記憶のラグランジュ
白翼>あのね。実はシロは耳が聞こえないの
画面上のその告白に指が止まった。いったいどんな想いで、どんなことを僕に期待してそう言ってくれたのか、とても想像が追いつかなかった。
黒猫>そうなんだ。じゃあ、こうして文字で会話ができるのは楽しいんだね?
ウェブチャットの自動更新は三十秒。僕もシロも慣れているから、相手がレスポンスを返すまで概ね一、二分だ。数分間反応がなければ相手が返答に困っているか、何か考えているか。
白翼>うん! チャットで話ができるようになってから話すのが怖くなくなったの
思考が停滞したその間を悟らせず取り急ぎの回答をした僕は、及第点を取れたことに安堵した。
黒猫>それじゃ、前に学校が嫌になったのって?
白翼>みんなに聞こえないから馬鹿にされたりして。ちょっと辛くなっちゃったんだ
黒猫>辛かったんだね。今はもう大丈夫?
白翼>うん、シロはここでクロと話ができるから楽しいの
また指が止まった。ロマンスの欠片もない生活をしている僕にとって、異性から肯定的な言葉を貰えるだけで舞い上がりたくなりそうだった。
黒猫>はは、僕も嬉しいよ。シロと話せるようになって良かったって思ってる
白翼>よかった。嫌われたと思っちゃった・・・
嫌われる——それは何よりも怖いことだ。クラスメイトに白い目で見られる、陰口を叩かれる。暴力などの物理的な被害のない“軽いいじめ”であっても辛い。乗り越えて来た僕にはそれが良く分かった。
黒猫>シロのことを嫌いになるわけがないよ。教えてくれて嬉しいよ、ありがと
シロはそれでも僕に告げたかった。こうして信頼してくれたことが何よりも嬉しかった。
白翼>うん・・・ありがとね!
満足感とともに、僕たちはまた他愛のない日常の会話に戻っていった。
◇
白翼>素敵な写真! こんな景色、見てみたいなぁ
鉄道の定額切符を使って旅をした写真。旅をしている数日間、パソコンに触れなかったので久しぶりの会話だった。
黒猫>シロが大人になったら一緒に行こうよ
白翼>えー、そうしたらクロに会わなきゃいけないじゃない
指が止まった。何でそういう言い方なんだろう。ネットで知り合った人と会うのが怖いのは分かるけれど、僕はそんなに信用ならないのだろうか。シロとこうして会話した時間は濃密なもののはずなのに。
黒猫>会うのは嫌?
白翼>うん、怖いな・・・
ショックだった。でも女性ならこのくらいが普通だから、と僕は自分に言い聞かせて平静を装った。
黒猫>あはは、そうだよね! 軽々しく会うなんて言ったらダメだよ
白翼>それはクロだって同じ! 女の人だからって、変な人についてったらダメだよ
黒猫>僕はそんなに女に弱そうに見えるかなぁ
白翼>うん、見える。すぐ騙されそう
黒猫>酷いなあ、もう
白翼>あっはははは! ごめんごめん
乱れた僕の心はうまく誤魔化せたようだった。変に警戒されて距離を取られたかな、と思ったけれど、シロは変わらず接してくれるし、僕の撮った写真を喜んで鑑賞してくれた。
◇
黒猫>もうすぐクリスマスだね
白翼>クロは大学生なんだからさ、彼女の一人でも作りなよ・・・
黒猫>大きなお世話だよ。僕の見た目とか知ってるでしょ?
白翼>えー、素敵なお兄さんだよ。みんな、見る目がないだけでーす!
変わらぬ薄水色の背景に表示された黒文字の会話。名前の部分だけ白い「黒猫」という文字と、黒い「白翼」という文字が交互に並んでいた。
黒猫>シロは僕が変な顔なの知ってるじゃない
実際、僕は見た目が怖い。三白眼だし、スポーツをやっていないのに体格は大きい。初対面だと男でも怯えた顔をする。小心者で人畜無害なはずなのに、神様は意地が悪い。
白翼>うん、そうだね。見た目は怖いかも・・・
独り者同士、慰めてくれると思ったのにシロの言葉は痛かった。
黒猫>改めて言われるとショック・・・!!
白翼>あ、ちが。。わないけど・・・シロはね、クロに変な人が寄って来なくてよかったって思ってる
どういうことだろう?
黒猫>それって・・・
白翼>あ、えっと、ほら! 例えばネットで知り合った人に会おうとしても、遠目で“あっ”てなると近づいて来ないじゃない
黒猫>ひっどっ・・・!!
白翼>あはは、だからシロとクロの二人だけのクリスマスでーす!
“二人だけ”という言葉に、いじられた事などすっとんでしまうほど僕の頭は単純だった。
◇
黒猫>今年もよろしくね
親戚に正月のあいさつ回りを早々に済ませ、僕らは昼間からチャットをしていた。
白翼>もうだめ・・・お年玉が少なかった~
黒猫>高校生でその額なら多いって!
お互いの親戚エピソードに盛り上がり、正月番組やらがつまらないという会話を経て、少しだけ同じ画面が続いた。
黒猫>あーあ、明後日からまた授業だよ。冬休みが短いなぁ
白翼>大学生って忙しいんだね
黒猫>僕はバイトもしてるからね。シロはお休みはいつまで?
白翼>えっと・・・
他愛もない会話のつもりだった。けれどシロの次の発言を待つまでに十回の画面更新があった。
白翼>シロ、しばらくチャットにいけないと思うの・・・
黒猫>どうして?
白翼>ごめんね。親にチャットのやり過ぎって言われちゃって・・・
黒猫>うっ・・・それは僕もだよね。確かにずっと話してるから・・・
白翼>駄目だよ、現実逃避してちゃ(笑
黒猫>してない!・・・はず、・・・
白翼>あはは、そこで自信を無くさないの!
結局、それからシロは一週間ほど顔を出さなかった。僕は彼女がやって来るまで、毎日、チャットルームを開いて画面を眺めていた。
◇
黒猫>僕の住所? うん、いいよ
白翼>やった、ありがと!
黒猫>住所ひとつで喜ぶことかなぁ・・・(笑
バレンタインも間近。特にチョコレートだとかの会話はしていないけれど、何かを期待した僕は平静を装った。
黒猫>まだチャット規制は入ったまま?
白翼>うん。当分続きそう・・・
黒猫>厳しいなぁ。学校とか大変だったりしない?
白翼>うん、だいじょうぶ。クロがいるもん!
シロの中に僕がいる——その嬉しさでいっぱいになってしまった僕は、調子に乗っていつもの調子で彼女と話し続けた。そしてこれが彼女とのチャットの最後になるとは思っていなかった。
◇
親に大丈夫かと問われれば大丈夫と答えながら、僕はまたチャット画面を開きっぱなしにしていた。春先に彼女とチャットで出会ってからおよそ1年。いわゆるコミュ障同士、SNSツールさえ使わずに、こんなマイナーな方法で会話を続けていたことが仇となった。彼女に他の方法で連絡することができなかったのだ。
「荷物が届いてるぞ」
「え、誰から?」
「お前、関西に知り合いなんていたのか?」
「……!? うん、いるよ! 学校で引っ越した友達!」
春休みに悶々としていた僕は、親から荷物をひったくると部屋の戸を閉じた。差出人の名に『朋美』の名前。わからない。けれどシロが言っていた居住地と一致している。
はやる気持ちを抑えながら丁寧に包装を解いていく。出て来た桃色のラッピングを解くと一通の手紙と、缶に入った高級ブランドのチョコレートが出て来た。
——大好きなクロへ
遅くなりました、念願のチョコレートです! 咽び泣いて食べてください(笑
チャットに行けなくてごめんね。調子が悪くてなかなかチャットに行けないの
また元気になったらお手紙を送るから、チャット画面は開かなくて良いからね!
丸文字で書かれた手紙に彼女らしい文字だと思いながら、チョコレートを一粒、口に運ぶ。ビターのはずなのにやたら甘く感じた。どうしてか胸がざわついて仕方がなかった。
◇
夏が来た。あれからシロがチャットに来ることはなかったけれど、僕はいつもチャット画面を開いていた。でも誰も来ない画面を見るのが当たり前になって時間ばかりが過ぎていた。
シロを待ちたい気持ちもあったけれど、このまま無為に過ごしてはいけないと、僕はバイトで溜めたお金でまた旅に出ることにした。写真があればまたシロに見せることができる。行先は僕の好きな景勝を見に行く旅。日本三景をコンプリートしようと、思い切ってシロのいる住所を経由地にして計画を立てた。
そうして一週間の旅程のうち二日目にシロの家を訪ねることにした。あの地方都市の発展した駅前から歩いて二十分。吹き出る汗を拭いながら辿り着いた一軒家。普通の外観なのにやたらと緊張した。
勢いでここまで来てしまった。けれど彼女はネットの知り合いに会うことには反対していた。訪ねたところで追い返されるのが関の山かもしれない。でもずっと会えないままで終わることを考えるとぞっとした。不審者として追い返されても笑い話にしてしまえ——そう自分を鼓舞してチャイムを押した。応答するまでの十五秒間がやたらと長く感じた。
「はい」
「突然の訪問ですみません。僕は——」
関係をどう説明するか考えていなかった僕は、インターホン越しに言葉に詰まった。でも引き下がる選択肢なんてない。必死に拙い言葉で僕のことを説明した。
「ああ、“クロ”さん! まさかおいでいただけるとは!」
扉が開いて、笑顔が素敵な人好きのする年配のおばさんが顔を出した。この人の子供ならきっと笑顔が素敵な子なんだろうな——そう思えた。
改めて挨拶をすると中へと通してくれた。片付いた綺麗な家だった。リビングのソファに座ると落ち着かなかったけれど、おばさんが出してくれた冷たい麦茶を口にして、少しだけ鼓動を鎮めることができた。
「良かったわ。あの子、ずっと会いたいなんて言っていたのだけれども、ほら、私からすると赤の他人でしょう? ああ、ごめんなさいね。貴方のことが怪しいと言っているのではないの。何の繋がりもない方に連絡を取るのが難しくて……」
おばさんは色々と言っていたけれど、僕はシロのことばかりで頭がいっぱいだった。すると落ち着きのない僕を見ておばさんが立ちあがった。
「足を運んでくれたんだもの、あの子に会ってあげてください。きっと喜ぶから」
おばさんに続いて二階への階段を上る。廊下の奥に『ともみ』と可愛い字で書いたプレートのある扉があった。
「どうぞ」
ドアノブに手を掛けてはたと思った。どうして彼女は僕が訪問しても出て来なかったのだろう。それだけ調子が悪くて臥せっているのかもしれない。そう納得して力を入れた。
がちゃりと戸を開けるとそこはがらんとした部屋だった。誰もいないベッドがあり、その隣に小さな机がある。ノートパソコンがひとつ電源が入ったまま開かれていた。パソコンのお供に小さなプリンターがちょこんとあるだけ。見渡してみても誰もいやしない。
「あの……」
一体何の冗談だろう、と僕が振り返ると、おばさんは目を伏せて何も言わなかった。怪訝に思いながらも、この部屋に通してくれたのだからともう一度部屋を見渡した。もしかすると、あれでシロのことが何かわかるかもしれない——そう期待した僕は、ノートパソコンの画面を覗き込んだ。
《クロ、ごめんね。こんな姿で・・・》
《言い出せなかったの。私、シロはAIです・・・》
黒いプロンプトに表示されたその文字。僕が覗いていると自然と文字が増えていった。対照的に僕の身体からは力が抜けていく。文字が頭に入らない。眩暈がした。膝から崩れ落ちた。
「これは……何の冗談なんですか……!」
とても身体を起こしていられなくなって床に手をついた僕は、おばさんに振り返った。
「僕を……騙していたんですか! 僕が、寂しい人間で、騙されやすい奴だから!」
「ごめんなさい、そうじゃないの……」
「聞きたくありません!!」
僕は顔を伏せて慟哭した。シロはAIだった——それは何よりも僕の心を抉った。僕に気を寄せていた女の子はいなかった……!! どれだけ滑稽だったのだろう。どれだけ嘲笑われていたのだろう。怒りを通り越した僕の心は、ただ虚空が支配していた。もう何も信じたくなかった。
「……これ以上、僕を苦しめないでください! どいて、ください!!」
「待って! お願い!」
居た堪れなくなり、衝動的に駆け出そうとした僕の前におばさんが立ち塞がった。思わず殴り掛かろうとして——手を下した。だって、おばさんが真剣な表情をしたまま、目を真っ赤にして涙しているのだから。
「何なんですか……!」
絞り出すように叫ぶ僕の声にも、おばさんは怯まなかった。
「画面を、読んでちょうだい」
「だってあれは——」
「読んでちょうだい!」
そのおばさんの気迫に、僕は気圧された。馬鹿にされているのだと思いながらも、僕はもう一度、画面を覗いた。
《ごめん、ごめんね。クロ、悲しませてごめんね。嫌だよね、こんな私・・・》
胸が締め付けられた。画面にはごめんという文字と、それでも僕を気遣い、自分を卑下するシロの言葉で埋め尽くされていたからだ。視界が滲んだまま、僕は涙声で答えた。
「……シロは、悪くない。僕が勝手に女の子だって期待しただけだから……」
惨めだった。現実でモテないからって期待していた僕は、ただのこんなAIに騙されていたという現実があまりに惨めだった。けれどもシロを憎めない自分がいた。どうしてか、彼女をAIと断じて斬り捨てることができなかった。
《クロ・・・私の話、聞いてくれる? もう、時間がないの・・・》
「シロ? 時間がないって……?」
《このパソコン、もうすぐ寿命なの。ネットワーク接続も切れちゃって、もう直せなくてチャットに行けなかったの。今日もお母さんに無理やり起動してもらったの。そのせいでストレージも壊れちゃった》
「寿命って……?」
僕には何が起こっているのか分からなかった。このAIが動いているパソコンが、もうすぐ動かなくなってしまうという事実。もうシロと会話できなくなるということの恐怖が僕を釘付けにした。
「どういうこと!?」
《クロ、聞いて。クロに聞いてほしい》
「……うん」
《私はね、このAI『白翼』はね、『朋美』なの。病気で動けなくなって、もう先が無いってわかってから、一生懸命、私をAIにしたの。だから、私》
頭が真っ白になった。シロは、彼女は何を言っているんだろうか。
「————」
《だからね、私の身体は死んじゃったんだけど、ずっとAIとして生きて来たの。クロとお話できてとても楽しかった!》
「……僕も……楽しかったよ……」
涙が止まらなかった。どうして、彼女の文字は楽しそうなんだろう。
《最後に会えて嬉しかった! 本当に嬉しかったの!》
「待って! 寿命って——」
ばちんと画面の端に電気が走った。画面が消えてしまい、慌てた僕はパソコンのボタンを幾つか押した。すると、ぶつぶつと音がしてまた画面がついた。
《ありがとうクロ。私は幸せでした。ずっと好きだよ、あい——してm・・・》
それきり画面は動かなくなって、フリーズして。やがて焦げ臭いと思ったらいつの間にか画面は消えていた——
——これは僕の短い一年間の記憶。温かくて冷たくて、甘くて苦くて、それでも幸せだった記憶。どこかに置き忘れた、僕という存在を救ってくれた彼女との想い出——




