐斗も、皆が心配なのだ。
美癒を一番心配しているのは唯で間違いないだろう、それだというのに不安を見せまいとする唯の態度に空は次第に目の光りを取り戻していく。
「いったいあそこで何があったのか……辛いと思うけど、全てを話してほしいの」
「……分かりました。全てを、お話します」
それから空はあの場で起きた事全てを語り始めた。
汐咲の転移装置により美癒が他世界へと転移した事。
その後、自分達を狙うアルトニアエデンの部隊が現れ、戦闘になった事。
そして……自分が、アルトニアエデンから送り込まれた『刺客』である事を───。
自分の過去を覚えている限り話し続ける空、その想像を絶する過去の話しに桜と鈴の顔から血の気が引いていく。
「理由は分かりません……けれど、僕がこの世界に来た事は、意図的に仕組まれた事だったんです……」
その場に座り込んだまま空は全ての話しを終えるが、俯いたまま顔を上げる事が出来ない。
だがその時、自分を抱きしめてくれる暖かく、柔らかい感触に空は目を見開いた。
「話してくれてありがとう、空君」
優しく喋りかける唯は空を抱きしめたまま離そうとしない、そんな唯の行為に空は呟いた。
「どうして……抱きしめてくれるんですか……?」
罪を犯した、罰を受けなければならない。
そう思っていた空にとって唯の優しさは理解し難いものだった。
「僕は、送り込まれた刺客なんですよ……? それに今の話しだって、僕の作り話だと思わないんですか……? 本当は、僕が美癒さんを転移させたって、考えたって……おかしくないんですよ……? どうして優しくしてくれるんですかッ?……どうして……どうしてぇっ……」
空の目からは無意識に涙が零れ落ち、その間も唯は優しく空を抱きしめていると、唯はそっと体を離して口を開いた。
「貴方は私達にとって、立派な騎士だからよ」
騎士───。
「でも、僕は……美癒さんを……」
守れなかった───。
「美癒は貴方を待っている、貴方の助けを求めて待っているのよ。私には分かるの、美癒は生きてる。だから守りに行けるの、助けに行けるの……貴方の強い『意志』さえあれば」
「僕の……意思……?」
「そう、貴方自身の意思よ。自分を信じなさい、貴方の胸の内から込み上げて来る感情は貴方だけのもの、誰かに作られたものではないわ」
空の性格、人格、思考、それらの全てが作られたもの、または嘘、偽りであるはずがない。
唯には断言出来る根拠がある、それは今まで共に過ごしてきた生活の日々で十分だった。
楽しい日々を思い出すのは唯だけではない、桜や鈴もまた空との思い出が蘇る。
今まで共に過ごし、同じ時間を共有した空は紛れも無く本物の『風霧空』であり、それ以上でもなければそれ以下でもない。
つまり偽者でもなければ作り物でもない、それこそこが『風霧空』なのだ。
「僕ッ……僕は……」
今胸に宿る感情は他人の作り物なのか、そういう思考になるように設定されてあるだけなのだろうか。
そのような愚考は、唯の言葉を聞いてどうでもよくなっていた。
今自分は何を思い、何が出来るのか、その答えは既に出ている。
「僕は美癒さんを守りたいっ……助けたい! 僕にとって美癒さんは、掛け替えの無い大切な人だから……!」
「……うん、ありがとう。空君ならそう言ってくれるって信じてた」
唯はにこりと笑みを浮かべて空の頭を優しく撫ではじめる。
すると桜が腕を組みながら静かに喋り始める。
「ならば私達も行こう、美癒のいるアルトニアエデンに」
その言葉に空は振り返ると、鈴はやる気満々のポーズを取ってみせる。
「危険は百も承知や! でも、美癒っちは私達にとっても大切な人やもんね!」
「忘れるなよ空、私達だってお前と思いは同じなのだからな。皆で助けに行くぞ」
皆の思いが一つになり、一致団結をした直後。
その男の声は突然聞こえてきた。
「いえ、それは止めた方がいいですよ」
落ち着いた物言いとは裏腹にその声を聞いた空達は動揺してしまう。
声のする方を皆が見ればリビングの扉が開かれ、一人の男が立っていた。
(っ!? 何時の間に……?)
リーナはその男の気配を察知する事が出来なかった、つまりこの男が『実力者』である事を直ぐに察知すると、その男を見た空が名前を呼んだ。
「龍馬さん!!?」
皆が驚く中、相変わらず龍馬は何時もの澄ました表情で軽く会釈をしながら冷静に自己紹介をしはじめる。
「初めまして、アルトニアエデンで『アディン』を勤めている薙龍馬と言います、以後お見知りおきを」
「アディン!?」
その危険性を知る桜は直ぐに刀を手を伸ばし、リーナもまた右手に輝剣を召喚し構えるが、龍馬は余裕の表情を浮かべながら両手を軽く上げ戦意が無い事を伝える。
「落ち着いてください、私は戦いに来た訳ではありませんよ。確認したい重要な事がありましたので此方に来たのです」
龍馬の態度と言葉を聞いても未だに臨戦態勢の桜とリーナだが、龍馬の言う重要な事が気になり言葉を待つ。
「時は一刻を争います。天百合唯さん、私の質問に正直にお答えいただけますか?」
まるで唯は龍馬が自分に問いかける事が分かっていたかのように落ち着いた態度で立ち上がると、静かに頷いてみせる。
「天百合美癒さんは、貴方と甲斐斗さんの子供で間違いありませんね?」
それは甲斐斗と唯にとってタブーとされていた質問。
鈴と桜の二人は呆気に取られた様子で龍馬の質問の意味が出来ていないが、その真実の答えを知らない空と龍馬はじっと唯を見つめ続けた。
その答えを本人の口から聞ければその答えは絶対となる……唯はその質問を聞き自分の胸に手を当て力強い目でハッキリと答えた。
「……ええ、間違いないわ。美癒は、私と甲斐斗の子よ」
次元を超え、別の世界へと降り立った甲斐斗。
そこは当然アルトニアエデンのはず……だったのだが、別の世界へと軸を曲げられた感触を甲斐斗が襲い、気付いた時には見慣れない光景の広がる場所へと来ていた。
狭く薄暗い室内の中、巨大な魔法陣の上に立ったまま甲斐斗は腕を組んでいると、目の前には黒いフードを被り仮面を被った人間が一人だけ立っていた。
「お待ちしておりました、魔神。私は───」
言葉が遮られ仮面が血飛沫で染まり、その身が震え痙攣を始める。
「ああ、なるほど、分かった。ご苦労さん」
既に甲斐斗は仮面の人間の背後に立っており、黒く輝く右手をその人間の頭部から引き抜くと、ピンク色の脳みそを握り締めながら記憶を読み取っていく。
「この俺の正体を知っていながら、『待っている』だと……?」
脳から全ての情報を引き出した甲斐斗は軽々と脳みそを握り潰した後、再び足元に輝く魔法陣を広げた。
「だとすれば、今まで出会ってきた誰よりも『最強』で、『最低』の奴なんだろうな」
そして甲斐斗は再び別世界へと転移する、自分を待つ『最強』で『最低』の者の居る場所へと───。
その世界、辺りは草木が一本も生えていない荒野が広がっており、その荒野の上で魔装着に身を包み、後ろ手に縛られた美癒が座らされていた。
美癒の横には純白の鎧を身に纏ったジャスティアが目を瞑った状態で両手に剣を持ち、その剣先を地面に突き刺したまま直立不動で立ち続けている。
「あの……どうしてジャスティアさんはこのような事をするんですか……?」
横に立つジャスティアを見上げながら美癒はそう聞いてみるものの返事はない。
「『審判の日』って、シルトさんは言ってました……。私も、甲斐斗も、何を裁かれるんですか……?」
「哀れだな」
「えっ……?」
「所詮お前は道具に過ぎない」
それだけ言うとジャスティアは再び沈黙を続け、それ以上美癒も話しかける事が出来なかった。
不穏な空気が立ち込める中、雲一つ無い快晴が広がり日の光が延々と二人に降り注ぐ。
「……来たか」
心地良いそよ風に長髪を靡かせていたジャスティアはそう呟くと、徐に目蓋を開き迫り来る存在に目を向けた。
風で砂が舞い、その者の周りの空気だけが荒ぶる中、確かに見える赤く輝く瞳。
その身に覇気を纏い、ゆっくりと、確実に、一歩ずつ近づいてくるその存在に美癒は息を呑み、ジャスティアはただただ睨み続ける。
「甲斐斗!」
自分を助けに来てくれた甲斐斗を見て美癒が名前を呼ぶと、確かに声が返ってきた。
「よう美癒、無事そうで何よりだ。待たせてすまなかったな。……で、お前か。全ての黒幕は」
足を止めた途端に吹き荒れていた砂嵐は止み、そこには腕を組み甲斐斗が仁王立ちをしていた。
「誰だか知らねえが最後に一つだけ聞いてやる、刺客を送り美癒を襲わせていた理由は何だ?」
その理由を聞いた後、甲斐斗は目の前のジャスティアを殺し美癒と元の世界へと帰ろうと考えていた。
するとジャスティアは薄らと笑みを浮かべ遠い眼差しで空を見上げた。
「『知らない』。か……違いない、お前にとって私の存在など塵をも同然だろうな」
「は? 当たり前だろ。つーかお前、こんな事してまだ自分の立場が分かってないみたいだが……もし美癒に指一本でも触れてみろ、何があっても絶対に『死なせねえ』からなァッ……」
殺気のような威圧的な覇気を全身から漂わせる甲斐斗。
だが、ジャスティアはそんな甲斐斗を見ても尚剣を構えようともせず、あろうことか視線を甲斐斗から美癒に向けた。
「美癒、魔法は好きか?」
唐突に話しを振られ美癒は少し反応が遅れてしまうが、魔法が好きかと問われ頷こうとした。
昔の自分なら何の躊躇いもなく頷けただろう、しかしこれまでに起きた出来事を振り返る事で美癒の意思には変化が起きていた。
「美癒、お前のこれまでの日々はどうだった?」
これまでの日々? 魔法が有り触れた日々、それは幼い頃から夢見ていた御伽噺のような世界。
だが、現実は自分が夢見ていた世界とは違っていた。
「空君と甲斐斗が私の世界に来てから、色々な事がありました。楽しい事だけじゃなくて、辛い事も、いっぱい……」
楽しい時もあれば悲しい時もあり、出会いがあれば別れもある。
それはこの世の常であり、当然の事とも言える。
一度は折れかけた心も共に支えあう事で強くなり、今だからこそ力強く、本当の意味で言える。
「それでも、私は魔法が好き! これまでの日々も私にとって大切な日々だよ……!」
「ならば問おう。お前は今までの人生、幸せだったと言えるか?」
幸せだった? いいや違う、美癒にとってそれは過去ではないのだ。
「……皆に出会えて、皆と一緒に過ごせて、私……私はっ……今も……!」
これから先、自分に何が待ち受けているなんて美癒には分からない。
不安な事だってある、心配事だってある、しかしそれだけではない。
皆と過ごした日々を思い返せば答えは決まっている、不安や心配は皆で共有し、乗り越えてきた。
これからもそう、皆と共に力を合わせて乗り越えていく、今も、これからも、ずっと、だから───。
「幸せだよっ!!」
今まで座っていた美癒が立ち上がり、目に涙を浮かべて大声を上げた。
その力強い眼差しはジャスティアを見つめており、その瞳を見たジャスティアは目を瞑ると僅かに頷いた。
「それで良い───」
とても優しく、落ち着いた言い方だった。
美癒は肩の力が抜け、ジャスティアの安らいだ表情を見て自然と自分の顔も笑顔になっていく。
そのジャスティアの拳が、自分の腹部に突き出されるまでは───。
今まで感じた事のない衝撃。
体が裂けて貫かれたと錯覚する程の痛み、美癒の体はまるでボールのように地面を跳ねた。
「そうだッ───それでこそッ───」
残酷にも美癒の意識は途絶えない、一瞬で間合いに近づき美癒の目の前に立つジャスティアの瞳は先程のように澄んでなどいなかった。
「穢し甲斐があ゛る゛ぅ゛ッ!!!」
美癒は余りの激痛に声を上げる事すら出来ず、全身を痙攣させその場に血反吐を散らしながら這い蹲る。
美癒の着ていた魔装着は醜く汚れ、目を見開き必死に呼吸を行おうとしたが強引に髪を掴まれ無理やり立ち上がらせると、問答無用でジャスティアは互いの口を密着させ強引に舌が美癒の口の中に入っていく。
「ん゛ん゛っ!? んぐッ……んぅっ゛……!?」
混乱する美癒の前でもジャスティアは一切動揺せずに酸素を欲しがり呼吸をしようとする美癒の口の中を弄び続け、美癒の目から大量の涙が零れ落ち始めたのを見てジャスティアは自分の息を流し込むように吐き出し続ける。
今の混乱した美癒にはそれ以外に呼吸できる方法など考えられず、離れるのが無理だと理解した途端、口を付けられ離れようとしていた美癒が自らジャスティアの口に密着させ呼吸を行っていた。
その余りの衝撃に甲斐斗は最初目を見開いたまま何も出来ずに立っていた。
何故なら甲斐斗の感情が既に異常値に達し、怒りの限界が振り切れていたからだ。
望んでいた幸せな世界は崩壊した。
望んでいた綺麗な世界は崩壊した。
望んでいた楽しい世界は崩壊した。
音を立て、崩れ落ち、無へと還る───。
「お、おま……おまえ゛っ……ア゛ッがゥ゛グィギぎかぁァ゛ッ゛ッ゛!!!」
一切の手加減など、してやるものか。
甲斐斗の足元に黒光を放つ魔方陣が浮かび上がると、赤く濁った瞳を輝かせ体内から漆黒の如く黒い魔力が噴出すように溢れ始める。
「ギヒ、ギヒヒヒッ! ギャヒャひャヒゃヒャひャヒゃひゃァッ!!!!」
再び解放される『最強』の力。
強大かつ凶悪なオーラは甲斐斗の周りの空間を歪め、付近の砂や石が重力に逆らいゆっくりと浮上すらしはじめていた。
「オ前は絶対に越えテハならなイ一線を越エタ……『地獄』を見ル覚悟すラ、オ前にハ与えネエ゛ッ!!」
完全に変身を遂げた甲斐斗、漆黒のオーラは大地を染めジャスティアの足元にまで忍び寄っていた。
するとジャスティアは美癒の掴んでいた髪を放し足元に投げ捨てると、地面に突き刺していた剣を引き抜き一振りしてみせた。
たった一振りしただけだというのに忍び寄ろうとしていた影は掻き消され、その剣を握り締めたままジャスティアは肩を震わせていた。
「クク、クククッ……! ハハハハハハッ!!! アハハハハハハハハハハハハハハ!!!」
闇を纏う甲斐斗を前に高らかに笑ってみせるジャスティア、今この時が余程嬉しく、楽しいのだろう、そう思わせる程ジャスティアの表情は感情に満ち溢れていた。
「この私に地獄だと? 笑わせるなッ!! 既に私が地獄と化し、こうしてお前の前にいるではないかッ!! 掛かって来い『魔神』。お前にとっての『全て』、私の手で穢してやる」
振り終えた剣を両手で構え、全身に身に付けている鎧から眩く美しい輝きを発しながら言葉を続ける。
「さあ、『審判の日』は訪れた。今から行われるのは一方的な『裁き』だ、精々楽しませてくれよ? この私を狂わせる程になぁ」
酔いしれるような顔でそう言い放ったジャスティア、その表情は鎧から発せられる透き通るような光と対照的に、濁り、歪み。
既に、狂気に満ち溢れていた。




